第13話 鬼灯《ほおずき》〈雪江〉

文字数 3,434文字

 あの日以来——。
 息子の雅紀は、今までよりも少し、妻の響子に気を遣っているように見えた。雪江が響子を植物園で見かけたことを話した翌日に、妻を外での食事に誘ったくらいだったから、息子なりに考えるところがあったのだろう。二人きりの夕食の席で何を話したのかは、雅紀が雪江に話すことはもちろん無かったが、かといって、こんなことで母親があまり首を突っこんでも……という思いもあり、雪江もあえて聞いたりはしなかった。それでも、息子夫婦の仲が概ね今まで通り、波風が立つようなこともなく穏やかそうなところを見るにつけ、雪江は母親として内心ホッと胸を撫でおろしていた。やはり、あの時、植物園近くの遊歩道で見たのは、響子がたまたま見知らぬ男に声を掛けられただけなのか、一時的なものだったのだろう……ちょっと、心配しすぎ、考えすぎだったのかもしれない、と雪江は壁のカレンダーで植物園へ行った日付を見ながら、肩を竦めて一人苦笑いを浮かべた。
 ——そんな矢先の出来事だった。
 朝から雲ひとつ無い、突き抜けるような澄んだ青空が広がっているので、雪江は夫婦二人分のタオルケットを洗い、二階のバルコニーで干そうと階段を上って行った。すると、雅紀たちの寝室から、何やら電話をしているらしい響子の声が聞こえてきた。立ち聞きはよくないと思いつつも、先日の植物園での件があったこともあり、雪江は響子の電話の内容がもう少しハッキリ聞こえるようにと、足音を忍ばせて階段を上って行った。そこへ、
「午後なら出られそうだけど……」
 と、躊躇いがちに言う響子の声が聞こえてきて、雪江は階段の途中で思わず足を止め、じっと耳を澄ませた。しかし、
「この前の——」
 と響子の声が聞こえてきたところで、家の近くを救急車が通り、そのサイレンで続きが掻き消され、雪江は、んもうっ……大事なところなのに…!!と、首を伸ばして階段から見える窓の外を思わず睨んだ。カリカリしながら、救急車が早く遠ざかるのを待っていると、
「じゃ、1時ね」
 と、辛うじて最後の部分だけが聞こえてきた。その後、響子は電話を切ったのだろうか……。少しして、網戸を開け、バルコニーへ出ていく足音が聞こえてきた。雪江はいつの間にか詰めていた息を大きく吐き出し、腕に抱えたタオルケットを持ち直すと、踊り場でくるりと回れ右をして、足音を立てずに静かに階段を降りていった。
 気もそぞろに洗面所に戻り、洗濯機の中に抱えていたタオルケットを戻すと、雪江はその場に立ったまま、今さっき聞いたばかりの響子の電話での話を思い返していた。『午後なら出られる』……『この前の——』……。雪江は洗濯機に置いた手でトントンと鳴らしながら考えた。『この前の——』といったら、やっぱり場所よね……1時に待ち合わせをしているようなのだから。まさか……とは思うけれど、どうも何か引っかかる……何か見過ごすことのできないものが、雪江の中で次第に膨れ上がってきた。さて、どうすべきか——。しばし思案に暮れた顔で、見るともなしに窓の外に広がる青空を眺めていた雪江だったが、やがて、心の中にある考えが浮かぶと、再びタオルケットを洗濯機から取り出し、二階へ上がって行った。

