第17話 藤袴《フジバカマ》〈雅紀〉

文字数 5,450文字

「もう桔梗の咲く頃かぁ……」
 そう言いながら出迎えに来た響子に鞄を渡すと、雅紀は上がり框に腰を下ろした。玄関先の花器には、清々しい青紫色をした桔梗が、凛としつつも控えめな雰囲気を漂わせながら星形の花をいくつか咲かせていた。
「でも、その隣の花は……何て言う名前だったっけ?」
 もう一つの花の名前がわからず尋ねると、
「よくぞ聞いて下さいました」
 と響子は、待ってましたとばかりに少しおどけた調子でそう言うと、片手で雅紀の鞄を胸に抱えながら、もう片方の手で桔梗の隣の花をそっと揺らした。真っ直ぐに伸びた茎に薄藤色の小さな花が房状に連なっている。
「桔梗と同じ秋の七草のひとつ——藤袴よ」
 そう言うと、鼻先を葉先に近づけた。
「葉っぱがね、桜餅のような香りがするの」
「へぇ~そうなの」
 雅紀は革靴の紐を緩める手を止めると、立ち上がって響子を真似て藤袴の葉先に顔を近づけた。
「ホントだ……桜餅の香りだ…」
「でね、今日、ビックリすることがあったの」
 雅紀は一瞬、ギクリとした。まさか今日のことを自分から話し出すつもりなのだろうか……。雅紀は振り返ると、少し身構えつつ、響子の顔に目をやった。すると、響子はそんな雅紀の心の内を知る由もなく、無邪気に微笑むと、
「アサギマダラが来たの!」
 と目を輝かせて嬉しそうに言った。
「アサギマダラ……?」
 なんだ、そりゃ……と雅紀は急にどっと力が抜けて、再び上がり框に腰を下ろした。でも、よくよく考えれば、こんな場所で、響子がそんなことを打ち明けるはずがないよな……と苦笑をもらした。
「そぅ、海を渡り旅をする蝶、アサギマダラが、何と!うちの庭の藤袴に止まっていたのよ。透き通るような浅葱色に緑がかった水色の羽根がステンドグラスみたいで、ホント綺麗だった~。最初、見間違いかな、と思ったんだけど、よく見ると羽根に何か文字が書いてあったから、やっぱりアサギマダラだわって確信したの。お義父さんがアサギマダラの好きな藤袴を植えてくれたお陰でホントに来てくれたのよ~」
 きっと誰かに話したくてうずうずしていたのだろう……背中で子供のように興奮気味に話す響子の声を聞きながら、雅紀は靴を脱いだ。
「本当はお義父さんに知らせたくて、すぐに家の中へスマホを取りに行こうとしたんだけど、そしたら、その途端、呆気なくひらひらとどこかに飛んで行ってしまって……結局、証拠の写真は撮れずじまい」
「父さん、家にいなかったの?」
 玄関に上がってスリッパを履きながら、雅紀がそう訊くと、
「あら、だって、今日は葵も連れて、お義母さんと房総へお泊りよ」
「そうだったっけ……?」
「やぁねぇ~、今朝、お義父さんたちが同窓会へ行きがてら房総へ一泊してくるって言ってたのに、聞いてなかったの……?」
 そう言いながら雅紀を見上げると、響子は急にハッとした顔をして、
「あら、やだ!……、まだお風呂入れてなかった……すぐに入れるわね」
 と、パタパタと廊下を小走りで去ってゆき、あっという間に風呂場へ消えて行ってしまった。
——今夜は、親父たち、いないのか……。
 アサギマダラのせいなのか…、男と逢ってきたからなのか…、何だかいつもより弾んだように見える響子の背中を見ながら、雅紀はふぅっと大きく息を吐いた。

 雅紀は風呂から上がると、ドアからひょいと顔だけ出して、台所で明日の朝食用にとお米を研いでいる響子に声をかけると、そのまま二階へ上がってしまった。昼間の出来事に加え、今夜は両親もいないこともあって、響子と二人きりで顔を合わせるのは避けたかったのだ。寝室に引き上げると、雅紀はベッドの上にゴロンと横になった。窓から入ってくる微かな夜風に、窓際に吊り下げた風鈴がチリリン…チリリン…と涼しげな音を立てている。まだまだ日中は暑いものの、朝夕はだいぶ過ごしやすくなってきた。少し前までは、日中の猛暑に息を潜めていた蝉たちが夜になると大合唱をしていたものだが、今夜はその蝉たちも寝静まっているようで、耳をよく澄ませてみると、代わりにリーン、リーン……と鈴を震わせるような鈴虫の鳴き声がひっそりと聴こえてくる。今年の夏もそろそろ終わりだな……と秋の気配を感じながら、雅紀はベッドの上で仰向けになると大きく深呼吸をした。店で酒を呑んでいるときは、なかなか酔えずに頭の芯が冴えてくるばっかりだったのに、横になった途端、何だか昼間の疲れがどっと出てきたようで、身体ごと沈み込んでゆくような眠気に襲われて、雅紀は重くなった瞼をそっと閉じた。 
