第10話 グラジオラス〈洋之〉

文字数 6,232文字

 夏風邪は、たちが悪いとはいうけれど、本当に身体中が怠くて、なかなか熱が抜けない。下がらない熱のせいで、頭までぼうっとしている。あの日、雨に濡れて帰ったせいなのか、美和子から伝染(うつ)されたのかはわからないが、先週から夏風邪のひどいやつに洋之はすっかりやられてしまっていた。何とか会社は休まずにきたものの、さすがに昨夜は残業で家に帰り着くと、遅い風呂に入ってそのままベッドに倒れ込み、目が覚めるとカーテン越しに既に夏の強い日射しが差し込んでいて、室内を燦燦と明るく照らしていた。ふと隣に目をやると、妻のベッドは既にもぬけの殻だった……ドアの外からも物音がしないところをみると、とっくに仕事に出かけたようだ。
 仰向けになり、身体にしつこく纏わりつく怠さを四隅に押しのけるように手足を伸ばすと、洋之は大きく息を吐いて天井を見上げた。あの日、帰りがけにマンションの玄関先で、昔見たウイスキーのCMを真似て軽く飛び跳ねてみたはいいが、美和子に見られていたことがわかり、思いのほか狼狽えてしまった。誰も見ていないと思ったのに、よりによって、他ならぬ妻に見られていたとは……。子供の頃、夏休みに遊びに行った田舎の祖母に、いたずらがバレて、「お天道様が見ているんだからね」と叱られたことを不意に思い出してしまった。誰も見ていないと思っても、やはり見られているものなんだな……と何だか身に抓まされる思いだった。傘もささずに帰った理由を美和子に訊かれたときも、内心ギクリとしてしまって、何とか平静を装いつつ、頭の中をフル回転させて当たり障りのない返事をした……つもりだ。タイミングよく、お風呂が沸いたことを知らせるチャイムが鳴ってくれたときには、ただの電子音が救いの鐘に聞こえ、密かにホッと胸を撫でおろしたほどだった。そんな後ろめたさもあってか、必死にポーカーフェイスを顔に貼りつけ、具合の悪い美和子の世話をあれこれ焼いた洋之だった。でも、勘のいい美和子のことだ……どこまで隠しおおせたかは、大いに疑問だ。
 大きく溜め息をつきながら寝返りと打つと、壁にかかったカレンダーに目が留まった。
——来週は、木曜日が休みなんです。もし宜しかったら、またあの植物園に来ていただけませんか?
 電車の中であの女性(ひと)に言い置いた言葉がふと頭をよぎる。今日はその木曜日だというのに、まったく何たる不覚……。よりによって、こんな大事な日に、夏風邪だなんて……。洋之は自分の不甲斐なさを呪いつつ、夏掛け布団を勢いよく蹴り飛ばすと、節々の痛む身体をどうにか宥めつつ、むっくりと起き上がった。妻の手前、今日は一日休んで寝ていることになっているが、熱があろうが、身体が怠かろうが、今日は這ってでも行かなくてはならないのだ……。

 植物園に向かう公園の遊歩道に入る頃には、日も高く昇り、強い夏の日射しのもと、歩道脇の草の茂みから、むっとするような青い草いきれが立ちのぼっていた。日射しの強さの分だけ、歩道に落ちる自分の影も濃くなっている。目を上げると、前夜の雨が草木を潤し、見渡す限り公園一帯が濃淡の異なる緑に染め尽くされていた。自分の高熱に周囲の暑さが加わって、やけに身体が火照って、既に背中はじんわりと汗ばんでいた。頭も何だか少し朦朧としている。洋之は夏木立の陰に逃れると、緑陰でひと休みしてハンカチで額の汗を拭った。顔を上げた先には抜けるような青空が広がり、綿あめのように真っ白な夏雲が立ちのぼっていた。洋之は気を取り直して背筋を伸ばすと、もくもく立ち上がる入道雲に立ち向かうように、一歩踏み出した。
 植物園の入り口に着くと、受付の中から、顔馴染みのおばさんが洋之を見つけて笑いかけてきたので、軽く会釈をして券を渡すと、足早に中へ入って行った。
