第20話 アリウム〈雅紀〉

文字数 9,629文字

 妻を挟んで佐山と三人で会ったあの日以来、それまで、ともすれば沈みがちだった気分が、完全浮上とまではいかなくても、いくらか上向きになったのを感じていた雅紀だった。佐山に直接会い、どんな男なのかこの目で確かめられたこと、そして、思っていたこと、考えていたことを口にできたことで、心の中のわだかまりがすべて解決したわけではないものの、多少なりともスッキリとしたことは確かだった。定時を過ぎて、フロアから三々五々と皆が連れだって帰ってゆくなか、雅紀はまだデスクでパソコンに向かって仕事をしていたが、ふとキーボードの上で手が止まると、何時になく深い物思いに沈んでいった。

 先日、佐山と響子には、自分ながら思い切ったことを言ったものだと思う。それもこれも、ホームで見かけた佐山の姿のせいだった。電車の中の響子に向かって一礼して見送る姿から、薄々勘づいていたことではあったが、実際に会ってみて、やはり佐山は響子に対して単なる好意以上のものを抱いているのが伝わってきた。本人は隠そうと努力はしているようだったが、それでも話す言葉の端々や、夫の自分がいる手前、遠慮がちに響子に目を向ける様子には、隠しきれないものが滲み出ているように、雅紀には思われた。そして、響子が言っていたように、二人の間にいわゆる男女の関係が無いことも感じ取れた。
 しかし、その一方で、雅紀は何となく割り切れないものも感じていた。考えてみれば、響子と結婚して以来、いや、初めて出会って以来ずっと、響子は雅紀だけのものだった。他の男と彼女を分かち合う必要なんて無かった。妻として、響子はいつも夫の自分だけを見つめ、夫の自分だけに微笑み、夫の自分だけに話しかけてくれる存在だった。それが……あの日は違っていた。彼女は自分に対するのと同じように感じよく、目の前に座る佐山にも微笑みかけ、話しかけていた。おまけに、二人が時折目を合わせた際に交わされる無言のやり取りや、逆に、あえて目を合わせないようにしている様子に気付くたび、親密な空気が二人の間に流れているようで、束の間、雅紀はよそ者になったような気がして、胸の奥深いところが嫉妬の炎に焼かれ、キリキリと痛んだ。
 佐山にひと通り言いたいことを伝えたあとは、社会人としての嗜みで、お互い仕事のことを当たり障りなく話して残りの時間を潰し、珈琲を飲み終えて店を出たのは、十一時半を少し回った頃だった。佐山と響子の後ろに続いて店の外に出ると、高く昇った太陽がギラギラ照りつける日射しに、雅紀は思わず目を細めた。ひと仕事終えたような解放感のせいか、抜けるような青空を見上げたら、何だか不意に海まで車を走らせたくなって、佐山と別れの挨拶を済ませると、響子を乗せて急遽、海辺に向かってドライブに出た雅紀だった。本当はこのままどこか海辺のホテルにでも泊まりに行きたいくらいだったが、突然の外泊などしたら、かえって母に勘ぐられて煩わしいので、日帰りの小旅行を楽しむことにしたのだった。店の駐車場を出てしばらくすると、バックミラー越しに駅に向かう佐山がひとり歩いているのが見えた。佐山の前から妻をさらっていくわけではないけれど、心のどこかで優越感を感じている自分に気づくと、何だか嫌な男だな……と雅紀は心の内でひとり苦笑いをした。
 車に乗り込んですぐに、響子は「どうして、あんなことを……」言ったの?と訊いてきたが、「う~ん……自分でもまだよくわかんないだけどね……。だから、ちょっと時間が欲しいんだ……」と曖昧な笑みを浮かべて、雅紀は言葉を濁した。しかし、それは半分ホントで、半分ウソだった。——全くわからないわけではない。自分なりに考えて、ある程度は納得している部分もあるからだ。
 響子の口から、佐山とは会って話すだけの関係だと聞かされていたが、ホームで響子を見送る佐山の姿からして、雅紀の中でも、その点に特に疑念はなかった。だとしたら、そうした関係を、「お互い結婚しているから」というだけの理由で拒む、認めないというのは、何となく気が進まなかった。諸手を挙げて喜んで認めることはもちろん出来ないものの、だからといって、「金輪際、会うのはやめてくれ」というのも、男として器が小さいような気もして言えなかったのだ。
 それに、響子は佐山と話していると、幼稚園のママ友とは違った話ができるのが新鮮だと言っていたが、確かにそういう面はあるだろうなぁ……とも思うのだ。自分は家を離れれば会社という外の世界があるが、妻は子育て中ということもあり、一日、家がメインの世界だ。自分から望んだ同居とはいえ、義父母との暮らしは、やはり大なり小なり窮屈さがあることは否めないことを考えると、佐山と会うことで、ちょっとした息抜きができるなら、そういうのもアリかもしれない、とも思える。
 ただ、これは、響子が簡単に世間で言うような不倫関係、男と女の関係にならない女だという信頼、そして、ホームで電車の中の妻に向かって一礼する姿や実際に会った様子から、佐山もそんな男ではないだろうという信頼があるからこそ言えることではある。
 母がこんなことを知ったら、「そんな関係を認めて、自分から火種を撒いておいてどうするの?!」と、またお小言を言われそうだし、確かに、時の移り変わりとともに、佐山と響子の関係性だって、今後変わっていくこともあるだろう。でも、別に佐山が現れなくとも、この先、響子との夫婦関係が危機に陥る可能性は決してゼロではないし、壊れないという保証はどこにも無い。ちょっと冷めた見方かもしれないが、佐山がいようがいまいが、壊れるときは壊れるだろうと思っている。だったら、佐山と響子の関係を認めて、しばらく様子を見てもいいんじゃないか。——それが、今のところ、雅紀がたどり着いた結論だった。こうしてみると、たとえ妻であろうと、あまり人の心というものを、端から信じていないのかもしれない……。人間関係でさえも、感情よりも理詰めで考えてしまうのは、損な性格だと自分でも思うが、仕方がない。とにかく、今この時点では、響子と佐山が会うことを認めない理由に関して、自分を納得させるだけのものが、他に見当たらなかった——というのが正直なところだった。……それに、響子には、やはり良く思われたい——妻の前では、心の広い度量の大きい夫でいたいという見栄もあったと思う。そう思うあまり、つい背伸びをしてしまったような気もする。
 そうはいってもみても、何であんなことを言ってしまったのか……、何も夫の立場でわざわざあんなことを言わなくても良かったのではないか……と、今更ながら、ちょっと後悔している気持ちも、もちろん少なからずある。今まで、どちらかというと、何事もどこか一歩引いた冷めた目で見つめて理詰めで考え、自分の判断にあまり逡巡するようなことがなかっただけに、佐山の出現でこんなにも自分の心を持て余すのは、考えてみたら人生初めてのことかもなぁ――雅紀は溜め息まじりにそう思うと、パソコンの電源を落とし、帰り支度を始めた。

