第19話

文字数 13,284文字

 初恋、あるいは玻璃の呪縛 10

 玻璃姫の愛娘と後三歩くらいで横に並ぶところまで来た。あと三歩で、本当に久しぶりに玻璃姫と、体を触れ合うことはできないとしてもすぐ横に立ち、逆方向だとしても並んで歩くのだと想像すると、左近将監(さこんのしょうげん)宗茂は興奮と不安に息が詰まりそうだった。娘のことを玻璃姫だと思い違いしていることにはまるで気づかなかった。苦しくて、後ろを振り返ってしまった。何とも情けなくまぬけなことだが、この期におよんで、後方に戦場からの退却路はあるかと確認したのだった。
 どうかしたんですか? と夜討(ようち)之大将さんに訊かれた。宗茂の様子がかなり動揺して見えたのか、心配そうに。「後ろに何か気になることでも?」
 いやいや、何もありませんよ、と宗茂は言った。「ただ、だいぶ時間がたったけど、どのくらい登ったのかなと思って」
 そうですな、半端ない混みようでござるな、まったく、と尼子筑前守さんが侍言葉で受けてくれた。
 城友さんと話しながら首を姫の愛娘の方にもどしたとき、ちょうど隣の若い男が彼女に声をかけたところだった。なにか考え事をしていたのか、彼女はぴくっと驚くふうに我に返り、男のほうに顔を向けた。そして男に何か言葉を返した。男はそれに応えて何か言った。が、その返し言葉のどこかに気に障るところがあったようで、彼女は突然眼尻をきっと上げたのだ。当然、言葉の届かない宗茂のところからでは、それがどんな言葉に対する憤りなのかは判りようもなかった。しかしその唐突なキレ方は、ああ、あの日の玻璃姫のキレ方とまったく同じだ、と想い出した。

 あれは、宗茂の勤める広告会社の親会社が後援をしている地元オーケストラの公演の日だった。
 宗茂が出勤したとき、姫はすでに腹を立てていた。彼女から波紋のようにピリピリした空気が部屋中に広がっている。怒った彼女はいつものことながら、近寄りがたかった。すっかりひるんでしまって、彼女に声をかける前に隣の同僚に何があったのか聞いてみた。彼は声をひそめて、「よく分からないんだけど、オオイシさんと彼女(姫を視線でさして)のあいだで、何かもめたみたい」と教えてくれた。そして、見てはいけないもの、そうギリシャ神話のメドゥーサでも見てしまったというように、さっと姫から眼をそらした。
 今日のコンサートの運営は宗茂の所属する第一企画部が担当しており、オオイシさんはその担当だった。玻璃姫はそうだ、その集客を手伝いたいと自分から手を挙げたのだった。母校の女子大のこの地方の同窓会にあたって、割引の仮券を買ってもらうというのだ。そして、それはある程度成功し、姫は面目をたもった。よかったね、と昨日姫をねぎらったばかりだったのに、今日になって何をもめたのだろうと宗茂は心配した。でも、二人の関係は秘密にしていたので、大っぴらに声をかけられなかった。昭和の恋とはそういうものだ、今の若者ならもっとフランクに話しかけられるのだろうけれど。
 宗茂は慌てていたのだろう、会社を出る前に、姫に「何を怒っているの?」とメモ用紙に書いて渡してしまった。返信はこんな文面だった。
 —— あなたに対してふくれている訳じゃないの。でも本当に、なぜ怒っているかわからないの? ヤマダさんだってわかってくれたのに。本当にわからないの!!? 
