第28話 雨夜の月〈洋之〉

文字数 13,957文字

「かげ見えぬ君は雨夜の月なれやいでても人に知られざりけり」僧都覚雅

『五十ばかりより そろそろ仕上げたるがよきなり』
 美和子の実家へ最後の挨拶に行った際に、義父の祐一郎から聞いたこの言葉を、帰りの電車の中で調べてみたら、これもやはり葉隠の中の一節であることを知った。それ以来、洋之はこの言葉をふっと思い出しては、祐一郎に帰り際に言われたことを思い返していた。
 四十も過ぎ、管理職にもつき、会社員人生も半分を過ぎて、人生ってこんなものだろうと諦めに似た思いで、どこか冷めた目で自分を見つめながら、このまま残り半分も淡々と生きていくだけのように思っていた洋之だった。しかし、五十からそろそろ仕上げるものなどと言われると、このままただ流されて生きていってはいけないような気がして、これまでの生き方と、これからの生き方を改めて考えずにはいられなかった。人生の秋と言われる年齢にさしかかり、このまま何もせずに漫然と暮らしてゆけば、何の実りも無いまま秋が終わり、やがて冬枯れするだけである——という危機感を、俄かに実感を伴って抱くようになった。かといって、何をどうしてゆけばいいのだろうか……と、すぐには実行に移せない焦りともどかしさを感じながら、表面的には今までと変わり映えのしない単調な日々を送っていた洋之だった。——そんな矢先の出来事だった……大学時代の友人から一本の電話が掛かってきた。
 人の噂が広まるのは早いもので、友人も出どころについては言葉を濁したものの、洋之の離婚のことを風の噂で知って連絡してきたようだった。友人の話によれば、出版社の編集部に勤める知り合いから、撮影の仕事の依頼を受けていたものの、急用で行けなくなってしまったため、代わりに行ってもらえないか、ということだった。場所は沖縄、撮影日数は四日間の予定、費用はもちろん出版社持ちとのこと。離婚して独り身になって身動きが取りやすいだろうということと、撮影旅行がてら離婚の痛手を癒してきたらどうか、というのが、洋之に白羽の矢が立った理由のようだった。以前なら、日曜写真家の自分にそんな仕事は荷が重いと断るところだったが、どうせ有休は余っているし、久しぶりに旅行に行ってみるのもいいかもな……と撮影のことは二の次で、既に目の前には碧々と透き通る沖縄の海が広がり、洋之にしては珍しく二つ返事で引き受けていた。
 それからというもの、洋之は暇を見つけては、本屋に立ち寄って写真や美術の本を広げ、図書館でも目についた本を手に取り、レンズの選び方にカメラ・アングル、光の使い方や構図の決め方などを学んでいった。そうしているうちに、写真の面白さを改めて感じるようになっていった。編集部から送られてきた依頼内容をもとに、ある程度、撮影計画が固まると、洋之は祐一郎から受け取ったお金で、思い切って撮影機材を買い込んだ。「そのお金を何か自分の人生を切り開くために、自分の未来を作るために使ってほしい」と言ってくれた祐一郎のことを思い出し、改めて心の中で礼を言いながら、代金を支払った。
 そうやって思いがけず舞い込んできた話をきっかけに、ピンチヒッターで撮影した写真ではあったけれど、雑誌に掲載されると、他の出版社の編集者の目にも留まるようになり、小さな仕事ではあったけれど、洋之はそれから定期的に撮影の依頼を引き受けるようになっていった。もともと学生時代はよく一人旅をしていたこともあって、久しぶりに訪れたい場所や新たに行ってみたい場所をリストに書き出しては、行った先々での撮影計画を立て、休みの日に実際に出掛けては写真を撮り続けた。そうしてゆくうちに、受け身でただ流されてゆくような日々から、少しずつ能動的に自分の人生を生きてゆくことを意識するようになり、これまでには無かった、何か確かなものを自分の中で掴みつつあるのを感じられるようになっていった。写真の仕事をするようになったのが、そのきっかけではあったけれど、それ以上に大きかったのが、いつかまた彼女に逢える日が来るかもしれないという思いだった。万が一、彼女にもう一度逢えたときに、ただ歳を重ねただけのくたびれた男ではいたくはない——おそらく他の何よりも、その思いが強い原動力になって、写真を続け、日々を意識的に生きようとする洋之を支えていた。 
