第27話 恋の丈〈洋之〉

文字数 6,932文字

——心に他の女性(ひと)が棲みついているあなたとは、もう一緒に暮らせない。

 そう言って、妻の美和子はこの家を出て行った。心の中に他の女性(ひと)が棲んでいるあなたと、何事もなかったように暮らしてゆけるほど私は強くはないし、心の中に他の女性(ひと)が棲みついているのがわかっていて、それでも、どうしてもあなたと一緒にいたいと思うほどの強い気持ちも、私には無いわ……と。洋之には何も返す言葉が無かった。弁解の仕様がなかった。何を言っても、体のいい言い訳に過ぎないと思うと、これ以上美和子を傷つけるわけにはいかない、と黙り込むしかなかった。

 美和子から離婚を切り出され、いささかの驚きと同時に、もちろん、申し訳なく思う気持ちもあった。でも、それとは全く別のところで、あぁ、これでやっと楽になれる、と思った自分がいたのも事実だった。ある意味、やっと解放されたような思いだった。自分でも罰当たりだとは思うが、いつまでも(かえ)ることのない卵を抱えている親鳥でいるわけにはいかない、と心のどこかでずっと思っていたからだ。
 あの夜以来——美和子が森村と会ってから帰って来た、あの夜以来、美和子は、洋之と響子の一件など、まるでなかったかのように振る舞い、夫との間に出来た溝を埋めようとして、できるだけ快活に声を明るく張って自分から話を持ちかけたり、料理や掃除など家のことも以前より率先してやるようになった。洋之が気づかないふりをしていると、時折、夫の顔色を注意深く窺っているような様子さえ垣間見られた。しかし、美和子のそうした気遣いや思いやりが伝わってくればくるほど、洋之はやりきれなかった。いっそのこと、もっと感情を露わにして、いつもの美和子らしく思っていることをはっきり言ってくれればいいのに……と、自分勝手な考えだとはわかっていても、ついそう思ってしまう自分がいた。洋之のそんな胸の内を、おそらく敏感に感じ取っていたのだろう……美和子は夫との関係にこれ以上ひびが入らないようにと余計に神経質になってゆき、洋之は罪悪感を感じつつも、そうした妻の姿にどこか白々とした思いが募っていくばかりで、二人の関係は急速に冷えていった。死んだ卵をいつまでも抱き続ける親鳥のように、心のどこかでもう限界であることを感じつつも、何とか関係を修復しようと努力を続けていたが、本当はすべてが時間の問題だということに、お互い気づいていた。

 そんな生活に美和子が終止符を打ったのは、年が明け松の内も過ぎて、しばらく経ってからだった。美和子は離婚を切り出すと同時に家を出て行き、一人残された洋之はその後の手続きを進めていった。この家を購入するにあたり、美和子の両親からは結婚祝いとして頭金を出してもらってることもあり、本当は洋之は自分がこの家を出るつもりだった。ローンがまだ少し残っているので、せめてもの償いとして、今まで通り支払うことを美和子に提案したが、美和子は即答で断ってきた。この家に住み続けるよりも、新しい場所で真っさらな気持ちで始めたいから——というのがその理由だった。そういうわけで、美和子が先にこの家を出ていき、洋之は一人残って家の売却手続きを進めながら、自分も引っ越し先を探すことになった。
 ようやく家の売却も済み、美和子の口座に振り込んだところで、洋之は美和子の実家を訪れた——家の購入時に出してもらった頭金を返すためだった。利息を付けてまで返す余裕はなかったけれど、せめて出してもらった金額をそのまま返すことで、それが自己満足に過ぎないことは承知しつつも、自分なりにけじめをつけたかったのだ。訪問する日時を伺うため事前に電話をすると、電話口に出た美和子の母親から冷たい声で用件を訊かれたが、まさか頭金のことを電話口で告げるわけにもいかず、洋之は言葉を濁しつつ、何とか都合をつけてもらった。
 約束の日——。緊張しつつ美和子の実家を訪れると、少し古びてはいたけれど、あの時と同じ——美和子と結婚の報告に訪れた時と同じ和室に通された。固い表情の義父母を前に、気まずい空気に気圧されて、洋之も負けじ劣らず身体を強張らせていたが、それでも何とか訥々と離婚について語り、詫びの言葉と共に封筒に入った頭金を机の上に置いた。最初は、娘の別れた夫が今更何をしに……と不信感を露わに突き刺すような目で洋之を見ていた美和子の母親だったが、洋之の話が終わる頃には、俯いて唇をきゅっと噛み、目元をさっと指先で拭い、傍らに置いてあったお盆を取り上げると、何も言わずに席を立っていってしまった。美和子の父親の祐一郎は、最初から最後まで腕を組んだままで、表情ひとつ変えずにじっと洋之の話に耳を傾けてたが、妻が席を立つと、深く長い吐息を一つ洩らしただけだった。洋之は、そのまましばらく待ってみたが、祐一郎が机に目を落としたまま何も言おうとしないので、そろそろ引き揚げようと辞去の挨拶をして立ち上がった。

