第5話 枇杷〈洋之〉

文字数 6,633文字

 ペールグリーンのカーテン越しに淡い光が差し込んで、洋之は重い瞼をゆっくりと押し上げた。昨夜は、ベランダでの決意に我ながら興奮してしまったのか、目が冴えてなかなか寝付かれず、妻が寝たのを見届けてから、久しぶりに独りでウイスキーを流し込んだ洋之だった。その後ようやく、何とか眠りについたものの、つらつらと夢の中でも考え続けていたような浅い眠りで、ふと目が覚めたときには朝を迎えていた。耳を澄ましてみたが、リビングからは何の物音も聞こえてこないところをみると、美和子はもう出勤したようだ。
 昨夜、自分で決めたこととはいえ、今日あの女性(ひと)が現れなかったら…と考えると、気持ちだけではなく、身体までずしりと重くなるようだった。自分の中だけで始まり、そして終わってしまう恋かもしれないが、彼女に出逢って匂やかな芽の出づる暖かな春を味わったあとだけに、この先は暗く厳しい冬が待ち受けているだろう恋の現実を思うと、このまま起きずに惰眠を貪りたかった。しかし、寝返りを打って、ふと妻のベッドの布団の抜け殻に目が留まると、心に突き刺さったままの小さな棘を思い出し、やはり一度決めたことは守ろうと、洋之はむくりと起き上がって、ベッドから這い出た。
 ベッドサイドのカーテンを引き開け、窓を開けると、雨の匂いがさあっと流れ込んできた。明け方に雨が降ったようで、下に目をやると路面が濡れている。雨のお陰で空は蒼く澄み渡り、雪も解けた濃藍色の皐月富士が清々しく目に映り、幸先の良さそうな一日の始まりに、洋之は心なしか浮き立つ自分を感じながら、出掛ける支度をした。
  
 植物園へ向かう道すがら、早く着いて彼女を待ちたいと焦る気持ちもある一方で、今日で最後になるかもしれないと思うと、植物園に着いてしまうことが何となく怖いような心持ちになり、心は急いているのに足取りが重いという不思議な感覚で歩いていった。ともすれば下がってしまう目線を上げようと、ふと空を見上げると、道路わきの軒先から枝を伸ばした枇杷の木が、深緑の葉の陰に輝くような黄橙色の実をつけて、青嵐に揺れながら、初夏の訪れを告げていた。
 植物園に着いて、いつものように自販機で切符を買うと、入口で受付の女性に渡し、差し出されたパンフレットを遠慮して、ドーム型の植物園の中に入っていった。園内に一歩足を踏み入れる直前、「今日が最後だ」と決めた昨夜の決心が揺らがぬよう、再び自分に言い聞かせた。
 平日の午前中、しかも開園して間もない時間のせいか、園内に人影はほとんどなく、空いていた。水辺に寄ると、池に咲く真っ白な睡蓮の上すれすれに、花から花へと池を渡り歩くように黒蝶が飛んでおり、アメンボが長い六本の脚を水面に置いて、静かに波紋を広げながら泳いでいる。優しい水の音が絶えることなく響き続け、静謐な時間が流れていた。
 別に悪いことをしているわけではないのだから、人目を気にする必要はないのだけれど、得体の知れない一人客と思われないよう、さも興味がありそうに植物の脇にある説明プレートを読んでみたり、時折、手にしたカメラを鮮やかな色彩の花や緑に向けてみたりするものの、洋之の眼には、レンズ越しの花も緑も何ひとつ映っていなかった。
 平日の休みをカメラ片手に呑気にぶらついている中年男といった風情を装いながらも、夜陰に紛れた手負いの獣がじっと息を潜め、周囲の気配を窺うかのように、密かに目を凝らし、耳をそば立てて、体中の神経を尖らせては、今か今かと、あの女性(ひと)が現れるのを待ちわびていた。今までの人生で、こんな風にひたすらに誰かを待ちわびたことはなかった。知らぬ間に、身体が強張り、息を詰めている自分に気づくと、思わず苦笑がもれた。
 ふと左腕に目をやるも、今日は時間を気にせず過ごしたい思いから、わざと時計は家に置いてきていたことを思い出した。鞄に入っているスマホで時間を確認しようと思えばできたけれども、敢えて見ることはしなかった。今日は、自分の気の済むまであの女性(ひと)を待ち、そこで踏ん切りを付けるつもりだった。
 とはいえ、時は刻一刻、虚しく過ぎゆくばかりで、もうそろそろ、いい加減あきらめて帰ろう、という声も頭の片隅に何度となく聞こえていた。しかし、今日が最後という思いもあり、もしかしたら現れるかもしれないという一縷の望みが胸の奥底でしぶとく渦巻いていて、あと少しだけ、もう少しだけ…と立ち去れずにいた。まるで、自分の意志とは違う何かが「まだそこにいろ」と自分に命じているかのようだった……それも、ものすごく強い力で。