 とはいえ、あの女性(ひと)のことを片時も忘れたことなどない、と言えば嘘になる。しかし、洋之の心の奥底に秘められた炎は、揺らぐことはあっても、消えることはなかった。意識的には考えていないときでさえ、いつも心のどこかに彼女がいるのを感じていた。もっとも、美和子と離婚するまでの間は、自己満足に過ぎないけれど、美和子へのせめてもの償いとして、あの女性(ひと)のことを思い浮かべることを自制した。しかし、やがて離婚が決まり、美和子が家を出て行ってからは、洋之は彼女の記憶を遠ざけることはやめ、彼女の面影が浮かぶのを、もはや抑えようとはしなかった。
 依頼された撮影の仕事のために新しく買い込んだ器材ではあったけれど、それを持って最初に向かったのは、あの植物園だった。最初にこのカメラに収める記念すべき一枚目は、やはりあの場所で撮りたかったからだ。もう逢うのをよそうと決めた以上、あの女性(ひと)が植物園に足を運ぶことはもう二度と無いだろうとは思ったものの、洋之は用心して開園直後の時間を選んで、久しぶりに植物園を訪れた。誰もいない園内をゆっくりと歩きながら、洋之はあの場所に向かった——初めて彼女を見かけて、思わずシャッターを切った場所だ。あの頃と同じ場所に立ち、カメラのファインダーを覗いていると、ふっとあの女性(ひと)が見えるようだった。彼女の姿は、その顔の造作のひとつひとつに至るまで、まるで鮮明な写真のように洋之の心の中に鮮やかに焼き付いている。洋之は彼女の姿を心の中に甦らせると、その横顔に焦点を合わせながら、再びシャッターを切った。
 彼女の面影はしっかり洋之の中に刻まれていたが、心配なのは彼女の声の記憶だった。というのも、人が人を忘れるとき、まず声から思い出せなくなると聞いたことがあったからだ。だから時折、彼女と交わした会話を頭の中で再生してみては、まだ覚えていることを確認してしまう洋之だった。
 植物園近くの喫茶店でお茶をした際に、彼女からもらった名前と電話番号が書かれたメモも、定期入れの中に未だ大事に仕舞ってあった。いくら彼女のことを鮮明に思い出すことは出来ても、それは実体の無い、頭の中の記憶でしかなく、彼女という存在が現実に居たという事実を物理的に感じられるのは、唯一、そのメモしか無かったからだ。だから洋之は、ふと思い出しては、小さく折り畳んだその紙片を取り出し、彼女の綺麗な筆跡を眺めては、その文字を幾度も指で撫で、今頃どうしているだろう……と想いを馳せることもあった。
 そんなふうにして折に触れて、彼女のことを思い出していた洋之だったが、雨の日の夜は、ほとんどと言っていいくらい、決まって彼女のことが心の中に思い浮かんだ。雨音に耳を澄ませながら窓の外をぼんやりと見つめていると、何やら吸い込まれていきそうな静けさに包まれ、そうした静寂の中で思い浮かぶのは、いつだって彼女の姿だった。彼女の笑った顔や戸惑った顔、ふとした時に見せる仕草……その全てが目の奥にくっきりと浮かんできた。そして、その度に洋之は、あの女性(ひと)に逢いたいと強く思った。胸が焦がれて息が詰まるほど、逢いたかった。しかしもう、心の檻の中にいる虎が暴れ回ることは無かった。眠ったふりをしているのか……檻の中の虎は、やけに大人しかった。どんなに彼女に逢いたいと強く思っても、洋之はそれを本能の赴くままに行動に移すことは、もうしなかった。そうしようと思えば出来たことではあったけれど、洋之から彼女に連絡することは決してしなかったし、あの雨の日の夜のように、彼女の住む街へ車を走らすことも、決してしなかった。そんなことをしても、彼女は困惑するだけだろうとわかっていたし、彼女の平穏な暮らしにまた波風を立てるようなことはしたくなかったし、何よりも、もう逢うのはよそうと言った彼女の決断を尊重したかったからだ。
 その一方で、あの植物園で初めて彼女を見かけたように、偶然の巡り合わせで再び逢える日が来ることを期待する思いも、心の片隅に影を潜めつつも消えずに残っていた。もしかしたら、彼女にまた逢える日が来るかもしれないという可能性を完全に否定することは、洋之には出来なかった。生きていれば、時には有りそうにもないことが可能になり、思いもしなかった驚くべきことが、たまには起こることだってあるんじゃないか——そう、心のどこかで、何か幸運な偶然に遭遇することを期待して、楽観的に構えている自分もいたのだ。
