第8話 ラベンダー〈美和子〉

文字数 4,243文字

 デスクでトントンと書類の束を揃えると、美和子は大きくふうっと息をついて、背凭れにぐったりと身を預けた。校了間近で根詰めて原稿チェックをしていたせいか、頭がぼうっとしていて、身体の芯までだるい。首筋に手のひらを押し当ててみると、何だか身体も火照っていて熱っぽい気がする……夏風邪でも引いたのだろうか。ズキズキと痛みだしたこめかみに指先を押し当てながら、ふとデスク脇のカレンダーに目をやると、明日は休みを取っていたことを思い出した。ならば、今日はもう早退させてもらって、早く帰ってさっさと寝てしまおう……。腕時計をちらりと見ると、美和子はパソコンの電源を落とし、上司や近くの同僚に早退する旨を伝えると、ふらふらと少し覚束ない足取りで会社を後にした。

 通勤ラッシュ前のまだ少し空いている電車に乗ると、美和子は扉横のスペースに立ち、ふらつく身体を持たせかけた。見るともなしに車窓の外に目をやり、走り過ぎてゆく景色をぼんやりと眺めていたが、やがて降りる駅が近づいてくると、今にも雨が降りだしそうな重く暗い雲が垂れ込め、遠く、近くに見える木々の梢を不穏な風が揺らし始めていた。嫌な予感がして鞄の中を見るも、あいにく折り畳み傘は入っていない。自宅に着くまで何とかこのまま降らずに持ちこたえてほしいと祈りつつ、再び窓の外に視線を戻すと色を増してゆく雨雲を見つめた。しばらくして電車を降り、改札口を出てみると、低く降りてきた暗灰色の雨雲が、その重さに耐えかねたように、ぽつぽつと雨粒を落とし始め、駅前を行き交う人々の肩を濡らしていた。美和子は、急いで駅前のロータリーに並ぶタクシーを捕まえて乗り込むと、運転手に行き先を告げて、シートに深く凭れこんで目を閉じた。
 いつのまにか、うとうとしていたのだろうか……。車線変更でタクシーの前にトラックが割り込んできたようで、運転手がキュッと少し強く踏み込んだブレーキの反動で上半身が前のめりに揺れて、美和子はハッと目を覚ました。顔を上げると、窓ガラスに当たる雨粒が先程よりも大きさを増しており、フロントガラスのワイパーが忙しげに左右に振り始めていた。そういえば、今日仕事が休みのヒロは、どこかへ出かけたのだろうか……。昨夜の夫との会話をふと思い出し、美和子は鞄からスマホを取り出すと、洋之に電話をかけた。しばらく呼び出し音を鳴らしてみたものの、なかなか出ない。諦めて電話を切り鞄に仕舞うと、タクシーは角を曲がり、自宅マンションへ続く道に入っていくところで、徐々に速度を落としていった。
 運転手に声をかけてから再びシートに凭れ、何とはなしに視線を前に向けると、フロントガラスに広がる水の幕の向こうに、何やら洋之らしき男性の後ろ姿が見えたような気がして、美和子は思わず目を凝らした。左右に動いて雨を押しやるワイパーの合間に見えるのは——やはり、ヒロだ……。傘もささずに、でも、だからといって急いでいる様子でもなく、顔を少し上向きにして、雨に濡れるのをどこか楽しんでいるようにさえ見える。こんなふうに夫の歩く後ろ姿をまじまじと見つめることなんて、一体いつ以来だろう……。しばし遠い昔に思いを馳せ記憶を辿っているうちに、タクシーがマンション前に着いて止まった。後部座席の窓越しに、洋之がマンションの玄関ドアへ向かっていくのが見える。
 と、そのときだった——。洋之が片足を軽く上げてひょいと飛び跳ねるのが見えた。
「!?…………」
 美和子は思わずシートに凭れていた背中を前かがみに起こし、雨滴の流れる窓に顔を近づけた。今のは一体……?!あんなことをする人だったかしら……?急いで帰る様子もなく雨に濡れて歩き……そのうえ、あんな風に飛び跳ねるなんて……。ただでさえ頭痛でぼうっとしてる美和子の頭の中を突如、疑問符がぐるぐると渦巻いた。自分の知らない夫の思いがけない一面に少し動揺しつつ、美和子はマンションの玄関ドアの向こうへ消えてゆく夫の背中をしばし見つめていた。
「お客さ~ん、お支払いは現金ですか~?」
 ハッと我に返ると、運転席から訝しげな目がこちらを向いていた。美和子は急いで支払いを済ませると、慌ただしく車から降り立った。