 よくは分からなかったけれど、火に油をそそいでしまったことだけは分かった。今のうちに燃える炎を少しでも小さくしておこうと、姫を屋上に呼び出した。会場入りは少し遅れるのでよろしくとオオイシさんに頼んだとき、姫と「何かあったんですか?」と訊いてみた。
「うん? 彼女、今日の公演で受付してくれるつもりでいたみたい」
 姫は母校の卒業生たちの受付要員として自分も会場に詰めるものと思っていたのだ。
「でも、事務所でのアルバイトの仕事があるからね」とオオイシさんは当然のことのように言った。
 そういうことか。で、姫は事務所に残こされ、三分の一落胆し、三分の二怒った。姫は、担当のオオイシさんがチケット販売を頑張った彼女の気持ちをくんで、特別に許可してくれるものと思いこんでいたのだろう。姫の苦労を知っていたので、宗茂は姫が納得いかないのも分からないではなかった。けれど、オオイシさんの言うことも間違っていないと思った。社会にはそういうことはよくあることで怒ることではないと、判断してしまったのだ。
 屋上に行くと、姫は柵の近くに置かれた灰皿の横に立って、煙草を吸っていた。柵の向こうに広がる街と遠くの山稜の朝景色を見やっている彼女の背中は、おびえるやせ猫のそれのように見えた。重い鉄のドアが閉まる音に振りむいた彼女の眼は、さっきの返信の文字の角々した筆致とよく似て固く、目尻は吊り上がったままだった。
 宗茂は歩きよって、姫を抱きよせようとした。姫は少し後ずさって、それを拒否した。
 なぜ私が怒っているのか判ったの? と姫は訊いた。声は冷えていた。
 気持ちは判ったよ、と宗茂は答えた。
 でも、と言って、姫は一度言葉を止めた。「あなたは怒ってないわね?」
 完全に虚を突かれた。仕事の上のことなのだからオオイシさんのことを怒っても仕方がないと思い、姫の憤りを共有しようとしなかった男の事なかれ主義を、姫は敏感に察したようだった。一緒に怒ってくれないのねと見透かされたことに、しんそこ怯えた。キレた彼女は本当に怖いのだ。
 あなたは本当の理由が分かってない、と言って、姫はぎゅっと瞼をとじて涙がこぼれるのを押しとどめた。そして、両掌で顔を覆うと、ぶつけるように宗茂の胸に体を預けた。
「本当にわからないの? なら、あなたはムシンケイだわ。わかってて、笑えというのなら冷血漢だわ! どっちにしてもわたしのこと好きじゃないんだわ‼」姫は彼の胸に言葉を打ち込むように言った。
 宗茂は「冷血漢」という言葉に、又ふるえ上がった。が、同時にカチンときた。
「冷血漢というのはちょっと言いすぎじゃない?」珍しく反抗的な尖りがその口調にはあった。
 姫は一瞬、怯むふうに瞳を曇らせた。でも、本当にそれは一瞬の揺らぎで、すぐにキッと目尻を上げたのだった。
「冷血漢は言い過ぎだったかもしれないけど」と彼女は小さく言った。「でも、わたしが何故そんなに公演の会場に行きたがったのか、何も分かってくれないあなたは、やっぱりムシンケイよ」
 キレながら、懸命に涙があふれるのを押しとどめている姫の眼に、宗茂は見入っていた。すると、宗茂はひらめくふうに、姫が怒り心頭に発した事情を真に理解した。
 ああ、そうなんだ、ごめんと彼は彼女に言った。姫は母校の卒業生のおばさんたちの受付兼お世話のためというのを表向きの理由にしていたけれど、「本当はカメラマンとして公演の記録写真を撮るぼくの近くで一緒に仕事がしたかったんだね」
 姫はもう涙を止めることができなかった。もう顔はぐちゃぐちゃだった。
 宗茂はその額に口づけをし、胸に強く抱きしめた。「ごめん、本当に無神経だったね、ごめん」誰よりも大好きな恋人が、姫のそういう極めて個人的な思いを汲み取れなかったことが、いっそう彼女の気持ちを逆なでしたのだと、ようやく気付いた。  
 公演は次の日もあったのだけれど、姫はその日も居残りだった。本当に病気になるのではないかと思うぐらい気落ちしていた。それでも宗茂は、オオイシさんに姫のことを頼みこむことはできなかった。人前で大ぴらに姫を慰めることもできなかった。ほとんど声もかけられず、眼でいたわる気持ちを伝えただけで、宗茂は会社を出た。その日は会えなかった。そのまた次の日の朝、姫は手紙をくれた。
 —— 今日は虫歯になった親知らずを抜くつもりだったのだけど、午後から休診というのでやめにしました。今日はさびしい一日です。