 そんなわけで、幸運に恵まれた人生とは決して言えないけれど、それでも、日々の暮らしに、自分の人生に、今までとは違った手応えを感じられるようになり、洋之はそれなりに満ち足りた毎日を送れるようになっていた。彼女と逢えなくなり、やがて妻の美和子とも別れ、また独りの生活に戻ったけれど、自分でも不思議なくらい、もう女性とどうこうなろうという気も起きなかった。別に意識的に独身を通そうと誓ったわけではなく、彼女と過ごした時間を経験した後では、ただもう他の女性に興味が持てなくなってしまったのだ。——が、何かが欠けているような感覚が付きまとい、ふとした拍子に感じる孤独感はなかなか消えなかった。ぽっかり穴の開いた心を抱えたまま生きているようだった。
 そんなある日……神様から思いがけないものが送られてきた。——もっとも、最初に届けられたのは、あの女性(ひと)……ではなく、彼女のご主人だったけれど。

 友人の計らいで、仕事やプライベートで撮りためていた写真で個展を開くことになり、準備も調った初日、洋之は開催場所である都内のとある小さなギャラリーに向かっていた。平日の午後、誰もいないだろうと思ってビルの裏口から入ってゆくと、オーナーから男性の一人客が見に来ているよ、と声を掛けられ、好奇心で思わずギャラリーへと続く扉を開けてみた——すると、そこに立っている後ろ姿にどこか見覚えがあった。思い出そうと頭の中の記憶を探るよりも先に、なぜか、身体の方が反応して、心臓が急にドクドクと脈打ち始めた。物音に気付いたその男性が振り返ると、洋之は思わず小さく「あ……」と声を上げてしまった——それが、あの女性(ひと)のご主人だったというわけだ。
 あれから三年——最後にあの女性(ひと)に逢ってから三年……遠い昔のことのようにも、ついこの間のことのようにも思われる。三年経っても、どうしても想いを断ち切れないままでいたら、何と彼女——ではなく、その夫君が現れた……。偶然の巡り合わせを捨て切れなかった自分に思いがけないご褒美がもたらされたようで、彼女の夫君との再会ではあったけれど、洋之は素直に嬉しくて、森村に歩み寄って声を掛けた。すると、しばし立ち話をした後、森村から、さらに思いがけない誘いを受けた——よかったら一度、また三人で会わないかとのことだった。夫君同伴でも彼女に逢えるのであれば、洋之には断る理由なんか無かった。

 約束の日——。洋之にとって、これ以上はないというくらい、朝から長い一日だった。もしかして腕時計が壊れているんじゃないかと何度もスマホの時間と見比べてしまったほどだ。会議の進行をうわの空で聞きながら、少し前に見たばかりの時計を、また覗き込むと、ようやく午後三時だった。定時の退社時間まであと二時間……響子たちとの待ち合わせまでは三時間もある……。時計の進む遅さにヤキモキしながら、洋之は欠伸を噛み殺すと、テーブルの上の会議資料に目を落とした。昨夜はなかなか上手く眠れなかった。彼女の夫も同席という奇妙なセッティングではあるけれど、それでも、三年ぶりにあの女性(ひと)に逢えると思うと、心弾む嬉しさとそわそわとした緊張がない交ぜになった興奮状態でなかなか寝付かれなかったのだ。もう逢うことはないだろうと思っていた彼女にまた逢えるのだと思ったら、頭の中であれこれぐるぐると考えてしまって、やっと眠りに就いたのは夜中の二時半を過ぎてからだった。そんなわけで、寝不足の頭と体で、何とか日中の会議を乗り切るのが精一杯だった。
 ようやく定時の退社時間を過ぎ、洋之は一目散に森村に指定された店へ向かった。てっきり、三年前に三人で会ったような店かと思いきや、指定された店は周りに大使館が建ち並ぶ一劃にあるフランス料理店だった。中に入ってみると、フロアの奥まったところにチェロやピアノが置かれているのが見え、生演奏が聴けるらしい、ちょっと高級な店の雰囲気に、洋之は余計に緊張しつつ、案内されたテーブルに神妙な面持ちで腰を下ろした。