 エレベーターで階下に降り、会社の玄関を出て駅に向かって歩き出したところ、
「森村さん」
 背後から自分に呼びかける女性の声がしたようで、雅紀は振り返ると辺りをキョロキョロと見渡した。しかし、見覚えのある顔はない。空耳が聴こえるとはかなり疲れが溜まっているのかもしれないな……とひとり苦笑を漏らしながら再び前を向こうとしたとき再び、
「森村さん」
 と、今度は確かにはっきりと女性の声が聴こえた。辺りに目を凝らすと、少し離れた所に立っている見知らぬ女性と目が合った。こちらよ、というように雅紀に向ってひらひらと手を振って(あで)やかな笑みを浮かべている。夜風ではらりと額にかかった前髪を耳にかけると、その女性は雅紀を真っ直ぐに見つめたまま、ゆっくりと会釈をした。
 雅紀が驚いて立ち止まったままでいると、その女性は、呆気に取られている雅紀のことなど、たいして気に留める様子もなく歩き出した。ゆっくりと近づいてくる彼女を、雅紀は訝しげな顔で見つめた。アーモンド形をした切れ長の目に、通った鼻筋、どこかエキゾチックな面立ちの、いわゆる目の覚めるような美女だった。クレオパトラのようにパッチリと肩のところで切り揃えられた真っすぐな黒髪やあっさりした化粧が、彼女の美しさを一層際立たせている。黒のハイネックの半袖セーターに黒のパンツという全身黒づくめにもかかわらず、夜の空気に溶け込むことなく、夜目にもどこそこ輝いて見える。まるで光を発しているかのように、彼女の周りだけ仄かに明るく見え、外で仕事をする女性らしい、甘えを寄せつけないピリッとした雰囲気が彼女を包んでいた。
 見知らぬ女性に、それも(あで)やかな笑みを浮かべた美女に、いきなり名前を呼ばれるというのは、悪い気はしないものの、身に覚えがないとなれば、結構戸惑うものだ。おまけに、その女性は雅紀の前に立つと、追い討ちをかけるようにこう言ったのだった。
「佐山洋之の妻の、佐山美和子と申します」
「えっ!?……」
 一瞬、面食らって雅紀が訊き返すと、彼女は涼しげな目許に勝気そうな強い光を浮かべ、ニコリともせずに繰り返した。
「佐山洋之の妻の、佐山美和子と申します」
「あっ……」
 驚きのあまり、咄嗟に返す言葉も出て来ず、雅紀はポカンと口を小さく開けたまま、目の前の女性を見つめ返した。雅紀の顔に浮かぶ表情の変化を見てとると、彼女はようやく口許に微かに笑みを浮かべ、どうも……というように、再び軽く会釈をした。