 どのくらいの時間が経っただろうか。不思議と際だって耳に響くような足音が聞こえてきて、ある種の予感めいたものを感じながら、洋之はゆっくりと振り返った。

——あの女性(ひと)だった。

 あの女性(ひと)が本当に現れ、こちらに向かって歩いてくる……。
 途端に全身の血管がドッと脈打ち、熱い血が身体中を駆け巡り、喉元まで心臓が突き上げてくるのを感じながら、洋之はしばらく茫然となり、その場に立ちすくんでしまった。焦がれるほど夢見てはいたけれど、こんなふうに本当に現れるなんて、信じられない思いだった。瞬きでもしたら、夢から醒めて彼女が消えてしまいそうで、洋之は彼女をまじまじと見つめ続けた。
 見知らぬ男が必要以上に長くじっと見つめる視線に何かを感じたのか、少しおいて彼女も立ち止まって、こちらを見ていた。しかし、その顔に怪訝そうな表情が浮かぶのを見てとると、洋之は胸の内に鳴り響く鼓動から、やっと少しだけ我に返り、彼女から目は逸らさずにそのまま軽く一礼した。
 すると、彼女は何か思い当たったように「あっ…」と小さく声を上げた。
「ど……」喉に何かが詰まったように声がかすれて、洋之は咳払いをした。
「どうも……」お待ちしておりました、と口から出かかって、洋之は慌てて言葉を飲み込んだ。
 再度一礼しながら彼女に近づくと、「思い出してもらえましたか?」とおそるおそる聞いた。
「えぇ……この前ハンカチを拾って頂いた…」
 彼女の答えにホッとして、洋之の頬が緩んだ。
「その節は有難うございました」
「いえ、そんなつもりじゃ……」
 彼女と目が合うなり、何だか顔が火照ったような気がして、洋之は思わず視線を逸らした。
「あ、どうぞ、続けてください」
「え……?」
 視線を戻すと、彼女は洋之が手にしていたカメラを指し示すように手を向けていた。
「写真、撮っていらっしゃるんでしょう?」
「あ、いや……」口の中がからからに干上がって、やっと絞りだしたような声で、彼女の言葉を洋之は慌てて打ち消した。
——この機会を逃したら、この先もう彼女に逢うことはないかもしれない…。
 そんな切羽詰まった思いに駆られて、洋之は、ふと頭に浮かんだことを口にした。
「あの、もしよかったら、お茶でも……」
「え……?」
 途端に彼女の顔に警戒の色が広がるのを見て、洋之は慌ててポケットの定期入れから名刺を取り出して、彼女の前に差し出した。
「あ、別に怪しい者じゃありませんから……。佐山洋之と申します」
 洋之の懇願するような必死な目の色に、彼女は少し躊躇いつつも、名刺を受け取った。