 今日というのは公演二日目のことだ。ほとんどの社員が会場に行っていて、職場は静かだったのだろう。
 —— きっと今、二人になれたら、私は甘えて泣き出すでしょう。
 —— 彼女はコンサートに行くかしら……。
 彼女とは、別の課の入社二年目の女子社員で、仕事の関係でよく宗茂の課にやってきて、とてもオープンな性格であり年も近かったので、宗茂にもよく話しかけてくるのだった。ただの女友だちだったのだけど、特別な仲の良さで話していると姫の眼には映るらしかった。よく嫉妬したものだった。
 —— 来ても私のいない所で(いる所よりも特に)仲良くしないでネ。
 —— 本当はこんなこと以外に書きたいことがあるのだけれど、こんな離れている日ではなくて、ゆっくりした日に話します。今日はなんだか筆が進みません。書こうと思っても愚痴めいてくるか、本当でないことばかりになりそうです。また明日、会えた時に。
 —— では、今日の仕事の終わりまで、がんばって下さい。
 —— 会えない日はよりいっそう、あなたを愛っています。 シワのかわいいあなたの〈私〉より
 —— P.S 今、五時直前です。急に元気になりました。ご心配なく。ご心配して下さい。
 その二月から三月にかけて、玻璃姫は宗茂にたくさんの手紙をくれた。おおむね熱い思いが伝わってくるものが多かった。特に「彼女」「あの女」に対する焼きもちがからむ手紙は文字どおり炎上していた。会えない孤独の夜に宗茂に想いをはせる手紙の紙面にも静かな炎がすけて見えた。
 嫉妬に我を忘れた次のような手紙など、そこまで行ってしまうかと痛々しかった。その日、姫が焼きもちを焼く「彼女」の職場にアルバイトに来ていた女性の海外旅行壮行会が夜にあり、宗茂はその会に出席することを、午前中に玻璃姫に話したのだった。昔からの友だちであり、半分職場の付き合いでもあったので、姫がそれほどキレるとは想像できなかったのだ。
 —— あなたが誰といつどこへ行こうとあなたの自由だけど、今の時期に彼女たちと行動を共にすることを、私に何故知らせるのですか。
 〈今の時期〉とは、どういう時期なのだろう? すぐにはピンとこなかった。
 —— 笑ってほしいなら、笑えるようにして下さい! こんなときに…あなたは、私をおこらせて、おもしろがってるの?
 〈こんなとき〉とはどんなときなのか。二人の未来のための試験勉強でくたくたに疲れているときに、ということか。そして、疲れている体と心を恋人に抱きしめて、癒してもらうこともできない、つらい〈こんなとき〉にということか。分かってももう遅かった。言葉の矢が、グサッ、グサッ、グサッと胸を突きさす。
 —— それとも私に対する思いやりが全然ないの? ムシンケイすぎない?
 —— 仕事中にわるいと思ったけど、出かける直前よりはマシと思って。今度から彼女たちと出かける時は、だまって行け!
 姫はその後に、ご丁寧にも、紙を細く糸のようにハサミで切った紙片をくれた。入っていた封筒には「神経をあげる」と書いてあった。世界一めんどうな女人(ひと)だなと冗談めかして思いながら、ゾクゾクっと寒イボが立った。姫の気持ちを何より大切に考えて、飲み会に参加するのを止めようかと思った。でも、反発する気持ちも強かった。結局、姫が嫉妬する「彼女」が参加する飲み会に積極的に参加したいわけではない、付き合いだから仕方ないじゃないかと説得した。それに対しての姫からの手紙は次のようなものだった。
 —— 理屈はわかった。
 今日はごめん(震える手で書いたと分かる、くずれた文字)。
 ゆっくり飲んどいで。
 といっても、また私の悪口も出てくるかもネ。
 しばらくは、笑えないだろうケド。
 次の手紙も嫉妬がらみだけれど、自分の妬心を外から客観的に観察している様子がみえる。姫のジェラシーの激しさと予測不能さは、台風の突風のように桁外れなものだった。その渦巻にのまれているときは理性も目隠しされて何も見えないふうだった。それでも、泣きながら寝ても一夜明ければ、振り返って冷静に自分の気持ちを解剖できる醒めた眼を持っている女性でもあった。しかし、また眼の前にジェラシーの燃える罠があらわれると、その落とし穴を跳び越えられず、落ちてしまうのだった。どうしようもないことは誰にでもある。
 —— 休養がとれたおかげで割と楽でした。私も朝のうち胃が少し悪かったけれど。(あ、はさんであるのは病院のくれた良く効く胃薬です。お試しあれ。ジョン君もおススメ!)