 ドーム型の園内に足を踏み入れると、ようやく外の蒸し暑さから解放されて、洋之はホッと一息ついたものの、カメラを家に忘れてきたことに気づいた。行楽地ではないため、夏休みに入っても、園内にそれほど人は多くはないが、それでもいつもに比べると、子供連れの母親たちが目に入り、昼日中に中年男が何も持たずにぷらぷらとするのは何となく居心地が悪かった。とはいえ、今さら帰るわけにもいかず、とりあえず、植物に興味がありそうな顔をして、展示プレートに目をやりつつ、それとなく辺りを見回して、あの女性(ひと)の姿を探しながら、いつものように、順路を示す矢印に従って、ゆっくりと園内を歩いた。すると少しして、洋之の足が、ひとりでに止まった。
——あの女性(ひと)だった。
 洋之の視線の先に、淡い色合いのサマーセーターを着た彼女の後ろ姿が見える。ガラスのドームの天井に向かって伸びる青々とした熱帯植物を見上げていた彼女は、立ち止まった洋之に気づくと、肩を少しびくっとさせ、小さく「あ……」と声を上げた。洋之の方は声も出なかった。喉に何かが詰まったようになってしまって、驚いて口を小さくポカンと開けたまま、その場に固まってしまった。まさか、先に来ているなんて……。心臓に鋭い疼痛がキリリと走った。
 彼女は、不意に日射しが陰ったように、一瞬、戸惑いと恥じらいが入り混じったような表情を浮かべたが、それをすぐに消し去ると、微かに笑みを浮かべながら軽く会釈をして、ゆっくりと洋之の方に歩き出した。近づいてくる彼女を見つめながら、洋之は、このあとの話の雲行きが何だか暗いものになる予感がして、胸の内がスーッと沈んでいくのを感じた。そんな気重さを振り払おうと口を開くも、
「こ……」
 声が掠れてしまい、洋之は咳払いした。
「この前、あんな風な別れ方をしてしまったから、もしかしたら、もう来てもらえないかもしれない……と思っていました。でも——」
 少し言い淀んでから、
「ズルいけど……、心のどこかで、来てもらえることを期待していました、すみません」
 と、頭を下げつつ、そう言うと、彼女は小さく首を振った。
「しかも、お待たせしてしまって、すみません。何時頃にいらしていたんですか?」
 彼女はそれには答えず、
「佐山さん、これまでここでずっと待ってて下さっていたでしょう……。だから今日は、私が先に来て待とうと思ったんです」
 心臓が、その言葉に向かってきゅっと縮んだ。と同時に、思いがけない贈り物をもらったように、胸の奥がぽうっと暖かくなる。彼女が今日は先に来て自分を待とうとしてくれた、その心遣いが無性に嬉しかった。何だか身体の隅々までさぁっと温かなものが行き渡り、身体の芯からほぐれていくようだった。すぐに動いたりしては勿体なくて、身じろぎもせず、束の間、至福のときをひとり噛みしめる。心の中で「いいなぁ……いい…」と繰り返しながら、込み上げてくる想いに身悶えして、ともすれば頬が緩みそうになり、危ういところで洋之は慌てて引き締めた。ふと我に返ると、そんな洋之を怪訝そうに彼女が見つめていた。
「あの…佐山さん……?何だか、顔色がちょっと悪いようですけど……どこか具合でも悪いのでは……?」
 洋之はそれには答えず、安心させるように小さく首を振りながら笑ってみせると、
「さ、あちらの喫茶店に行きましょう」
 と、手を前に差し出して彼女を促し、出口へ向かった。

 前回と同じ窓際の席に案内され、向かい合わせに腰を下ろしたものの、彼女はどうも洋之の様子が気になるようで、ちらちらと見ては心配そうに窺っているので、洋之は彼女の視線を避けるように、店員が置いていった水の入ったグラスに早速口をつけた。と、飲み込むタイミングを間違えたのか、思わずごほごほと咽せてしまい、彼女は咄嗟にテーブル脇の紙ナプキンを手に取ると、洋之に差し出した。
「すみません‥‥」