 植物園のそばにある喫茶店は、平日の日中ということもあって、客は子供連れの主婦と老夫婦の二組がいるだけで、ひっそりと静かな店内だった。大きな窓の向こうには、豊かな葉を茂らせた欅が立ち並び、木漏れ日がひらひらと踊りながら、店内にやさしく舞い降りていた。店員の女性に窓際のテーブルに案内されると、二人は向かい合わせに腰を下ろした。テーブル脇のメニューに手を伸ばしながらちらりと見やると、彼女もちょうど洋之を見たところで、目と目が合ってどぎまぎしながら、洋之はメニューを彼女の前に広げた。そうして、少しの間、彼女をそれとなく観察した。
 園内で遠目で見かけたときは、熱帯雨林の緑に囲まれて凛とした立ち姿が、すっくと茎を伸ばしたストレリチアのようだったが、こうして間近で向き合うと、目の醒めるような美人というよりも、水の中からすうっと立ち上がり、その先端に形のいい花をふわりと乗せている薄紅色の蓮のように、慎ましやかで静かな美しさを湛えていた。それでいて、どこかひどく(なま)めいて見えた。何というか、その……清らかさの奥に秘める肉感とでもいうべきか。
——うーむ…、と洋之は心の中で唸った。
 自分の中で久しく眠っていたオスの細胞が頭をもたげ、目を覚ましてくるようだった。
「じゃ、私はレモンティーをホットで」
 いつのまにかテーブル横に立っていた店員の女性に、注文を告げる彼女の柔らかな声に、ハッと我に返った洋之は、咳払いしてホットコーヒーを頼んだ。
 店員が去ると、再び、お見合いのような緊張感が二人を包み、お互い顔を見合わせて何とはなしに微笑した。その気まずい雰囲気を断ち切るように、洋之は姿勢を少し正すと、改まった表情で口を開いた。
「すみません、無理やりお誘いをして……」
「いえ……」
「この間、初めてお見かけしたとき、綺麗な方だなぁって思って―」
 首を小さく振って、彼女はうっすら頬を染めた。
「でも、なかなかそれ以来お会いできなくて……今日ようやく会えたものだから、つい―」
「“今日ようやく”…?」
 彼女は少し警戒するように顔をこわばらせて訊き返した。
「あ、いや……」
 洋之はギクリとして言葉に詰まり、窓の外に目を逸らした。何とかお茶に誘うところまで漕ぎつけて、張りつめていた気持ちが緩んだのか、再会できた嬉しさのあまり、つい頭に浮かんだことをそのまま口走ってしまった自分の軽率さを後ろから蹴飛ばしつつ、これ以上、彼女の疑惑を深めないよう、何か気の利いた言葉はないかとしばし考えた。しかし、そんなものは全く何一つ思いつかない。観念して窓から視線を戻すと、洋之の言葉をじっと待っている彼女の目とぶつかった。こうなったら逃げるわけにはいかない。この先に進むことを考えたら、いずれどこかで正直に話さなければいけない時が来る。だったら、今のうちに話した方がいい。洋之は、覚悟を決めて、咳ばらいを一つすると、ちょっと顔をひきつらせながら話し始めた。
「実は……あれから何度かここに来ていたんです。あなたにまた会えないかなぁと思って」
 表情こそは変わらなかったものの、身構えるように少しだけ身体を固くしたような彼女の様子を窺いながら、洋之は言葉をついだ。
「でも、なかなか会えなくて……、それで、今日会えなかったら、もうここに来るのはよそうって思っていたら……あなたが現れた―」
 身じろぎひとつせずに聞いているようだったが、彼女の中で一瞬何かが揺れ動いたような気がして、洋之は言葉を重ねた。
「だから嬉しくて、つい強引にお誘いしてしまいました、すみません」
「いえ……」
 消え入るような声ではあったけれど、ようやく彼女の口から言葉が発せられて、胸のつかえが下りた洋之は、
「あの、でも、本当にそんな怪しい者じゃありませんから……」
 と再び申し訳なさそうに頭を下げた。そんな洋之の顔を見て、彼女はやっと小さく笑った。