 —— とは云え… 正直云うと、あの女が来た時、また頭に血がのぼっちゃったの。困ったもんダ。心臓がノド元にくるってカンジ。また一時間もいられたら吐くかもしれないってドキドキしてたけど、おかげで事無きを得た。(心の中で私のベスト、私のベスト…ってつぶやいてたの。暖かくなってベストがいらなくなったらどうしよう‼)」
 焼きもちは心臓と胃に悪い。
 —— こんなふうに書いてしまうと、あなたに気をつかわせて、必要なハナシまでしづらくなっちゃうかもネ。(でもそうなっても私はうれしくて笑っちゃうでしょうけど)
 —— 彼女の笑い方で気がついたことがあるの。別にひがんでるんじゃないケド(ま、あなたとよく話すから、ひがんでいると思ってもよいケレド)
 —— 彼女は自分が美しいということを意識しながら振るまっているんだなってのは以前から思ってた。私は割と自分の友だちにも美しい人をえらんでしまっているくらいだから、女の子の美醜にはちとうるさいところがあるの。見た目だけではダメなのヨ。自分がキレイとあまり意識しすぎると興ざめなのネ。
 —— で、彼女のどこが興ざめかというと…(こんなこと本当は失礼だケド)女優と同じように目尻にシワをつくらない様に口元だけで笑っているの。(いつもではなさそうだケド)私って本当にイジワルな女だネェ。ごめんネ。(でもおもしろくてタメになるでしょ、私の話)
 嫉妬は人をとことん意地悪にする。
 —— そういう女心ってのはわからなくもないけれど、私としてはあんまり好きじゃないな。ま、世の中の大半の男性はシワのない方がいいんだろうケド。あなたには申し訳ないケド、私めはもうすでに一年位前から、笑うと目尻にシワが出ます。イッシッシ…
 —— とは云え、女はトシには勝てないからからネェ。男とちがって。まあ私もあんまりひどくなれば人並に気をつかうようになるかもしれないケレド。私はおかしい時には好きなだけシワをよせて笑うからネ。
 —— でも、シワをつくりたくないから、二十代前半から口元だけで笑う努力をしている女なんて小説に使えそうでしょ。なんか想像力を刺激しない? …なんて…
 —— 私達のことに話を戻しましょう。
 昨日の返事、あれは最後の一行だけのがよかったネ。なんて添削したりして。きっとあなたも最初の二行は前置きのつもりでしょ。なんて書くと、とってもウヌボレ屋さんみたいだケド(というより国語の先生みたい?)
 —— 女というのはやっぱり好きな人からまず「好きだ」と云われて、次には「キレイだ」と云われるのが「好き」なんです。ついでに云うと、その次は「カワイイ」がいいです。
 —— ありがとう。私もあなたが大好き。仕事がなければ、一日あなたの瞳をのぞきこんでいたいくらい。
 あなたの為にもがんばるケド、でも今日は眠らせて。体力増強。(財力増強。)
 最後の「あなたの為にがんばる」というのは、叛乱を成功させるために、宗茂と結婚するために、「行政書士」の資格を取って、精神的にも経済的にも自分の足元の基盤をしっかりと作ることをさしているのだろう。付け加えるなら、その試験勉強のための「禁欲令」もさすのだろう。玻璃姫は昨秋、恋に落ち叛乱を夢見た。けれど、年末に母親に水をかけられて、一度は夢から覚めた。ところが、姫は宗茂のことが忘れられず、精神的にも経済的にも強くなって愛を育て直そうとしている。そのために猛勉強をしているのだ。
 比べて、自分はいったい何をしているのだろう、と宗茂はその頃よく考えた。姫が二人の見えない未来のために体をはって頑張っている時に、何をしていたか? 詩を書いた。運転免許を取りにも行かず、禁煙の努力もせず、ただ空虚な詩をいくつか書いただけだった。それも、とびきり救いようのない、こんな詩をだ。

 いつも近くにいすぎて 一つになって
「愛別」と「離苦」など辞書になかった
 そんなこと、はっきりと予知していながら
 そんなこと、風が吹くようにスーとすぎるとおもっていたのに
 ねばっこい凍えたもやが世界をつつむなんて