 エレベーターを降りると、自宅の玄関ドアへと続く廊下に、雨で濡れたような足跡がついており、やはり先程の後ろ姿は夫で間違いないと確信しつつ、美和子は鞄から家の鍵を取り出した。インターホンを押してから鍵を開けて入ると、ちょうど洋之がタオルで頭を拭きながら洗面所から出てきたところだった。
「あ、お帰り……」洋之が、少し驚いた顔をして出迎えた。「今日は直帰……?」
「ううん……何だか熱があるみたいで具合が悪いから、今日はもう、仕事を切り上げて帰ってきたの」
 途端に、洋之は心配げに眉を寄せて、
「大丈夫……?このまま横になる……?」
 と訊いた。すると、美和子が微かに首を横に振りながら、
「ううん、お風呂に入ってから寝るわ」
と言うので、洋之は急いでお風呂を沸かしに行った。
 美和子はリビングのソファに横になってしばらく目を瞑っていたが、ふと気配を感じて目を開けると、お風呂場から戻ってきた洋之が心配そうな面持ちでソファの側に立っていた。
「大丈夫……?あと10分くらいすれば、お風呂に入れるよ」
「有難う……ヒロがちょうどお休みで助かったわ」そう言いながら起き上がると、ソファに背中をもたせかけた。「ヒロもさっき帰ってきたばかりでしょ?」
「うん……」と小さく頷くと、洋之は「あ、お腹空いてるなら、おかゆでも作ろうか……?それとも、先に葛根湯を飲む?」と美和子に訊いた。
「お腹は空いてないから、大丈夫、有難う。とりあえず、葛根湯を飲むわ」
 立ち上がろうとする美和子を押しとどめると、洋之は、薬箱の入った棚の前に立ち、抽斗を開けてゴソゴソと探しだした。しばらくして、葛根湯と白湯の入ったマグカップをお盆に乗せてキッチンから戻ってくると、洋之は美和子の隣に腰を下ろした。彼女の額にそっと手のひらを当てると、左手を自分の額に当てて比べて、
「う~ん……やっぱり熱っぽいよ、夏風邪かな……」
と呟くと、今度は体温計を取りに行った。
 こういう優しさが好きでこの人と結婚したんだよなぁ……と改めて思う瞬間だ。美和子はマグカップを手の中に包みこむと、ぼんやりとする頭で、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる夫の姿を目で追った。身体の具合が悪いときはひとしお、彼の優しさが身に染みて、心までじんわりと温かくなる。子供がいないこともあって、日頃はお互いあまり干渉せず、それぞれ好きなようにやっているけれど、何かあったときに、こうして傍にいてくれる夫の存在はやはり有難いし、何よりも心強い……そんなことを考えながら、美和子はテーブルから葛根湯を手に取ると、顔を上向きにして口に含み、白湯で流し込んだ。
 やがて、体温計を手にした洋之が戻ってくると、再び美和子の隣に座った。手渡された体温計を脇に挟みながら、
「あ、そうだ」
 と、急にあることを思い出して、美和子が洋之の方へ身体を向けた。
「さっき、タクシーから降りる前に、ヒロがマンションの玄関先で何だか飛び跳ねてから、中へ入っていくのが見えたんだけど……」
 すると、洋之は一瞬ギクリと驚いたような顔をして彼女を見たが、
「なんだ…見られてたのか……」
と、気恥ずかしそうに苦笑いした。
「雨に濡れながら歩いていたら、ふと『雨に唄えば』のあの歌が頭の中を流れてきてさ…、でもまさか、タップダンスしながら歩くわけにはいかないから、最後だけジーン・ケリー気分でちょっとステップを踏んでみたんだ……」
 美和子は思わずプッと吹き出した。すると、洋之は少し顔を赤らめ、
「誰も見ていないと思っていたのに、見られていたなんて……恥ずかしいなぁ」
と、照れ臭そうに首の後ろに手を当てた。
「そうだったの……。でも、珍しいわね、雨が降ってたら、ヒロはいつもタクシーで帰るのに」
 洋之は再び、一瞬言葉に詰まるような微妙な表情を浮かべると、
「……駅を出たときはまだ降っていなかったんだ。でも、途中から降られてしまって、今さらタクシーはつかまらないし、諦めてそのまま歩くしかなかったんだ……」
 と、言葉を継いだ。そこで体温計がピピっと鳴った。
「37.5度……やっぱり夏風邪かしらね」
 美和子がそう言いながら、脇から外した体温計をケースに仕舞っていると、今度はお風呂が沸いたことを知らせるチャイムが鳴り、洋之は「ゆっくり温まっておいで」と言いながらおもむろにテーブルの上を片付けてお盆を手にすると、立ち上がってキッチンへ行ってしまった。
 何故だかわからないけれど、立ち去る夫の背中に、何か妙に引っかかるものを感じた美和子だった。何故だろう……何か気になる……。こめかみを指先で揉みながら洋之の背中を見つめ、その正体を探ろうとした美和子だったが、ズキズキと鳴り止まない頭痛が、それ以上の詮索を押し留めた。仕方なく諦めて、やおら立ち上がると、ふらふらとした足取りでバスルームへ入っていった。

 お風呂から出て寝室に入ると、洋之が先にクーラーを付けて除湿をしてくれたようで、窓は開いているけれど、肌に触れる空気が少しひんやりとしていて、サラッとして気持ちがいい。ベランダに向いた窓から入ってくる優しいそよ風が、白いレースのカーテンを時折ふわりと揺らしている。ベッドサイドのテーブルには、水の入ったピッチャーとグラスが置いてある。洋之の気遣いを有難く思いながらベッドにどさりと腰を下ろすと、美和子はズキズキと痛む頭を抱えながら、ゆっくりと身体を横たえ、肌掛布団の下に潜り込んだ。すると、スーッとするような心落ち着く爽やかな香りが漂ってきて、美和子はあたりを見渡した。窓際のテーブルに置かれた、鮮やかな紫色のラベンダーが微かに揺れている。美和子は大きく深呼吸して胸の奥深くまでその清々しい香りを吸い込んだ。ラベンダーの香りのお陰か、ほどなくして頭痛も和らぎ、うとうとと眠りかけた。しかし、眠りに落ちようとするまさにその瞬間、何故だかふと、マンションの玄関先で軽く飛び跳ねていた洋之のあの後ろ姿が、フラッシュバックのように閉じかけた瞼の裏に浮かんできた。でも、それ以上考える気力も体力ももう尽きてしまい、泥の中に引きずられるような強烈な眠気に襲われると、美和子は瞼の重さに耐えかねて、そっと目を閉じた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み