 そこへタイミング良く、先程の店員の女性が現れ、テーブルの上の気まずい空気をサッと入れ替えるように、二人の前に注文したコーヒーと紅茶のカップを置いていった。心の中で店員の後姿に手を合わせつつ、冷や汗をかいた心臓を温めるように、洋之はゆっくりとコーヒーを一口飲んだ。
「あの…佐山さんはどうしてここに?」
 そう言うと、彼女はスッと手を伸ばして白く細い指でカップをくるりと回した。そういうふとした仕草さえも優雅だと、洋之は束の間、見惚れてしまった。
「デパートに勤めていると、右も左も人、人、人でしょう。だから、休みの日は家にいることの方が多いんですけど、たまに外の空気が吸いたくなって、ここみたいに人気(ひとけ)がないところへ出かけるんです」
 すると、何かを思い出したような表情をして彼女が言った。
「あっ…もしかして、紳士服売り場で…?」
 思わぬ嬉しさに顔がにやけてしまいそうだったが、洋之はそんな内心はさとられないようにぐっと堪えて、できるだけ普通に聞こえるようにと願いながら、
「思い出していただけましたか…」とだけ言った。
「えぇ…じゃあ、あそこのデパートにお勤めで?」
「えぇ。あの時は驚きました。植物園でなかなかお会いできないなぁと思っていたのに、まさか、あんなところでお会いできるなんて思ってもみなかったですから……。確か、あのときは、ご主人とお嬢さんと一緒で、あなたはネクタイを選んでいらっしゃった」
「えぇ……」
 口ごもるようにして頷く彼女の顔に、再び、さあっと警戒の色が広がるのを見てとり、洋之は慌てて言葉をついだ。
「あ、すみません。これじゃあ、何だかストーカーみたいですね。あ、でも、誤解しないで下さい。見ていたのは、そこまでですから」
 顔に当惑の色を浮かべて頷きながら俯いた彼女の視線が、テーブルに置かれた自分の左手の指輪に止まったことに気づき、洋之が、
「妻は出版社に勤めているんですけど、休みが重なることがあまりなくて……子供もいませんから、こうして一人でぶらぶらと」とさりげなく付け加えると、心の内を読まれてハッとしたように彼女は顔を上げ、きまりの悪そうな笑みを浮かべると、ティーカップに手を伸ばした。
 その後は、お互いの家庭環境や洋之の仕事のこと、それから彼女が一応(社交辞令の範疇であるとは思うが)興味を示してくれたカメラや写真のことなどを、尋ねられるままに話していった洋之だった。ともすれば沈黙に落ちて、再び気まずい空気が二人の間に流れるのを避けたかったし、無意識の内に、怪しい者ではないことを彼女にわかってもらいたいという必死の思いが、洋之をいつになく饒舌にさせていた。それに加え、彼女が柔らかな相槌を打ちながら、とても聞き上手であったこともあり、随分しゃべりすぎてしまったのではないかと洋之が気付いたときには、二人のカップの中身がもう残り少なになっていた。

 喫茶店で30分ばかり過ごしてから、二人は外に出た。頬をかすめる初夏の風が心地良かった。植物園と同じ敷地内にある公園の遊歩道を、洋之は傍らに彼女がいることを確かめるようにゆっくりと歩いた。梧桐の木が青々と大きな葉を広げて木陰を作り、平日の日中でただでさえ少ない人々の視線から二人を妨げる。薄暗い木陰はひんやりと気持ちよく、草木の香りが漂っていた。ふと見上げれば、きらきらと輝く木漏れ日に洋之は目を細めた。二人で並んで歩いているという、ただそれだけのことで、ありふれた街路樹、見慣れた風景が、光に彩られ、穏やかに気持ちが満ち足りていくのを感じていた。とりとめのない話をしながら15分ほど歩いたのち、ふと気が付くと、いつのまにか公園出口の看板が見えてきて、不意に洋之の口が重くなり、話が途切れた。そういえば、連絡先はおろか、彼女の名前すらまだ聞いていない。このまま公園を出て、電車に乗ったら、次に逢えるチャンスはもう無い。どうすればいい…?そう思った途端、頭が真っ白になってしまい、洋之は時間稼ぎをしようと歩みを緩め、黙りこくってしまった。
 急に、何か重苦しい空気が洋之の肩先から漂うのを感じて、彼女はかすかな不安を感じながら、洋之の少し斜め後ろをついて歩いた。やがて、沈黙に耐え切れず彼女が声をかけようとしたとき、洋之が立ち止まって振り返った。目の中をまっすぐ見つめてくる洋之の視線が、胸のなかにキュッと差し込んでくるようで、その真剣な目の色に彼女はたじろいだ。
「——もしよかったら、これからもこうして会ってもらえませんか?」
 彼女は、はっとして息をのんで目を見開いた。洋之は固唾をのんで、返事を待った。しかし、みるみる彼女の目が戸惑いに満ちてゆくのに気づいて、洋之は絹糸のような汗が背中を流れ落ちるのを感じながら、努めてさりげない口調で言い添えた。
「いや、その……今日みたいに、また会ってお話できたらなぁと思って」
 だが、彼女は洋之を見上げると、
「でも、主人がいますから」。
 と即答で断った。予測していたとはえ、怖れていた言葉だった。けれど、洋之は深く息を吸い込むと、ひるまず畳みかけるように言った。
「友達としてならいいでしょう?会ってこうしてお話するだけです……それでもダメですか……?」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み