 十一時半を少し過ぎた頃、台所で雪江がお昼ご飯の支度に取りかかっていると、出かける格好をした響子が二階から下りてきた。
「あら、お出かけ……?」
 素麺を茹でる鍋に火をかけながら、雪江は声をかけた。先程の電話はやっぱり今日の話だったのね……と雪江は頭の中では思ったが、もちろん口には出さなかった。
「えぇ、さっき妹から電話があって……。ちょっと出かけたいので、すみませんが、お昼の準備、お願いしてもいいですか……?」
「もちろん、いいわよ」
「あ……、でも、葵のお迎えの時間までには戻りますから」
 と、急な外出で気が引けるのか、響子が申し訳なさそうに言うので、
「あら、じゃあ、お迎えは主人に代わりに行ってもらうから、そんなに急いで帰らずに、たまには、ゆっくりしてらっしゃいよ」
「え、いいんですか……」
「いいわよ、それくらい。せっかく久しぶりに妹さんに会うんだから」
 と、雪江は快く嫁を送り出した。
「ありがとうございます。じゃ、お願いします。夕食の時間までには帰りますから」
 雪江に軽く頭を下げながら礼を言うと、響子は庭にいる涼介にも一言声をかけて出かけて行った。響子が玄関のドアを閉める音を確認すると、雪江は鍋の火を止めて、壁の時計に目をやった。そろそろ十二時を回る頃である。雪江は台所から居間に出てくると、庭に面した窓際に立って外の様子を窺った。庭の片隅で、凌霄花(のうぜんかずら)が蔓を勢いよく伸ばし、ラッパのような形をした華やかな橙色の花を零れんばかりに咲かせている。咲いた先から椿のようにそのままの形で次々に散ってゆくので、涼介が長く伸びた蔓の整理をしながら、地面に落ちた花がらを拾っている。まだ少し時間がかかりそうだ……。雪江は、よしっ、今のうちに、とばかりに、電話に小走りで駆け寄り、受話器を取ってボタンを押すと、庭にいる涼介の様子を気にしながら、相手が出るのを今か今かと待った。
『はい、もしもし』
「母さんだけど、今ちょっといいかしら?」
『いいけど……何ですか?』
 面倒くさそうに答える声が返ってくる。電話の向こうは、会社にいる息子の雅紀だった。
「あなた、今、会社にいるの?」
『うん、そうだけど……』
 会社にいるなら、1時にきっと間に合うわね、と壁の時計を見上げながら、雪江は一人こくりと頷いた。それから、周りに誰もいないのに、思わず声を潜めて話し出した。
「あの、響子さんがね——」
 母の声音に途端に話の雲行きを察知したのか、雅紀は雪江の話を遮った。
『母さん、そんなことで電話なんか掛けてこないで下さいよ。話なら、帰ってからちゃんと聞くから——』
 今度は、雪江が遮る番だった。
「あとでじゃ、ダメなのよ。響子さん、今日、会いに行くみたいなんだから」
『会いに行くって、誰に……?』
 怪訝そうに電話の向こうの雅紀が訊いてきた。
「決まってるでしょ、この間話した男の人によ」
『響子がそう言ったんですか?』
「バカねぇ~」雪江は思わず吹き出してしまった。「そんなこと、わざわざ言って出かけるわけないでしょ。妹さんに会うって言ってたけど、きっと、あれは嘘よ」
 雪江の自信ありげに断言するような口調に、雅紀は半ば呆れるように言った。
『母さんの戯言なんかに、いちいち付き合ってられませんよ。勘弁してくださいよ、こんなことでわざわざ会社に電話してきたりして……』
 雪江は思わずムッとして、受話器をギュッと握りしめた。
「戯言じゃなくて、女の勘よ。予感がするのよ。だって、響子さん、いつも出かける時より何だか綺麗にしてたもの」
 そこで言葉を切ると、子供に言い聞かせるように少し強い口調になって続けた。
「とにかく、雅紀も一度行ってみなさい、この間話した植物園に。響子さん、1時に待ち合わせみたいだから、あなたも今から行けば間に合うでしょ、いいわね?」
 そう雪江が念を押して言い終えると同時に、庭仕事を終えたらしい涼介が、鬼灯(ほおずき)の鉢を抱えて家の中へ入ってきた。雪江は雅紀の返事も待たずにあわてて電話を切った。
「もう、しつこいんだから……」
 わざと涼介に聞こえるように、雪江は少しムッとした声で呟いた。
「誰から?」
 涼介は抱えていた鬼灯(ほおずき)の鉢を、食卓のテーブルに置くと、首に巻いたタオルで汗を拭きながら、怪訝そうな顔で訊いた。すると、雪江は勧誘電話によくある声音を真似して、
「『浄水器をつけませんか……今なら一ヶ月無料でお試しいただけます!』ですって」
 と答えながら、台所へ向かおうとして、ふと涼介が持ってきた鬼灯に目を留めた。
「あら、もう色づき始めたのねえ……」
「うん。だから、葵が幼稚園から帰ってきたら、見せてあげようと思ってさ」
 二つの薄緑の鬼灯に挟まれるようにして、一つだけ紅く色づいた鬼灯があった。不思議な形だけれど、どこか懐かしく、心にほんのりと明るさを灯してくれる愛らしい鬼灯。でも不意に、何だかその紅く色づいた鬼灯が響子のように思えてくる雪江だった。考えすぎかもしれないと思いつつも、二人の男に挟まれる響子を暗示しているようで、隣の緑の鬼灯を指先でそっとトントンと揺らしながら、雅紀はちゃんと植物園へ行ってくれたかしら……と、雪江はそわそわと心許なげに壁の時計を見上げた。
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