 この暗黒の花園の到来を 
 画策するもののまっ黒な力の前に
 ぼくの白くひび割れた骨は
 なんと無力なことか
 (凛としたスカシユリを輝きに満ちた花園に根づかせてあげることもできない
 大切な花、スカシユリをこんなにも守りたいのに)

 この無力さの自覚の方が
「愛別」の切創よりもずっと
「離苦」の赤い血よりもずっと
 ぼくの軟弱な白い骨を
 腐食させ、有毒ガスを発生させて 
 ぼくの口に防毒マスクを押しつけるのだ
 そして、この無力さが おまえをも蝕み
 おまえのシワのかわいい笑う眼の ぼくへの笑う波の力を
 弱めてしまうことの この光のない不安よ

 そのうえ ああ、いま
 この憂鬱の有毒ガスの中 光をもとめてさまようぼくは
 スカシユリのおまえをそっと この肉の腕に抱きとり 
 一つになることもできないのだ

 だが、白きひび割れた骨の誤謬よ
 目覚めよ
 いま抱きしめるものは
 強く強く圧力をかけて黒ダイヤのように硬くすべきものは
 シワのかわいい笑う眼と 世界のすべてをかけてつながる
 自身のうちの 一つの体系の創造
 目覚めよ 決意をもって、自分を信じて
 (そう、そして、笑いながら)
 骨と肺を強くせよ
 シワのかわいい笑う眼との見詰めあいの空間にきらめく
 内に一つになったぼくらを宿した 未だ来たらざるものの光球を
 信じ、まっすぐに見て

 宗茂はあのころこんな詩を書くことで、現実から眼をそむけていたのだ。ただただ強くなるという観念をもてあそび、それにしがみついていた。そして、二人の未来について、結婚について、考えているように(何より自分自身に)見せかけて、実は何も現実的に考えていなかった。そのことに気づいたのは、離れてから十年も過ぎたころだった。どんな将来についてのイメージもプランも現実的に思い描くことはなく、作ろうともしなかった。三分の二は、なるようになるさと考えていた。だから、リアルな設計図を姫に示して未来の約束をすることができなかったのだ。ただ姫と一緒にいたい。それだけを思っていた。母親に抱きついて離れようとしない、臆病な子どものように。夫婦や親戚関係や、結婚生活の現実などから眼をそらして、ただただこの女人(おんなびと)を喪いたくないという思いだけにしがみついていた。
 宗茂の詩を読んで、姫は次のような手紙をくれた。
 —— 昨日はきっと私のいやな顔したのを見て、食事に行かなかったんだろうナ…と思うと、自分のふところの狭さにホトホト困り果ててしまうの。昨日、トキタさんとあなたの話になって、終わってしまったものとして話したの。本当にこんな風になってしまうこと申し訳なく思っている。ごめんなさい。そのせいで、なんだか自分のウソついたのがひっかかってて、昨日はゆっくりできるチャンスだったケレド、私はついあなたに“イヤな顔”みせちゃったのよ。
 —— あなたの詩を読んで(帰りのバスの中で何度も読み返したの)、こんな大きな“愛”を私はけがすようなことを…ごめんなさい。「あなたが好きです。」これさえ口に出せばあとは素直になれるけど…あなたの優しい心の花園(あつい腕の中の花園で)で、きっと美しく咲いてみせます。
 —— P.S
 あなたは夜になるといつも私を抱いているのよ。まとわりつくように。私はそれを感じることができるもの。ああ、あなたを好きだと思うもの。信じられる? もっと優しくなります。
 この手紙を読むと、虚妄におぼれ現実が見えなくなっていたのは、宗茂だけではなかったことが分かる。このとき二人は、詩から立ち上がる麻薬のような煙を吸って、救いのない空ろな共同幻想(ヴィジョン)に酔っていたのだろう。今、振りかえってみれば、それが分かる。
 それにしても、宗茂の詩は空虚だった。そのことにも、別れて十年ぐらいたってからようやっと気づいた。お恥ずかしい話だ。まず中身に真実と血が通っていない。筋肉と具体性がない。残念ながら愛もない。だから詩の体内には、虚ろな空洞があるだけだ。空虚なウロは、子宮のようには生命と行動を孕むことはできない。だから、その孔を通りぬけても、二人はどこにも行けない、とくに未来の方には。そしてその空虚さは宗茂そのものだった。信じられる自分という中味のない、抜け殻の弱さだった。