 そわそわと落ち着かない思いで一人待つ間、洋之はとりあえず森村たちが来たら言うべき科白を頭の中で予行練習していたが、約束の時間になって、夫ともにこちらに向かってくるあの女性(ひと)を見た途端、真っ白に飛んでしまっていた。洋之は慌てて立ち上がると軽く会釈をして、二人が、いや彼女が近づいてくるのをじっと見つめた。彼女が微かに笑みを浮かべて会釈しただけで、途端に胸がきゅっと締め付けられる……あぁ、自分はやはりこの女性(ひと)が好きなんだなぁ……と思った瞬間だった。抑えても、抑えきれない心の思いが、自然と顔に滲み出てしまうのが、洋之は自分でもよくわかっていた。彼女の夫がいる手前、何とか努めて平静なふりをしてみても、つい頬が緩み唇の両端が上がってしまいそうで、嬉しさを隠すことに必死だった。
 森村に先に目礼で挨拶をしてから、洋之は「お久しぶりです」と、夫の横に立つ彼女に声をかけた。すると響子は少し固い表情のまま、「ご無沙汰しております」と口角をわずかに上げて笑みを浮かべながら会釈を返した。淡い色のふんわりとしたブラウスに藍染めのスカートという控えめな装いだったが、襟や袖口を飾る控えめなフリルや、後ろでひとつにまとめた髪が、三年前よりも彼女の美しさを奥行きのあるものに見せていた。思わず口を開けてポーっと見惚れてしまいそうな自分を感じ、洋之は慌てて緩みかけた頬を引き締めた。そんな二人の再会の様子を見守る森村の顔に、微かな苦渋が浮かんだことに洋之も響子も気づかなかった。

「じゃ、再会を祝して、乾杯」
 ワインを注いだウェイターが立ち去ると、森村がグラスを掲げて乾杯の音頭を取った。
 今日は有難うございます、と言いながら、二人とグラスを合わせた洋之だったが、顔に貼り付けた笑顔はやや強張っていた。グラスを置くと、ぎこちない沈黙がテーブルの上に漂い、笑うことだけが間を持たせる唯一の方法であるかのように、三人は互いに目を合わせては微かに笑みを浮かべた。
「またこうやって三人で会うことになろうとは……人生って不思議なものですね。こうしてみると、やっぱり、佐山さんとは何か縁があるんだなぁ……」
 洋之と妻の様子をそれとなく窺いながら、森村はのんびりとした調子でそう言うと、ワインのグラスを再び口に運んだ。目許にやんわりと笑みは浮かんでいたが、森村の口許は固かった。すると今度は、二人の男に挟まれて何だか居心地悪そうな響子が、何か言わなくては、と慌てて言葉を探して口を開いた。
「あ、主人から伺いました……佐山さん、個展を開かれたそうで、おめでとうございます」
 そう言うと、響子は親しみを込めた微笑で洋之を見た。
 洋之は照れたように首の後ろに手をやった。
「有難うございます。是非、一度観にいらしてください」
 そう言って一瞬の間があった後、洋之は慌てて、
「ご主人と一緒に」
 と、付け加えた。響子がそんな洋之に頷きながら、柔らかな笑みを返した。たったそれだけのことなのに、親密な空気が二人の間に流れたように感じ、森村は何だか自分がよそ者になったような気がして、むらむらともたげてくる妬心を押し流すようにグラスのワインをぐいっと呷った。
 最初のうちは会話も途切れがちで、堅苦しい雰囲気がなかなか消えなかったが、前菜とワインから始まった食事のコースが進むうち、三人の緊張もだいぶ解れてゆき、洋之が新たに生まれた息子のことを響子に訊いたり、森村が洋之に写真の仕事の話を振ったのを受けて、洋之がこれまで撮影で訪れた場所の話をするなどして、あとは他愛のない世間話になり、だんだんと和やかな空気に包まれ、何とか会話が続くようになっていった。森村は時折相槌を打つものの、どこかうわの空の状態で、二人の様子をそれとなく窺っていた。話が弾むうちに、テーブルの上から気詰まりな空気が消えていったのはいいけれど、よそよそしさが薄まった分だけ、親密さが二人の間に流れ始めたように思われた。気のせいかもしれないが、響子はあまり佐山の方を見ないようにしているように思われたし、佐山の方も、あまり真っ直ぐ響子を見ることはなかったが、テーブルの上に目を落としても、自分と話していても、その視界の端に常に響子がとらえられているように感じられ、内心いささか憮然としながら食事を続ける森村だった。