 玄関先で美和子の母親に見送られ、外に出て門扉を開けようとしたところで、不意に後ろで声がした。
「駅まで少し一緒に歩いてもいいかね?」
 振り返ると、義父の祐一郎が慌てた様子で玄関から出てきたところだった。断る理由などあるはずも無く、洋之は黙って頷いた。
 祐一郎は洋之と肩を並べ歩き出してから、おもむろに口を開いた。
「今日は遠いところ、わざわざ来てくれて、どうも有難う」
 洋之は「いえ……」と首を微かに振りながら、祐一郎に目をやった。お互い遠慮がちに一瞬目を合わせた義父の顔が、先程よりも幾分和らいで見えた。
「美和子は気が強くて、少し我儘なところもあるから、君も苦労しただろう……」
 どこか労うような口調に、洋之は再び首を横に振った。
「離婚の報告をしに実家に戻ってきたとき、美和子は私の前では涙ひとつ見せずに気丈に振舞っていたんだよ。離婚して実家に戻ってきた娘が、鬱々と家に引きこもるようになってしまったら、それはそれで、親として心配だけれど、涙ひとつ見せない娘というのも、どうしたもんかな……と少し心配していたんだ……」
 そこまで言うと、祐一郎は前を向いたまま、深く息を吸い込んでから続けた。
「しかし、夜中にトイレに起きてみたら、居間から声を押し殺して呻くような泣き声が聞こえてきてね……。思わず足音を立てないように静かに廊下を歩いていって、居間のドアのガラス窓越しに、中をそっと覗いてみたんだよ。そしたら、美和子が母親の前で涙ポロポロ流して泣いているのが見えてね……娘の父親としては少しホッとしたもんだ……。悲しみを自分の心の中に閉じ込めていたら、いつか必ず、それは心を蝕んでいくからね……」
 そこで、「あ……」と小さく呟くと、祐一郎は洋之の方を見上げた。居たたまれず、申し訳なさそうな顔をしている洋之の目とぶつかり、
「いや……、別に洋之君を責めているわけじゃないんだよ……ただちょっと、美和子のそうした一面も最後に知っておいてほしくてね……親の欲目ではあるけれど」
 少し気まずそうに微笑む祐一郎を、洋之は黙って小さく頷きながら見守った。
「そうだ、言い忘れていたが……、君のご両親から去年の暮、お歳暮を頂いてね……いつもはお互い品物を贈るだけだったんだが、昨年はお母さんからお手紙を頂いたよ。もういい大人になった息子のことだし、親がとやかく出しゃばることではないことは承知の上で……やっぱり、今回息子の至らなさゆえに、このようなことになってしまったお詫びを申し上げたい、って書いてあったよ」
 洋之は黙ったまま少し俯いて、唇を噛んだ。
「だから、すぐに御礼方々、お母さんに電話したんだよ。お母さんは随分恐縮されて君のことを謝っておられたけど、そもそも離婚なんて、どちらか一方だけが悪いなんてことはないだろうし、第一、お母さんが謝る必要なんて無いからね……。お互い、なかなか子離れできない親同士、苦笑いしつつ話したんだよ」
 返す言葉もなく黙り込んでいる洋之を見上げると、祐一郎は少し同情するような表情を浮かべ、
「あのお母さんの様子じゃ、君もさぞ、実家でこっぴどく責められたんじゃないかね……」
 と、優しく洋之に声を掛けた。
「子供がいくつになろうと、母親は母親なんだよな……。まぁ、君もきっと親御さんと色々あっただろうとは思うけど、お母さんがわざわざこちらに手紙を書いてよこしてくれた気持ちも知っておいてほしいと思ってね、話したんだよ」
「……有難うございます」
 そう言って祐一郎に頭を下げながら、洋之は今回の離婚が夫婦二人だけの問題のように思っていた自分を顧みた。離婚といっても、美和子との間には子供もいないこともあり、婚姻関係を解消することによって、お互いまた別々に人生を歩むだけのことのように考えていたが、こうして美和子の両親に会い、自分の親の話も聞いているうちに、もういい大人になった息子や娘ではあっても、子供の離婚に心を痛め心配する親心に改めて気づかされ、申し訳なく思うと同時に、今日は来て良かったとしみじみ思いながら洋之は歩き続けた。