「主人は、写真を学生時代から続けていて、今でも休みの日に出かけて撮っているんですけれど……」
 そう言いながら、彼女は一枚の写真を雅紀の前に差し出した。
「先日これを見つけてしまったんです」
 定時もだいぶ過ぎており、社内の顔見知りに、彼女と二人でいるところを見られる可能性は低かったものの、雅紀は用心して、会社の玄関先から早々に彼女を連れ出すと、少し離れた喫茶店に彼女を案内していた。テーブルを挟んで向かい合わせに腰を下ろした彼女が、挨拶もそこそこに雅紀に差し出したのは——妻の横顔をとらえたセピア色の写真だった。
 ホームで佐山の姿を見かけたときと同じ感覚が再び甦ってくる……できることなら、見ずに、知らずにいたいものを、どうして、こうも目の前で見せられるのだろう……。手にした写真の中の妻の横顔に目を落としながら、何だか不思議な巡り合わせを感じずにはいられなかった。
「この写真のこと、主人に直接訊くことができなくて、実は私、この前、出かける主人のあとをついて行ったんです」
 彼女の声にハッと我に返ると、雅紀は目を上げて彼女を見た。もしや……と思いつつ、
「——じゃ、もしかして、あのお店に……?」
 と、雅紀がおそるおそる訊ねると、
「えぇ」
 彼女は短くそう答えて、運ばれてきた珈琲カップに、そっと口をつけた。
「そうでしたか……。でも、どうして私のことを?」
「主人と名刺を交換していらっしゃったでしょう」
「あぁ、それで……」
 佐山と名刺交換したことを思い出し合点がいくと、雅紀は手にしていた写真を美和子に返した。
「あの、それで、こちらはやはり……?」
 美和子が、雅紀から手渡された写真に目を落としながら言うと、
「ええ、妻の響子です」
 と、雅紀は答えて、珈琲カップに手を伸ばした。
 美和子は写真を鞄に仕舞うと、すっと背筋を伸ばして、改まった表情で雅紀を見つめた。
「——失礼ですが、奥様とうちの主人はどういう関係がご存知で……?」
「ご主人と妻は、植物園で偶然知り合ったそうで、その後、何度か会ったと聞いています」
「…………」美和子は黙ったまま、雅紀をじっと見つめた。
「でも、二人はその……そういう関係ではないと……ただ、会って話をするだけだそうです」
 途端に、切れ長の彼女の目が、すうっと冷たくなった。
「どうして、そう言い切れるんですか?」
 美和子はつい、意地の悪い口調になってしまった。
「……そうおっしゃるのも、ごもっともです。確かに、証拠なんてありません」
 雅紀は黒縁の眼鏡を人差し指で押し上げながら言った。
「——でも、少なくとも私はそうだと思っています」
 雅紀から目を逸らすと、美和子はふっと冷めた笑みを浮かべて、大きく息をついた。
「……奥様を信じていらっしゃるんですね」
「ええ。それから佐山さんのご主人も……」
 美和子はうっすら笑うと、何を言うべきか言うまいか思い惑うように、しばらく口を噤んだまま、テーブルの上にぼんやりと視線を彷徨わせた。
「それで……森村さんは二人のことをどう思っていらっしゃるんですか?これからも二人で会うことを認めていらっしゃるんですか?」
「ご主人にも先日言いましたが、……正直言って、認めたくない——」
「…………」美和子は黙ったまま頷いた。
「でも、そういう関係があってもいいじゃないかと思う自分もいる」
 雅紀からの思いがけない言葉に、彼女はハッと目を見開いた。雅紀は深い溜め息をついたあと、静かに続けた。
「——だから、少し時間が欲しいと言いました」
 彼女は微かに唇を開いたまま、雅紀を見つめていたが、やがて唇をきつく結び、俯いてテーブルの上に目を落とした。彼女はそのまま長い間黙っていた。雅紀はそんな彼女を見守りながら、珈琲カップをゆっくりと口へ持っていって一口啜った。
 しばらくして、顔を上げると、彼女は強い視線でキッと雅紀を見つめた。
「——男と女の関係がないなら、それでいいんでしょうか?」
 ドキッとするほど、冷たく硬い声だった。真っ直ぐ挑むように見つめてくる目にも、刃物のように冷たく強い光が湛えられていた。雅紀は答えに窮して、黙りこんで彼女の顔を見つめ返すことしか出来なかった。胸の奥の深いところがズキリと痛む。これまで、見まい、考えまい、と敢えて避けてきたところをズバリ突き刺されたようだった。美和子は雅紀から視線を逸らさずに、きっぱりした口調で淡々と続けた。
「私には、実際に関係を持つことと、心の中で自分の夫や妻以外の異性を思い描くことは、たいして変わらない裏切りのように思えますけど」
 そして最後に、寂しい笑みをふっと浮かべると、こう言った。
「ま、心の内で他の誰かを思い描かない既婚者など、いるわけがないって言ってしまえば、それまでなんですけどね」
「…………」
 雅紀は返す言葉もなく、重い溜め息をつくと、冷めた珈琲で苦い思いを流し込んだ。