 やがて、メインの食事も終わり、話もひと段落ついた頃、響子が立ち上がって席を外した。響子がテーブルから立ち去るのを見送ると、洋之は居ずまいを正して改まった声で言った。
「森村さん、今日はこういう席を設けて頂いて、本当に有難うございました」
「いや……三年前は佐山さんのことをよく知る前に終わってしまったから、一度ちゃんと話をしてみたいと思ってね……」
 森村は残っていたワインをぐっと飲み干してグラスを脇によけると、胸の前で組んだ腕をテーブルに置き、少し乗り出すようにして洋之を見ると、妙に重い声で切り出した。
「ここからは男同士の会話ということで、少し踏み込んだ話になるけど、いいかな……」
 洋之は神妙な面持ちで頷きながら、思わず身体をぎゅっと固くして身構えた。テーブルの上の空気がピシッと張り詰め、いっぺんに動悸が速くなる。心底惚れた女性の夫君を前にして、緊張しない方が嘘になる。そんな洋之から目を逸らさずに、森村は低い声で言った。
「妻とは、本当に何もないんだろうな……?」
 真っ直ぐに洋之の目を見据える森村の目が鋭く光った。洋之の顔にさっと緊張が走った。
「まさか……それはないです」
 即答でそう答えたものの、不意を突かれたせいか思わず声が上擦ってしまい、かえって真実味が薄れてしまったように思われ、洋之は慌てて咳払いした。訊かれるかもしれないと心づもりしてきたはずなのに、胸が何かに急き立てられるようにドクドク脈打ち始める。
「——でも、寝たいと思ってる」
 問い詰めるような森村の低い声に、洋之はギクリとした。首筋がカッと熱くなる。思わぬ話の雲行きに、洋之はしどろもどろになりながら言った。
「ちょっと待ってください……どうして急にそんなことを……?」
 森村の射るような視線に、胸の内まで見透かされてしまいそうで、洋之は思わず目を逸らしたくなったが、土俵際で何とか足を突っ張るような思いで何とか踏みとどまった。ここで目を逸らしたら、かえって余計に疑われてしまう……でも、だからといって、ここでホントのことなんて言えるわけがない。洋之はごくりと唾を飲み込み、内心を悟られないように何とかポーカーフェイスを顔に貼り付けると、ようやく少し落ち着きを取り戻して、言葉を口から押し出すように答えた。
「三年前もお話したように、響子さん、いや奥様とは、本当に何もありませんから」
「——あってもらっちゃ困る」
 森村がすかさずそう言って、睨みつけるように洋之を見た。思わず洋之は視線を逸らした。幾分皮肉な微笑を浮かべ、少し冗談めかした口調で言いはしたが、森村の混じりっけなしの本心だった。黒縁眼鏡の奥の黒い目が強く光っていて、洋之は気圧されまいと背筋を伸ばして座り直した。
「でも、会って話すだけでいい——そんな話を真に受けるほど、俺の目は節穴じゃないさ」そこで言葉を切ると、森村は組んでいた腕を不意に解いて身体を少し後ろに引くと、右手だけテーブルに乗せて長い指でコツコツと叩きながら、洋之を見据えるようにして言った。「——でなきゃ、男じゃない」
 目を上げた拍子に——洋之はギクリとした。こちらに目を向けている森村の顔は、洋之の知っているはずの森村とは別人のようだった。響子が二人の間にいる時には決して見せない、ざらりとした空気を漂わせていて、ふっとこちらが気を抜いたら最後、向かいの席から押し寄せてくる森村の存在感に負けてしまいそうな気がして、洋之は口を噤んだまま、テーブルの上に目を落とした。
 何も言えずに黙り込んでしまった洋之を、森村はなおもしばらく見つめていたが、やがて再び腕を組んで身体を少し前に乗り出すと、ふっと声を和らげて溜め息交じりに言った。
「妻に惚れているんだろう……?」
 ハッとして顏を上げると、心の底を見透かすような森村の視線にぶつかり、洋之は思わず目を伏せた。そんな洋之に対して、森村は犯人に自白させようとじりじりと追い詰める刑事よろしく、黒縁眼鏡を人差し指で押し上げながら、答えられずにいる洋之をじろりと見ると、一段低くなった声で言った。
「どうなんだ?……」
 洋之はごくりと唾を飲み込み、自分の膝をぎゅっと握りしめた。こうなったら逃げるわけにもいかない。腹を括るしかない。洋之は覚悟を決めて顔を上げると、きっぱり言い切った。
「——惚れてます」