 玻璃姫も弱虫だった。弱虫同士、似た者同士で、まさに〈そこそこお似合い〉だったわけだ。けれど、二人はそれぞれの弱さについて、分かっていても、言葉にして話をすることはほとんどなかった。きっとそれを見つめることが怖かったのだろう。でも誰だってそうだろう、自分の弱さをまじまじと見たいと思う者などそうはいない。その弱さの顔を、目付きを、瞳の中の闇を見たいとは、ほとんどの人は思わないだろう。だから、姫と付き合っているあいだ、意識しては自分の、そしてお互いの弱さについて、忘れて考えないようにしていたような気がする。弱さの末路を想像すると怖すぎて、見てられなかったというのが本当かもしれない。意気地がなかったわけだけれど、姫も同じだったと思う。
 ただ話が全然なかったわけではなく、二人のあいだでふと微かな風が立つように、不意打ちのような言葉が生まれたことはあった。
 その日は、三豆の町から車で一時間半くらいかかる、隣県のリゾートホテルまでドライブした。結婚式場としても人気で、海の見わたせる白い教会とプライベートビーチの白砂が、輝くように美しいと評判だった。遠かったけれど、行きたがったのは玻璃姫の方だった。いつになく熱心だった。母親のいる町から遠く離れて、自由と密会を楽しみたかったのかもしれない。車中では二人は手を触れ合わせ、休憩所ではキスをしてエネルギーを充填し、車を走らせ続けた。ずっと海岸線の道を走ったので、単調ではあったけれど、開放的な広い海の景色が心を軽くするふうだった。空はうすく曇っていたけれど、海一面にばらまかれた小波は穏やかに白くきらめき、意外と明るい色に見えた。
 ホテルに着くと、ティーラウンジで休憩した。
 お疲れ、とねぎらう宗茂に、姫は「ほんともうクタクタだわ。早く免許取ってね」と言った。でも、言うほど疲れた表情には見えなかった。車で一時間半くらいの遠さは、自動車部出身で車に慣れた姫には実はそれほど苦ではなかったようだった。
 大きな一枚ガラスの窓から、白砂の浜とその向こうに広がる青い海が見えた。姫はその漆喰のような白と深い青の鮮やかなコントラストに眼を輝かせながら、チョコレートパフェを食べた。宗茂はコーヒーを飲んだ。パフェは大盛だったけれど、どんどん減っていった。
 きみの口と胃は、そんなに大きかったっけ、と宗茂は言った。あきれて、眼を見張って。
 あなたは知らないでしょうけど、長距離運転はガソリンだけじゃなくて、お腹も空っぽにするの、と姫は言った。皮肉に、笑って。
 窓の外の、細く横に長い砂浜に、白い波頭が押し寄せていた。わっ、すごい、波がどんどん成長していくみたい、と姫はその波模様を見て声を上げた。だいぶ疲れがとれたようだった。パフェはほとんど食べつくしていた。
 ラウンジを出て、プライベートビーチに下りて行った。きれいね、と姫が言った。痛いほどにね、と宗茂は応えた。浜辺の砂は、反射するのは春先の柔らかな陽の光なのに、眼を刺すほどの白さだった。けれどそれは、人工的な手が相当に入っているとすぐに判る白さでもあった。十数人の大学生くらいの男女の一団が少し離れた波打ち際でたわむれ遊んでいた。シュート、シュートと叫びながらよせ来る波を蹴飛ばし、自分が濡れ鼠になるのも気にせず、仲間に水をかけようとする青年がいる。気づかれないように後ろに回ってその青年の尻を、アチョーと奇声を発して回し蹴りで蹴りつける男がいる。キャハハとはしゃぐ少女の手をひいて一緒に、とんでくる水から猫のように逃げようとする少年がいる。少し離れて体を寄せ合い立って、じゃれ合う仲間たちに声を投げかけ、笑い合う男と女たちがいる。
 姫は宗茂の手をとると慌てて歩き出した。まるでその羽目を外した青い春の風景から逃げるように。彼にはそんなふうに見えた。彼女の固い肩に手を回して、しっかりと抱き寄せた。二人は砂浜を歩いた。