 しばらくして、トントントンと階段を上ってくる響子の足音で目が覚め、雅紀は夢うつつのぼんやりとした頭で薄目を開けて時計を見た。どうやらいつの間にか小一時間ほど、うたた寝をしていたようだ。寝室に入ってきた響子は、灯りを付けたまま横になっていた雅紀に気づくと、
「あ、ごめん、起こしちゃった……?」
 小さく申し訳なさそうに言って、天井の電気を消して傍らのスタンドの間接照明に切り替えようとした。
「いや、まだ暗くしなくていいよ……ちょっと新聞を読みたいし……」
 と言って雅紀はゆっくりと上半身を起こすと、サイドテーブルに置かれた新聞に手を伸ばした。響子は鏡台の前に座ると、化粧水を手に取って、両の手のひらで顔全体にパシャパシャと馴染ませ始めた。雅紀はそんな妻の姿をちらちらと目で追った。
 湯上りの響子は、紺地に紅い金魚や朝顔をあしらった浴衣生地のような甚平を着ていた。風呂から出たばかりでまだ暑いせいか、いつもは下ろしている後ろ髪を飴色をしたべっ甲の髪留めで上げていて、ほっそりとしたうなじにうっすらと玉のような汗が浮いている。そのまま、今度は鏡の中の響子に目を移し、白く滑らかな首筋から衿元の肌へと視線を這わせていくうちに、雅紀は妙にどぎまぎとしてしまい、慌てて広げていた新聞に目を戻した。
 けれど、しばらくすると、雅紀の目は再び鏡の中へ戻っていった。雅紀は響子を綺麗だなと思った。風呂上がりで、もちろん化粧は落としておりスッピンであったが、湯上がりのせいか頬が薄赤く、うっすらと桜色に染まり、しっとりとした艶やかな潤いに満ちている顔をしていた。久しく、ひとりの女として美醜を考えて見つめたことはなかったが、こうしてまじまじと妻の顔を改めて見直してみると、誰もが振り返るような人目を引く美貌とまでは言えないけれど、笑うと片頬にえくぼが刻まれて、何となくほっとするような、一緒にいてゆったりと安らぐことのできる家庭的な美人だな、と思った。
 ——と、ふと鏡の中の響子と目が合ってしまった。
「な~に?……さっきからチラチラ見たりして」
 口の形だけで(もうっ)と言って、雅紀を少し睨むような目をして鏡の中の響子がこちらを見ていた。雅紀は慌てて目を逸らした。
「いや、別に……」
 雅紀は照れ隠しで、わざと不貞腐れたような声でそう言うと、新聞を折り畳んでサイドテーブルに置いて、そそくさと夏掛け布団の中にもぐり込んだ。響子は鏡に映る雅紀の様子を気にしながら髪留めを外し髪に櫛を通すと、やがて立ち上がって部屋の灯りを消してベッドに横になった。雅紀は響子に気づかれないように、静かに長い溜め息をついた。先程までうたた寝をしてしまったせいか、とても眠れそうになかった。灯りを消した薄暗闇の中で、すっかり冴えてしまった目でじっと天井を見つめてみる。そうしていると目の前に浮かんでくるのは、やはり、ホームで車内の響子に向かって一礼をして見送るあの男の姿だった。あの男の姿が、目の奥に焼き付いて、どうしても消えようとしなかった。
——やっぱりダメだ……。
 今夜は、このまま何も言わずにおこうかと思ったが、できなかった。響子が自分から話してくれないなら、こちらから訊くしかない。もうこれ以上、蛇の生殺しみたいに、いつまでもウジウジと悩むのはごめんだ……。雅紀は、大きく息を吐くと、夏掛け布団を足で蹴るように押しやって、むくりと起き上がった。
「どうしたの、急に……?」
 響子は夫の気配に気づき、慌てて起き上がると、サイドテーブルのスタンドに手を伸ばして灯りをつけた。雅紀は、ベッドの上で胡坐をかいて、俯いたまま黙り込んでいた。膝の上に置かれた手が少し固く握りしめられて、微かに白くなっている。響子は何と声をかければいいのか戸惑うばかりで、不安げに夫の横顔を見つめていた。やがて、雅紀は肩で息をつくように大きく深呼吸をすると、重い口を開いた。
「響子……」
 掠れた声で呼ぶと、響子は俯いた雅紀の顔を少し下から問いかけるように見つめてくる。雅紀は顔を上げると、そんな彼女の目をじっと見つめ返しながら、とうとう思い切って告げた。
「今日、見ちゃったんだ……」
 響子の肩がピクリと動いた。
「………何を?」
 雅紀はごくりと唾を飲み込んで言った。
「響子が男と歩いているところ、をさ……」