 洋之は、目を逸らすまいと腹の底に力を入れて、森村の視線を押し返した。先程まで三人で話していた時とは打って変わって、お互い目の色の覗き込んで真意を探り合う、まるで縄張り争いをするオス同士の睨み合いのようだった。やがて少しして、森村は息を溜めていた吐き出しつつ唇を少し歪めてふっと嗤うと、ゆったりと背もたれに背中を預けた。洋之もフーッと詰めていた息を音を立てずに吐き出した。しかし、そんな緊張が緩んだのも束の間、森村は再び前に乗り出し、テーブルに両肘を乗せて胸の前で手を組むと、洋之を見据えて重い口調で言った。
「わかっているとは思うが、妻は家庭を捨ててまでどうこうするような女じゃない——それは俺が一番よくわかっている。……でも、人間、誰にだって、魔がさす時がある。君が妻に付け入るとすれば、その一瞬だろう……。だが、その一瞬は、妻にとって一生消えない傷になる——罪悪感という名のね」
 二人の視線がピシリと音を立てたかのように重なった。森村は自分の言わんとすることが洋之の中に沁み込んでゆくのを見届けるように、洋之の顔をじっと見つめた。厳しい眼差しだった。そのまま暫くお互い無言のまま向き合っていたが、先に視線を外したのは洋之だった。森村は、洋之の心の動きがわかるような気がした。触れてはいけないものに触れてしまったような息苦しさを、二人は重い溜め息で吐き出した。やがて、洋之はおもむろに顔を上げると、再び森村に視線を戻して口を開いた。
「——だから、今のうちに身を引け、ということですか……?」
「いや、そうじゃないよ」
 洋之を見る森村の目がふっと和らいだ。
「——君なら、妻に傷を負わせることなく、この先も想い続けられるはずだ……と思ってね」
 森村の語尾が優しかった。先程までの別人のように見えた森村は消え失せ、洋之が知っているいつもの彼に戻っていた。洋之はテーブルに目を落とすと、背骨からカクンと力が抜け、詰めていた息を音を立てずにゆっくりと吐き出した。
 
 と、そこへ響子が戻ってきた。テーブルの近くまで来ると、夫と佐山の間に流れる不穏な空気を察したようで、
「なに話してたの……?何だか二人とも深刻な顔をしてるように見えたけど……」
 と、二人の幾分強張った表情を探るように交互に見た。
「別にたいした話じゃないさ。このところの世界情勢、政治経済……それと、紳士協定についてかな……」
 森村は苦笑いに頬を歪めて言った。洋之も森村に合わせるように微笑を浮かべたが、それはどこか引き攣っていた。胸の奥で、先ほど森村に言われた言葉が尾を引いていたからだ。
「紳士協定?……」
 響子はきょとんとして、夫と洋之の顔を見比べる。
 そんな妻に向かって頷くと、森村は同意を求めるように洋之をちらりと一瞥した。
「えぇ……」
 洋之はぎこちない笑みを浮かべたまま、響子に向かって頷いた。
 と、その時、それまで流れていた曲が終わり、テーブル席から疎らな拍手が聴こえてきたかと思うと、次の曲のイントロが流れ始めた。すると、森村は曲に耳を澄ませて、
「あ……、この曲が流れたら、妻を誘わないわけにはいかない——二人の思い出の曲なんでね。すまないが、少し席を外させてもらうよ」
 と言って立ち上がると、戸惑った顔で見上げている妻の手を取って立たせた。洋之は内心ちょっとムッとしつつも小さく頷いて、
「どうぞ、お構いなく……」
 と、ピアノの近くにあるダンスフロアに向かってゆく二人を見送った。店の周りに大使館が多いせいか、外国人夫婦が何組か既に踊っている。洋之はテーブルの上のグラスを引き寄せると、思わずワインをぐいと呷った。

 ダンスフロアに立つと、森村は響子の腰に手を回して曲に合わせてゆっくりと身体を揺らし始めた。
「思い出の曲ってどういうこと??私、この曲、あんまり記憶に無いけど……。それに、何も佐山さんがいる前で踊らなくてもいいのに……」
 響子は不服そうに夫の顔を見上げて言った。 
「夫の特権なんだから、これくらいいいだろう?」
 森村は妻を宥めるような口調でそう言うと、軽く肩を竦めた。そんな二人の様子をテーブル席から眺めていた洋之の目に、妬心と哀しみの色が動いた。少し憮然とした表情で大きく吐息をつくと、再びグラスのワインを呷った。