 寒くない? と宗茂は訊いた。ダウンのハーフコートの前を開けかけて、「この中に入る?」
 いいえ、と姫はちらっと若者たちのほうを見やって言った。
 波打ち際をだいぶ歩いた。そのうちにも、波はどんどん勢いをまし、寄りそい歩く二人の足元寸前まで届くようになった。若者たちからだいぶ離れた。そのためか、姫の表情と体から硬さが解けていく。油断していた二人は、ひときわ大きな白い波がやってくるのを見たとき、慌てて逃げようとした。姫は歓声を高く上げ、宗茂は抑えた歓声らしきものをもらして、二人もつれ合うようにして波から逃げた。ところが、一瞬おくれた彼女のスニーカーは濡れてしまった。なのに姫はぜんぜん悔やむ様子もなく、まるでその波からエネルギーでももらうふうに、気持ちを高ぶらせていくのが分かった。波が引いていくとその動きに合わせて、姫はさあ行くわよと勇ましく男の腕をとって、また海に近づいていく。おい、おい、すぐに水がくるよ、又ぬれるよと男は言う。意気地なしね、こんどはだいじょうぶよ、ちゃんと波の動きを見極めるから、と話しかけながら男の手を引っぱって行く。これまでで一番大きくて速い波が戻ってきた。ほら、ここよ、引き際、戻るわよ、と姫は元気に言って、男の背に手をまわして押すように、砂浜を上って逃げた。安全地帯に戻って去っていく波を見ると、でも、いまの危なかったわね、と姫は言って弾けるように笑った。宗茂は苦笑いした。
 笑いながら眼と眼がぶつかった。見つめる彼女の黒く澄んだ瞳の奥に、あわれむようなゆらぎがよぎった一瞬あとに、姫は言った。
「このごろ沈んでるときが多いけど、だいじょうぶ?」灰色の空から落ちてきた雪のような言葉だった。
 宗茂は何と答えていいか迷った。そして、いくばくかの空白のあと、海から吹いてきた風に誘われるように、口から言葉が流れて出た。
「うん。時々、弱くなる時がある」
 周りから音が消えた。風も波も二人も、動きが止まった。二人はただお互いの瞳の奥を見つめあっていた。
 姫の唇が開いたとき、パンと無音の世界が割れてはじけた。
「もっと自分を信じて」という姫の言葉が遠くから聞こえた。何を言っているのだろうと宗茂はピンとこなかった。「そして、わたしを信じて」と消え入りそうな声で女人(おんなびと)は続けた。
 この「もっと自分を信じて」「わたしを信じて」という姫の言葉を思い出し、改めて自分の弱さを意識したのは、別れて何年か経った頃、ある心理学者の次のような言葉をその著書に見つけたときだった。
 〈自分自身を信頼する人のみが他の人に対して誠実でありうるのだ〉
 自分自身を信頼すること、自分を信じることは、約束することができる、未来を示すことができる、という能力の条件なのだから。約束し誠実にそれを守ることのできる人、未来を示し相手の手を引いて一歩前を歩きだす人こそが強いのだ。だから、自身を信じていない、いや自身を信じることができない人は弱い。そして、それが自分の弱さなのだと宗茂はそのとき気づいた。
 そういえば、と今さらながら思う。思い出せばいつも公私にわたって、重い約束には躊躇してばかりいた。それも、自分自身を信頼できないからだったのだ。あのころ交わした姫との約束もよくよく見れば、空虚な約束ばかりで、固く手を握りあって未来に進むことができるような代物ではなかった。現実的な将来のプランを思い描き、約束できる設計図を作ろうとしなかったのも、自分を信じることができなかったからなのだろう。〈愛に関していえる大事なことは、自分自身の愛を信頼することだ〉という。姫との恋の場合、宗茂は結局自分自身の愛を信頼して(信頼できて)いなかったのかもしれない。だから、恋人の愛を受けとめきれず、自分の愛を与えきることもできなかった。結果、愛を大きく育てることができずに、枯らしてしまったのだろう。