「それにしても、君が女に一筋になってしまうとはねぇ……意外だったよ」
 そう言いながら目尻に皺を寄せ微笑むと、祐一郎は洋之の目を覗き込むように見上げた。洋之は罰の悪そうな表情を浮かべて、祐一郎の視線から逃れるよう目を落とした。
「君が美和子と一緒に結婚の挨拶をしに来たときには、真面目そうで、浮気の一つもできなさそうな雰囲気の男だったのになぁ……。人の心はわからんもんだね……」
 洋之は思わず身構えて、祐一郎の次の言葉を待った。しかし、祐一郎は空にぽっかり浮かんだ白い雲を見上げながら、誰に言うでもなく、独り言のように呑気な調子で呟いた。
「人生には、諦めなくちゃならないこと、思い切って断ち切らなくちゃならないこともある。でも、報われる保証などどこにもないとみすみす判っていたって、人は惚れるんだなぁ……」
 洋之は思わず前を向いたまま、ちらりと祐一郎の横顔に目を遣った。祐一郎は遠くの空を見上げたまま、どこか飄々とした調子で続けた。
「本当は皆、思い通りにやりたくっても、周りの目、世間の目を気にして、体裁を繕って、自分で自分の気持ちに蓋をして、他人も、自分さえもごまかして生きているんだよなぁ……。でも、たった一度の人生なんだから、自分に正直に生きればいいんだよ……」
 そこで不意に口を噤み、何か思い出すような表情を浮かべると、祐一郎は急に低い声で少し芝居がかった調子で半ば節をつけて言った。
「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候う。逢いてからは恋の丈が低し。一生忍んで思い死する事こそ恋の本意なれ——」
 洋之は思わず怪訝そうな顔で祐一郎を見た。
「葉隠は知ってるかね……?」
「えぇ……、あの『武士道は死ぬことを見つけたり』っていう……」
「その中の一節だよ。今はもう江戸時代ではないけれど、この時代に、そういう男が一人くらい居てもいいさ」
 そう言うと、祐一郎はちらりと洋之を見上げて、意味深な顔で付け加えた。
「ある意味、私は君が羨ましいよ」
 洋之の顔に何か問いたげな表情が浮かぶのを見てとると、祐一郎はそれを交わすように肩をひょいと竦めて、また前を向いてしまった。