 最初は若干膨れっ面をしていたものの、話が済んだのか、やがて夫の腕の中でリラックスした表情で身を委ねているあの女性(ひと)を見ていると、洋之の心臓がズキリと痛んだ。どんなに親しげに話しても、どんなに楽しく笑い合っても、ああして彼女の前に立てるのは、夫という立場でないと出来ないことなのだと改めて思い知らされたようで、身体の奥底から、不意に言いようのない切なさとうずくまりたいような淋しさが突き上げてきて、息が苦しくなった。自分が彼女に逢いたくて逢いたくて逢いたいのに逢えずにいる間、森村は、毎日、何の苦労もなく、彼女の顔を見ることができるのだ。ふとした時に何でもない言葉を交わし、笑い合い、時には喧嘩もしたりして、毎日のささやかな出来事を共有できる……夫婦なんだから当たり前の話ではあるけれど、それでも思わず森村に嫉妬せずにはいられなかった。
 と、その時、洋之と目が合った森村が、響子の背中に回した手を浮かせて、こちらへ来るようにと手招きするように動かしているのが見えた。洋之は思わず後ろを振り返り、森村が合図を送っている相手を探したが、それらしき人物は見当たらなかった。仕方なく再び二人の方へ顔を向けると、森村は先程と同じ仕草で手招きしている……。洋之が怪訝そうに人差し指で自分を指してみると、森村は目を合わせたまま小さく頷いた。洋之は慌てて首を振った。それでも、森村はしつこく目顔と手振りでこっちに来るようにと合図を送ってくるので、洋之はとうとう観念して立ち上がると、ゆっくりと二人の方へ歩いて行った。森村は近づいてくる洋之に妻が気づかないよう、曲に合わせて微妙に身体の位置をずらしていった。
 やがて、洋之が困惑した顔で二人の傍に立つと、響子が驚いて、夫と洋之の顔を半々に見た。森村はそんな妻の顔を横目に身体を引き離し、洋之の腕を手に取ると、響子の手をそっと預けた。
「選手交代……」
 そう言うと、森村は洋之に向かって小さく頷いて、その場を静かに立ち去って行った。
 森村に預けられた響子の手の感触に顔が火照ってきてしまい、洋之はしばらく彫像のように固まってしまった。この歳で……とあまりの純情さに自分ながら情けなくなる。ふと視線を感じて顔を上げて周りを見渡すと、傍で踊っている年配の外国人夫婦が怪訝そうにこちらを見ていた。旦那さんが目を丸くさせながら肩をひょいと竦めている。このまま棒立ちを続けて、彼女にこれ以上気まずい思いをさせるわけにもいかず、洋之は恐る恐る右手を彼女の背中に回しそっと彼女を引き寄せ、左手に乗せられたままだった彼女の手を握り直すと、そのほっそりした指を感じながらゆっくりと力を込めた。一瞬びくっとなった彼女が、目を見張って洋之を見上げ、気恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、ほんの少しだけ身体を寄せ、洋之の手を華奢な指でそっと握り返してくれる。二人は束の間、まるで初めて口づけをかわそうとする恋人同士のような近さとぎこちなさで見つめ合った。途端に……洋之は身体中が熱くなるようだった。彼女に触れているところだけが、灼けるように熱い。何とも始末に悪い感情がぐるぐると渦を巻き、胸を締め付けるような痛みと共に心の奥底から突き上げてくる……。久しく忘れていたその感覚に、思わず彼女の顔から視線を逸らすと、あとはただ腕の中の彼女の存在を感じながら、あらぬかたを眺めやることしかできなかった。彼女とこんなふうになれるなんて、考えてもいなかった。焦がれるほど夢見てはいたけれど、それはいつも手の届かない妄想でしかなかったのだ。まだ、信じられない……夢じゃないよな……と思わず頬をつねりたくなるのを堪えて、洋之は、手から腕を通って全身に拡がってゆく彼女の温もりを身体に染み込ませるように、密かに深呼吸をした。彼女の頭越しにテーブル席を見遣ると、少し憮然とした表情でワインを飲んでいる森村と目が合った。三年前に初めて会ったときは、黒縁眼鏡のせいもあって、四角四面で気難しそうなご主人に見えたけれど、彼女に対する自分の気持ちを知っていながら、こんな粋な計らいをしてくれたことを考えると、案外、いい人なのかもしれない……。洋之は心の中で礼を言いながら、それとなく目礼した。すると、森村は微かに苦笑いを浮かべて、手にしていたグラスを軽く掲げた。

