第8話

文字数 4,005文字

 行きましょう ——玻璃姫の叛乱 検査入院・五日目

 きょうは土曜日だったので、家族そろって見舞いに来てくれた。
 頼もしくてやさしい主人。
 私によく似てシャイな娘。
 のんき坊主の草食系の息子。
 すい臓の炎症で体はまだきつかった。でも、昼食からお粥も食べられたので少し元気が出た。皆が来てくれて楽しかった。いっぱい笑った。
 でも、癌のことを忘れていられた楽園の時間は短く終わった。主人が、あまり長くいると患者を疲れさせるから、と一時間で切り上げようとしたの。面会終了時間の午後七時までにはあと三時間もあったのにヨ。私はまだまだ居てほしかった。
 まだ、いいじゃない、もっと居てよ、と私は頼んだワ。どんなに疲れてもいいから、忘れさせてほしかった。私の死を。
 じゃあ、あと三十分、と三十分だけ延びた。
 三人がドアから出ていくとき、振りかえる顔を見て、泣きそうなのをぐっとこらえて笑いかけた。そのとき、皆これからどこに行くのかしら、と思った。皆はどこにでも行ける。私はどこにも行けない。私には死しかない。
 皆が帰ったあと、あなたの写真を見た。きょうは見まいと決めていたのに、こらえきれなかった。あなたの太陽のような笑顔を見て、私は「行きましょう」と声をかけていた。
 あの日、あなたはテニス合宿から、見事に右手をまめだらけにして帰ってきた。私が前の日に云った「ちゃんとごはんを食べて、元気にテニスに行ってらっしゃい」という伝言に励まされて、張り切りすぎたのヨネ、ふふ。
 私が好きな海岸までドライブした。白くさざ波立つ広い海原を右手に見ながら、海岸線にそった県道をスイスイ走った。
 河口の砂浜に車を停めた。
 私たちは波打ち際を歩いた。空は灰色に曇って、海辺は寒かった。私はあなたの腕をとり、海風から隠れるようにちぢこまって体を寄せていた。二人は何度も砂に足をとられ、よろめいた。私こっそりと、振りかえって見たの。よせる波に合わせて蛇行をくりかえす二人の足跡が後ろに続いていた。今もその足跡が切り絵のように脳裏に浮かぶワ。
 寒くない? と訊いて、あなたは風から私を守ろうと、私の肩に腕をまわした。胸に抱きこんでくれた。足元まで来る波はいつのまにか大きくなっていた。私はその波に小声で「ガンバレ」って声援をおくったのを、フシギとおぼえている。少し元気になった私は頭を上げて、唇の形でキスを求めた。あなたはホッとした顔でやさしく唇を重ねてくれた。歩いては立ち止まりキスをした。あくことなくそれを繰り返した。
 帰りに、海辺の国民宿舎の展望食堂で遅い昼食をとった。
 食事が終わるころ私は、これ、あげる、と真剣な顔をして云った。それは、四年前だか五年前だか、通っていた東京の女子大学の自動車部の部室の前で撮った写真だった。写真の私はふっくらとした丸顔で、髪は長くしていた。当然若くて、まだいっぱい女子高生の面影を残していた。はにかむように、それでも爛漫と笑っている私は、自分で云うのも何だけど、可愛いと思った。あなたに私のすべてを知ってもらいたかった。
 あなた、あの写真どうした? 捨てちゃった? 
 いつかあなたに告白したワネ、その写真を撮った後のある時期、睡眠薬代わりにバーボンを飲んで寝ていたって。そんな私からは想像もできない笑顔だったでしょ。
 私と思って、ということだね、とあなたは笑った。写真にこめた、私をあげるのよ、という意味を了解してくれたのヨネ。
 これ、見てくれる?と、こんどはあなたが大型の本を私の前に置いた。
 何? と本をとり上げて訊いた。
 その本は写真集だった。もうその写真家の名前は忘れちゃったケド。あなたや私が生まれた頃、閉山していく炭鉱の子どもたちを写した、リアリズムの写真集。小説を書いていたあなたの発想の源だって、そんなふうに云ってたワネ。
「ぼくは炭鉱(やま)の子どもなんだ」とあなたが云ったとき、ちょうど私は写真集をひらいて、ある写真を見たところだったワ。
 もう何をしていたのかは覚えていない。ただそこに写っていた、少年の、薄汚い、黒い痩せた顔だけをうろ憶えしている。こちらに向けられたその顔に、あなたの浅黒い尖った顔が重なったの。あふれようとする涙をぐっと押しこんだ。今もぼんやりにじんだその子の黒い影を記憶しているワ。
 私は声を殺して泣きつづけた。大きな窓の外の晩秋の海の景色をじっと見ていた。
 あなたが聞き取れない言葉を口にし、その気配に気づいた私はあなたに目をもどした。そして、見つめて「あなた、結婚のこと考えてる?」と訊いた。私の「結婚」という言葉に、あなたはドキッと心を突かれたみたいな表情をしてたワネ。
 私、もう二十五歳よ、と云ってまた黙りこんだ。
 私はそのとき、あなたの炭鉱の町を見たいという母のことを想いだしたの。たぶん怒らないだろうあなたのことがなぜか心配になったワ。
 国民宿舎の前の海水浴場の砂浜に下りていった。また寄りそって波打ち際を歩き始めた。海からの風は冬のそれに衣替えしたかのよう、切るように冷たくなっていた。すぐに震え上がって、二人は車に引き返したワネ。
 暖房を入れた車内でいちゃいちゃした。倒したシートに寝そべって、相手の体をさわりなで合った。抱擁してキスをした。私はいつまでもそうやっていたかったのに、急にあなたはえいと私の体を持ち上げ、そのままシートにひっくり返した。両腕を押さえられて、あなたの胸の下で、私はしばらく目をぱちぱちさせていた。そんな私を少しのあいだ見守っていたあなたは、急にこわい顔になって云ったのヨネ。
「行こう」って。
 行く? と私はとっさに聞きかえしたケド、どこに行こうと誘っているのかすぐに分かったワ。あなたの薄茶色の瞳の中に、私のすべてが欲しいという欲情の燃える火が見えたもの。
「行きましょう」と、私は云った。
 疲れちゃったワ。話過ぎネ。きょうはもう終わりにしようかしら。おやすみなさい。