 それから暫く、お互い無言のまま歩き続けた二人だったが、そろそろ駅が近くなってきた頃、信号待ちで立ち止まると、祐一郎はジャンパーのポケットからある物を取り出すと、洋之のジャケットのポケットにストンと滑り込ませた。洋之が驚いてポケットに手をやって見ると、先程、祐一郎たちに返したはずの封筒だった。慌ててポケットから取り出そうとする洋之の手を、祐一郎は押しとどめた。
「気持ちだけ、有難く頂いておくよ……」
 そう言うと、洋之の目を見つめながら祐一郎は「有難う」と軽く頭を下げて続けた。
「美和子から聞いたよ。離婚に際して、君が美和子にあのマンションを渡して、自分が出て行こうとしたことも、そして、それを美和子が断ったことも」
 そこで信号が青に変わり、二人は再び前を向いて歩き出した。
「家内は、もらえるものはもらっておけばいいものを、どうして断ったりするの、なんて美和子に言っていたんだがね……。家内の気持ちもわからんわけでもない。離婚して男が一人で生きてゆくより、女が一人で生きてゆく方が大変だろうし、住む家くらい心配なく暮らしてほしい、と娘を心配する母親としての親心もわかるからね……。でも、美和子は私に似て気が強くて強情っぱりなところもあるから、君の申し出を断ったというわけだ。でも、そんなあの()に、君はできるだけのことをしてくれたようで、それも美和子から聞いたよ。……本当にどうも有難う」
 祐一郎はちらりと洋之を見上げると、再び軽く頭を下げた。洋之は小さく何度も首を横に振った。
「ところで……洋之君は、これからの人生、どう生きてゆくつもりなんだ……?」
 まさか義父にそんなことを訊かれるとは思ってもいなかったので、洋之は言葉に詰まってしまった。
「このまま定年までサラリーマン人生を全うしてゆくのも、それはそれで大事なことだと思うよ。いや……、今の時代、君に限らず、誰もが定年まで一つ同じところで勤め上げられるかはわからんがね……。だから、もし君に本当にやりたいことがあるのであれば、仕事を続けながらも、何か別の道を模索してもいいんじゃないかね……?幸い、と言ったらあれだが……、君はちょうど離婚もして一人になって、おまけに子供もいない……ある意味、身軽になったのだから、自分が本当にやりたいことを真剣に考えてみてもいいんじゃないかな……。余計なお世話かもしれんが、女ひとりにそれだけ想いを注げる情熱があれば、それを別の方向で生かして、何か生み出してゆくこともできるんじゃないかな、と思ってね」
 そこで言葉を一旦区切ると、封筒を返した洋之のポケットにちらりと目を遣ってから続けた。
「そのお金を返してもらったところで、もう私たち夫婦くらいの年齢になると、日々の生活の足しにしたり、せいぜい旅行に行ったりして使う程度だ。でも、洋之君はまだ五十手前だ。『五十ばかりより そろそろ仕上げたるがよきなり』……人生はまだまだこれからだよ。だから、そのお金を何か自分の人生を切り開くために、自分の未来を作るために使ってほしいんだ。そうすれば、私らが使うより、きっと生きた金になるだろうから」
 洋之は言うべき言葉が見つからず、黙ったまま祐一郎を見つめた。
「美和子には、私たちもいるし、……と言っても、まぁ、あの()のことだから、親なんかに頼らず、何とか逞しくやっていくだろうし……そんなに心配しなくて大丈夫だから……洋之君には、あんまり自分を責めず、これからの人生をしっかり歩んでいってほしい——そう思っているんだよ」
 やがて、駅へと続く階段が見えてきたところで、祐一郎は不意に立ち止まり洋之の方に身体を向けると、名残惜しそうに言った。
「洋之君とは、この先も息子のように一緒に酒を呑めるのを楽しみにしていたんだがね……。まぁ、美和子との縁は法律上は切れてしまったかもしれんが、せっかく一度は家族になった縁だ……これっきりで終わってしまうっていうのも、何だか淋しいと思ってね」
 そう言って微かな笑みを浮かべると、祐一郎は洋之のポケットに目を遣った。
「その封筒の中に、私の携帯の番号の書かれた紙が入っている。家には家内も居て、電話もしづらいだろうから、何か困ったことでもあったら、その携帯へ私に直接連絡をくれればいいよ」
「お義父さん……」
 何か言おうにも、洋之には言葉が見つからなかった。そんな洋之をじっと見つめながら、祐一郎は深く頷いた。
「じゃ、またいつか逢える日を楽しみにしているよ、元気でな……」
 そう言って洋之の腕をポンポンと叩くと、祐一郎は軽く手を上げながら去って行った。洋之は遠ざかってゆく義父の背中に向かって、心の中で礼を言いながら、姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くして見送った。

——恋の丈かぁ……。
 帰りの電車に乗ると、窓の外にぼんやりと目を遣りながら、洋之は先ほど祐一郎に言われた言葉を思い出していた。美しい夕映えだった。遠く西の空から光が差し込んで、薄曇りの空が鮮やかな蜜柑色から段々と赤みが増して茜色に染まってゆく。その下には、甍の波が薄青く煙って一面に広がっている。「恋の至極は忍ぶ恋」か……。心の中でぽつりとそう呟きながら、あの女性(ひと)を思い浮かべた。もう逢うこともないだろうが、この先、忘れることもないだろう……だったら、無理に記憶から消し去らなくてもいいではないか。
——思い死にも悪くない……。
 久しぶりに見る綺麗な夕焼け空のせいで、少し感傷的になっているんだろうか……洋之は一人密かに苦笑いを浮かべた。しかし、夕映えの最後の光がいよいよ完全に消えてゆくのと同時に、ふっと真顔になって、そう心に決めてしまうと、何だか目の前に進むべき道がぴたりと定まったようで、凪いだ海のように穏やかな気持ちが胸の奥底から全身にゆっくりと拡がってゆくのを感じる洋之だった。
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