 怪訝そうに眉を寄せていた響子が、あ……、と思い当たった表情になる。無言のまま、目を瞠って雅紀を見つめた。静かな湖面に波紋が広がるように、その瞳に驚きと困惑の色がみるみる広がってゆく。すると、おもむろにベッドの上で正座をして背筋を伸ばすと、
「ごめんなさい、黙ってて……」
 と、雅紀に向かって静かに頭を下げて謝った。
 響子が即座に否定したり言い訳をすることはないだろうとは思っていたものの、こうもあっさりと素直に認めて謝られてしまうと何だか少し拍子抜けして、雅紀は何と言ったらいいかわからず、黙ったまま妻を見つめた。
「あの、でも……その……あなたが思っているような関係じゃないわ。ただ、会ってお話するだけで……」
「——でも、誤解されるのが嫌で言えなかった?」
 雅紀は、彼女の語尾を引き取った。
「そう……」
 口ごもりながら、響子はこくりと頷いた。その後、膝の上に重ねた手を握りながら、何をどう話そうか考えあぐねているようで、一度はようやく口を開きかけたが、喉のところで言葉が引っかかったようになって、また口を噤んでしまった。
 雅紀は、響子が隠さずにすぐに打ち明けてくれたことにホッとしたものの、かと言って、それですべての問題が解決されたわけではない。
「どんな人なんだ……?」
 雅紀はホームでの男の姿を思い浮かべながら、響子に訊いた。すると、響子はベッドから下り、鏡台の前に立つと抽斗から何やら取り出して、再びベッドに戻り、雅紀の前に差し出した。
「サヤマ…ヒロユキ……」
 差し出された名刺を受け取って、雅紀はその名前を呟くように声に出して読んだ。肩書きの会社名には、家族で買い物に行くことのあるデパートの名前が書かれてある。名刺に目を落としたままの雅紀に向かって、響子は言葉を継いだ。
「ほんとに、会って話しているだけなの……。佐山さんに対して特別な感情を持っているわけじゃないし……。ただ……」
 雅紀は顔を上げると、響子の目を覗き込むようにして言った。
「ただ……?」
 響子は少し躊躇ってから続けた。
「ただ、葵のお友達のお母さんたちとは違った話ができるのが、ちょっと新鮮で……」
 大きく溜め息をつくと、雅紀は再び名刺の上に目を落とした。
「——ごめんなさい」
 響子は雅紀に再び頭を下げた。二人の間に重苦しい沈黙が流れた。
 考え込むようにしてじっと名刺を見ていた雅紀は、やがて顔を上げると、ふっと遠い目をしてから言った。
「響子が佐山さんと、その……関係がないことはわかるよ」
「え……?」
 響子は訝しげに雅紀を見た。
「こんなこと言うの、恥ずかしいんだけど……」
 そこで言葉を切ると、ふぅっと重い溜め息をついてから続けた。
「実は今日、植物園から二人のあとをつけちゃったんだ……。だから、わかるよ、二人がそういう関係じゃないってことは」
 響子は一瞬、息を呑むようにして雅紀を見た。
「もうひとつ白状しちゃうとね。父さんと母さんが最初、あの植物園で響子たちのこと、見たらしいんだ。父さんは、夫婦の問題なんだから黙っているように、って口止めしたらしいんだけど、母さんは、ほら、あの性分だろ。黙っていられなくて、俺に話してきたんだ」
 響子は再びハッと目を見開くと、下唇をきゅっと噛んで目を落とした。
「それで今日、タクシーで取引先から帰るとき、偶然植物園の前を通ったから、まさかと思いつつ、急に思い立って降りてしまったんだ」
「ごめんなさい……」
 消え入りそうな声で、響子は再び謝った。
「いや……俺もあとをつけたりして悪かった。響子のこと、信じていたつもりだけど……やっぱり不安でさ。こんなことだったら早く訊けば良かったんだけど」
「ううん……」
 小さく首を横に振りながら俯くと、彼女は膝の上に重ねた手をぎゅっと握り締めた。そして、膝の上に目を落としまたままのその姿勢で、ぽつりと言った。
「私、もう佐山さんと会うの、やめるわ。これ以上、あなたやお義父さんたちに心配かけたくないもの」
 雅紀の目が、ちらっと動いて、響子を見た。
「——その前に一度、佐山さんに会わせてもらえないかな……?」
「え……?」
 響子が顔を上げると、真っ直ぐに自分に向けられている雅紀の目とぶつかった。でも、その瞳からは、夫が何を考えているかは判らなかった。
 雅紀は、できるだけさりげなく聞こえるように言葉を継いだ。
「どんな人なのか、一度見てみたいんだ」
「いいけど……」
 響子は夫の真意が判らないまま、曖昧な表情を浮かべて小さく頷いた。
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