 やがて暫くして、フェードアウトするように前の曲が終わり、ピアノの軽やかなアルペジオの後に聴こえてきたのは、耳慣れたあの曲のイントロだった。
 あ……、と思わず二人は顔を見合わせた——あの映画の曲だ……まさかこんな場所で、こんな時に聴けるとは……。二人とも声には出さなかったけれど、お互い考えていることは同じであることが彼女の目からも伝わってきた。耳慣れた曲のせいか、洋之の身体からも、彼女の身体からも少しばかり力が抜け、ぎこちなさはまだ残っているものの、リラックスした親密さの漂う空気が二人を包んだ。腕の中の彼女を見下ろすと、彼女の顔にも暖かい、そっと包み込むような笑みが浮かんでいた。すると、不意に顔を上げ、彼女の品のよい口許が開いた。
「ごめんなさい、何だか主人が強引に……」
「いや……」
 洋之は小さく首を横に振った。こんなに間近で彼女と話すのは何だか照れくさく、
「ご主人には感謝してますよ……」
 と口ごもりつつ言ったあとで、すぐに付け加えた。
「いや、感謝しきれないくらいです……こんな機会を頂いて」
 本当にそう思っていたからこそ口から出て来た言葉であったし、彼女の夫の手前、努めて平静を装ってはいたけれど、その一方で、心の檻の中で眠っていたはずの虎が目を覚まし、むっくりと頭をもたげつつあるのを洋之は感じていた。できることなら、もっと近くに彼女を引き寄せて、もっと強く彼女を抱き締めたい……。想いの全てを打ち明けて、息も詰まるようなキスをして、そのまま彼女をここから連れ去ってしまいたい……。こんなに近くで目と目を見交わし、形の良い艶やかな唇もすぐ目の前にあるというのに、これ以上彼女に近づくこともできないし、その唇に触れることも許されないというのは、ある意味、拷問のようで、洋之は彼女を前にして、随分辛い忍耐を強いられることになった。今ここで思いのままに行動に移してしまったら、腕の中の彼女はもちろん、せっかくこうした機会を与えてくれた彼女の夫の信頼まで失ってしまい、すべてが無に帰してしまうことになるのだ——それだけは絶対にダメだ……と心の中の虎を必死に宥め、歯を食いしばるように自制心を総動員してぐっと堪え、何とか思いとどまった。
 そんな葛藤のせいだろうか……いつの間にか無意識のうちに身体に力が入ってしまっていたようで、腕の中の彼女が急に身体を固くして後ずさるの感じ、洋之は慌てて力を緩めた。嫌がられてしまったのかと焦り、気まずい思いで下を向くと、少し困惑した表情で彼女が見上げていた。先程までの心の揺らぎの後ろめたさから、洋之は思わずスッと目を逸らしたが、響子は洋之を安心させるかのように小さく頷くように微笑むと、洋之の手を握り返した。彼女のそのさり気ない優しさに、洋之は再び胸がぎゅっと苦しくなると同時に、ホッと安堵の吐息を洩らした。
 ようやく心の中の虎も再び寝静まり、落ち着きを取り戻していくうちに、こうして彼女を間近に感じ、その声や息遣いを聞けるだけでも、本当はとても幸せなことなのだと、洋之は思い直した。手の届くところにありながら、それ以上は近づくこともできず、触れることもできずに我慢することは、苦しいことではあったけれど、でも、それは不思議と甘やかな窮屈さでもあることを初めて知った。洋之は彼女の髪から漂うほのかな香りに胸を締め付けられながら、まるで手の中で繊細なガラス細工を扱うように、彼女の背中に置いた手にそっと力を込めると、腕の中の彼女をほんのもう少しだけ引き寄せた。

——もう逢うことはないだろう……と諦めていた、雨夜の月だったあの女性(ひと)が腕の中にいる……。
 身体の奥でぎゅっと握りしめた拳のように固く閉ざされた心が、みるみるうちに解れ癒されてゆくのが分かった。生きてると、こんなこともあるんだな……世の中、捨てたもんじゃないな……と洋之は人生の不思議さをしみじみ感じながら、ゆっくり終わりへと近づく曲に乗せて胸の奥で呟いた。
No matter what the future brings
As time goes by……
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