 洋之はバツが悪そうに受け取ると、口許を拭い、今度はテーブル脇のメニューに手を伸ばした。どうせ、いつもの珈琲を頼むことは決まっているが、そうでもしないと、訝しげな彼女の視線から逃れられそうになかったからだった。洋之は彼女の視線がまだ自分の顔に置かれているのを感じながら、開いたメニューに目を落とした。
 ——そのときだった。
「ちょっと失礼…」と柔らかな彼女の声がして洋之が顔を上げると同時に、額に何かヒヤリと冷たい感触が走った。向かいの席から少し腰を上げるようにして身を乗り出してきた彼女が、手の甲をそっと洋之の額に押し当てていた。不意の直球に洋之は戸惑い顔を赤らめ、それを気づかれまいとして目を伏せた。と、その拍子に、今度は、彼女のサマーセーターの丸い襟ぐりから華奢な感じの鎖骨が目の前に迫り、洋之は目の遣りどころに困って、慌ててグラスに目を落とした。
「あら、結構熱があるじゃないですか…喉の調子も悪そうですし、夏風邪では?」
 もう片方の手を自分の額に置きながら、彼女はそう言うと、洋之の額から手を離し、腰を下ろした。そこへ先程の店員が注文を取りに来た。すると、彼女は洋之の手からすっとメニューを取り上げて、さっと目を走らせると、
「すみませんが、注文は私だけでもいいですか、アイスレモンティーを一つ。それと、申し訳ないんですが、こちらの方には白湯を持ってきて下さいますか……ちょっと体調が思わしくないようなので」
 と、テキパキとした口調でそう言うと、店員に向かって軽く頭を下げた。そして、店員が立ち去ると、今度はバッグの中をゴソゴソと探し出した。その姿は、何だか子供の世話をする母親のようで、洋之は戸惑いつつも、疲れた身体が優しく包まれていくのを感じた。やがて、お目当てのものが見つかったようで、鞄から取り出すと、彼女は洋之の前へ差し出した。
「いつも、こんなものを鞄に……?」
 差し出された彼女の手のひらに乗っかっていたのは、「葛根湯」と書かれた小袋だった。洋之が少し驚きつつ受け取ると、彼女は、
「葛根湯は風邪の引き始めに飲んでこそ、効きますから。風邪かも、と思ったらすぐ飲むようにしているんです」
 と、『用心深くて、ちょっとおかしいでしょ』いう感じで、はにかみ笑いを浮かべた。
 そうしているうちに、アイスティーと白湯が運ばれてきて、洋之が白湯で葛根湯を飲むのを見届けると、彼女は口をつけたストローから紅茶をあっという間に飲み干してしまい、「さ、もう帰りましょう」と立ち上がった。どうやら、早く席を立つためにホットではなくアイスティーにしたようだ。呆気に取られて、洋之は目を丸くしながら彼女を見上げた。
 けれど、そんな洋之にはお構いなく、テーブルにあった伝票をさっと手に取ると、彼女はスタスタとレジに向かっていってしまい、洋之は彼女の背中を慌てて追いかけた。
「せっかく来て頂いたんだから、僕が払います」
 追いついた洋之が、彼女の手から伝票を取ろうとすると、彼女はひょいとかわして、
「でも、頼んだのは私の紅茶だけですから……」
 と言って聞かない。洋之も負けじと、
「誘ったのは僕の方ですし、しかもこんな状態で早々と切り上げて帰るというのに、払ってもらうなんて……そんなこと困ります!」
 と、再び彼女の伝票を取り上げようとした。彼女はまたも洋之の手からすり抜けようとしたが、その拍子に洋之の手が彼女の手に触れてしまい、互いの息がハッと吸い込まれて、手を引っ込めた。レジに立つ女性が目を白黒させながら、こちらを見ている。一瞬、動きを止めた二人だったが、先に我に返った洋之が、隙をつくように素早く財布からカードを取り出すと、レジに置かれたトレーの上に置いた。それを見て、彼女は観念したように渋々と伝票を洋之の出したカードの上に重ねた。