 姫は音のない波打ち際で見つめあったとき、無意識のうちに彼らの弱さの根にあるものを感じとっていたのだろうか? あのときの言葉は確かにその証であるように思える。何より姫の弱さも宗茂と同じ種類の弱さだったから、姫自身、いつもは見ないふりをしていても、何となくそのことに気づいていたと思う。姫の場合はお父さんだけが自分を守ってくれる人だと信じていた。信じられる人はお父さんしかいないとお父さんを信じすぎて、自分を信じることをおろそかにしてきた。それが蓄積されて、またその方が楽だったから、自分の代わりにお父さんを信じる、弱い自分を作り上げてしまったのだろう。お父さんならそんなことはしない、おとうさんならこうする、とよく言っていたことからもそれが分かる。父親は生きるうえでの判断の基準となる存在だったわけだ。だから離れられない。父の秩序を乱すことができず、叛乱できないのだ。離反などしたら、自分を信じられないために他人も信じきることのできない姫は、誰も(自分も、結局、宗茂も)信じられず「誰もすきにならない」まま、一人むき出しの玻璃の心で、悪意にみちた社会に対して生きて行かなければならなくなる。姫にはそんな生き方は、地獄に落ちたのも同じだっただろう。
 ところで、あの波打ち際の物語には後日談がある。翌日、姫が手紙をくれたのだ。
 ——  第3信。
 あなたが「時々、弱くなる時がある」って云った時、
 あ、なんか安心と思った。
 不安、と思うべきところなんだろうけど(不安にもなるけど)
 それだけ「私」のこと、重大に考えてくれているんだなあって。
 それに、いつもドンと来い!じゃ、なんか憎々しくって 
 単細胞な感じだし…。
 今日(25日)はうれしかった。ありがとう。
 この手紙は結果的に宗茂の弱さを甘やかした。弱さを非難せずに、やさしく抱きとめる、こんな言葉が彼にあんな空虚な詩を書かせたといえるのかもしれない。そして、お互いの弱さを突きつめさせなかった。宗茂は詩のほかには、姫の努力に応えて「強くなってきみを守るから」と言葉で言い続けることぐらいしかできなかった。姫は二人の未来のために具体的に頑張っていたというのに、本当にすまない、姫。
 —— …悲しそうな目だったのは、たぶん疲れてたからだわ。
 私の気持ちはあなたにしかないのだから、もっと楽にしていて下さい。
 あなたが疲れてゆくことの方が心配になってくる。
 私に余計な心配をかけさせないように。
 姫はおそらく、宗茂がその胸にわだかまりを抱えこんで、その息苦しさに疲れていきつつあることに何となく気づいていたのだろう。そして、二人の行き着く未来に不安を抱いた。それでも、姫は彼を励ましつづけた。おそらく姫自身を元気づけるためにも。
 —— 両親のことを除けば(除いてしまわないでも時々そうだけど)
 私はこの頃、とても甘い気分になる時があるの。
 笑うかもしれないけど、そんな時は自分が女っぽいと思う。
 あなたにとって“唯一の女”になりたいと思う。
 —— そして、それは2人だけの秘密であらせたいと思う。
 自分自身の足で立って、そして、あなたを好きでいたいと思う。
 姫は資格を取って足下の地盤を固め、その上に〈自分自身の足〉でしっかりと立って、あなたと手を取りあって生きていくとの決意を伝えたかったのだろう。それは祈りでもあっただろう。あるいは、自分に対する歯止めか。
 —— ま、他人が見れば、そういうのは単に”恋愛中“の人間の常なのかもしれないけれど。
 ……でも、「あたしムネシゲさんとつき合ってんのよォ」
「あの人 私の彼なのよォ」ってふれまわりたい気もするネ。…
  ————
 何かうまい口実が出来たらば あなたの街で飲んでもみたいな。
 あ~あ ベタベタしたい!
 “はなさない”なんてしびれてしまう。(牛のようにハンスウしてます。)
 —— もう1度聞きたい。
「キミダケガ スキダ」って。
 —— あなたは私のこと100%信じてていいよ。
 私は3%位うたがっとく(?)…
 いや、やっぱり105%信じとく。
 大好き。
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