 でも、眠れそうにないワ。体中がほてっている、興奮してるみたい。あと少しだし、これからのシーンをあなたといっしょに思い出したい。あの情熱と陶酔のシーンを。だから、やっぱりあなた付き合って。話していたほうが、こわくないし。でも恥ずかしいから、想い出したことを声に出さずに、頭の中で話してみるワ。
 行きましょう、とあなたに答えたとき、私はなぜかすごくあせっていた。なぜかその感じをおぼえている。お母さんに反対されそうだという不安がこの頃から胸にきざし始めていた。不安に急かされていたのかしら。わたしの男を喪いたくないという焦りが無鉄砲さを引きよせたのカモ。
 入ったホテルの部屋の様子はどんなだったかしら? あなた覚えてる? 私、まるで記憶にないワ。
 見ないで、と私はセーターを脱ぎかけて云ったのは記憶にある。「暗くして」ト。
 あなたが裸の体を私のとなりに滑りこませてきたとき、私はマネキンのように固くなった。だいじょうぶ? とあなたは気遣ってくれた。ええ、と私はおそるおそる頷いた。
 唇を合わせた。あなたは私の唇を強く吸い、私は息ができなかった。それでも、私はゆっくりと強張りが融けていくのを感じた。私も、息を早くして唇と舌を動かしつづけたワ。
 きれいだよ、とあなたは私の目に見入って、云ってくれたワネ、おぼえてる? あなたは私のキャミソールをぬがせ、乳首を強く吸った。
 あっと私は声をあげた。感じるというより墜ちていくようで怖かった。
 ああ、私はおぼえている。あの情熱と陶酔を。あなたを相手にこんなことを話すなんて、はずかしい。でも、なぜなの、止まらない。
 痛い、と私は小さくうめき、体をすくめた。
 あなたは動きを停めて、しばらく私をやさしく抱いていてくれたワネ。ありがとう、と私は云った。あなたは私の目の上にキスをして、おそるおそる、また腰を動かした。
 ああ、やっぱり恥ずかしい。私は何を話しているのかしら。
 その後、私たちは何も言わず抱き合っていたワネ。あなたは運動の後の心地よい疲れに身を任せているようだった。私は下腹の痛みとあなたに対する引け目のようなものに気を取られていた。
「何か云って」と私から云った。
「離したくない」とあなたは云った。
「離したくないじゃなくて、離さないといって」と私。
「離さない、絶対に」
 ありがとう、と云って、私はあなたの胸に顔を押しつけた。「私、ボタ山が見てみたい」とぽつりと云った。えっ、とあなたは訊きかえしたワネ。私はあなたのことをもっと知って、自分の不安を和らげたかったんだワ。あなたは黙ってうなずいて、私の背に手をまわして抱きしめてくれた。
 帰る途中に、一直線の急勾配の坂道があったのを、あなた記憶している? 車で下っていると、とても爽快だったワ。
「ここ、夏にも一緒に来たいワネ」私は云った。
 そうだね、とあなたは応えたけれど、声に元気がなかった。

 ふうー、これできょうはお仕舞い。私、体中がほてっている。熱が出たのかしら、それともエロ話に興奮しちゃったのかしら、はずかしい。
 ごめんなさい、疲れちゃった。
 一昨日、内視鏡の造影検査を受けたことは話したワネ。朝から絶食して全身麻酔をかけて、何時間かかったかしら忘れちゃったケド、きつい検査だったことも。そして、ホントについてないのヨ、検査のあと膵臓が炎症を起こしちゃって、絶食になっちゃったの。今日の昼食からやっとお粥を食べれるようになったところなの。だから、まだ疲れが十分とれてなくて。
 それなのに、家族が帰ったあと、なぜなのかしら、どうしてもあなたと話したくなったの、いえ、ちがう、あなたと話したいのじゃなくて、初めて裸で抱き合ったあのときのことを想い出したかったのカモ、きっと。
 家族の面会も長かったし、この話も長すぎたワネ。疲れたワ。ホントにこれで、おやすみなさい。
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