 喫茶店での最後の一件が尾を引いてしまったせいで、駅に向かう帰り道を歩き出してからも、気まずい空気が二人を包み、しばしお互い黙り込んだまま歩いた。横目でそれとなく彼女の様子を窺った洋之だったが、その横顔は硬い表情のままで、何か少し思い詰めているようにさえ見えた。沈黙に耐え切れず、洋之が口を開こうとすると、押し黙っていた彼女が、いつになく重い声で切り出した。
「実は私……」
 言いにくそうに話し出す彼女を見て、途端に先程の嫌な予感が背中をゾワッと駆け上がった。頭の中では危険信号の警報が鳴り出して、洋之は慌てて彼女の言葉にかぶせるように言った。
「今日あなたが……どんな思いでここへ来たか、何となくわかります」
 彼女の横顔に、一瞬ハッとするような表情が浮かんだが、何も言わず黙ったままだった。
「……来てもらえただけでも嬉しかったけど、先に来て待っててもらえるなんて……何というか……言葉にできないくらい……本当に嬉しかった……」
 彼女はちらりと洋之を見上げたが、再び何も言わず目を落とした。洋之は、何をどう言えばいいのか……じりじりと焦げ付くような焦りと不安を背中に感じながらも、内心を悟られないように、できるだけ普通に聞こえるようにと願いながら、言葉を継いだ。
「でも、せっかく来てもらえたのに、今日はこんな身体の調子だし、お茶もそこそこに、こんなに早く切り上げて帰らなければならないなんて……、一生の不覚——」
 するとそこで思いがけず彼女が、うふふふ、と小さく笑った。
「こんなことで、一生の不覚だなんて、ちょっと大袈裟だわ」
 大真面目な顔で言う洋之を、彼女は微笑みながら穏やかに見つめていた。いや、でも、これは大袈裟でも何でもなく、本当だ……このままこれで彼女と会うのが最後になってしまったら、それこそ一生忘れられない不覚になってしまう……。でも、重苦しいような空気が二人の間を流れていたなか、彼女が少しでも笑ってくれたことで、洋之も肩の力が抜けて、正直ホッとしていた。二人は束の間笑い合ったが、少しすると、再び沈黙が舞い降りてしまった。
 お互い口を利かぬまま、しばらく歩いた後、洋之は不意に足を止めると、彼女の方を向いて言った。
「とにかく、今日はこんな身体だし、仕切り直しをさせて下さい」
 立ち止まった彼女はそれには答えず、黙って洋之を見上げた。
「お願いします」
 と、洋之は必死な目の色を浮かべ、頭を下げて頼み込んだ。
 彼女は断るでもなく、受け入れるでもなく、どうしていいか判らないような顔をして、洋之から目を逸らした。と、前方から歩いてくる人影が見えて、少し慌てて洋之の腕に手をかけた。
「佐山さん、顏を上げて下さい……。人が見てますから」
「あ、すみません……」
 洋之はハッとして顏を上げて、あたりを見回してから、ふと自分の腕にかけられた彼女の手に目を落とした。彼女は慌てて洋之の腕から手を離して俯いた。
「でも、何とかお願いできませんか……」と、洋之はさらに食い下がった。「日を改めて、せめてもう一度だけ……」
 顔を上げて洋之と目を合わせると、彼女は躊躇いつつも、
「……わかりました」
 と小さく頷いた。洋之は詰めていた息を大きく吐いた。いつの間にか、強く握り締めていたこぶしに気づき、そっと緩めた。
「よかったぁ……有難うございます」
 と、込み上げてくる嬉しさを抑えつつ、再び小さく頭を下げた。そんな洋之を、彼女は戸惑いとほんの少しの後悔が入り混じったような顔をして、唇を少し嚙みながら見上げた。ふと道端に目をやると、白く小さな花の連なったグラジオラスが太陽に導かれるように真っ直ぐ伸びて、剣のように先に行くほど細くなっていく長い葉と一緒に、風にそよいで、ゆったりと揺れていた。
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