「じゃ、これで——」
 美和子とひとしきり話を終えた雅紀は、店の外に出ると、そう言って駅に向かおうとした。と、美和子はすかさず、
「もう少し付き合ってもらえませんか?」
 と、雅紀を引き留めた。
「え?……」これ以上、彼女と話すのは何だかしんどい気がして、雅紀は腕時計にちらりと目を走らせると、「でも、もう遅いですし……」と返事を濁した。
 すると、美和子も腕時計にちらりと目をやって、
「あら、まだこんな時間ですよ」
 そう言って、いたずらっぽく目を輝かせると、からかうような軽い口調で、
「奥様とうちの主人と同じ。……会ってお話するだけですから」
 と続けた。言葉は柔らかいが、雅紀に向けられた目の色には有無を言わさないものがあった。ここで断るのも、大人げないないような気がして仕方なしに、
「じゃ、少しだけ……」
 頷きながら雅紀がそう言いかけたときには、彼女はもう、背中を向けたあとだった。

 彼女に案内された先は、先程までいた喫茶店から少し歩いた場所にある、雅紀がまだ行ったことのないバーだった。来る途中、彼女に「夕食はまだですか?」と訊かれたが、彼女と差し向かいで食べる気力も食欲も到底ありそうにも無く、じゃあ、軽く一杯という話になり連れてこられたのが、この店だった。重厚感のある木製の扉を押し開けると、程よい明るさでゆったりと落ち着いた空間が広がっている。開店してまだ間もない時間帯のせいか、客は他に誰もいなかった。顔馴染みの店なのか、彼女がカウンターへ近づくと、中にいた初老のバーテンの男性が軽く会釈するように頷いた。彼女もにっこり笑って頷き返す。
 カウンター席に腰かけて隣の椅子に鞄を置くと、彼女はバーテンの男性に向かって軽く手を上げ、「マスター、いつものスコッチ、ロックで」とテキパキとした口調で手短に注文し、雅紀にはカウンターに置かれていたメニューを手渡した。受け取りながら礼を言うと、
「落ち着いた、いいお店ですね……」
 と、雅紀は店内を見渡しながら言った。
 すると、美和子は前に立つマスターに向かって、
「——ですって」
 と、目で笑いかけながら言った。雅紀はふと美和子の向こう側に見える、ネギ坊主のような丸くコロンとした花に目を留めた。細くすっと伸びた茎の先端に、藤紫色の小さな花が密集して大きな球形の花を形づくっている。丸くてふわふわと優しい雰囲気でありながら、葉っぱのない真っ直ぐに伸びた茎先に悠然と咲き誇るその花姿は、他にはない見た目で存在感があり、手前にいる美和子の雰囲気によく似ていた。
 そんな雅紀の視線の先を辿ると、美和子はマスターに再び声を掛けた。
「マスター、あの花の名前、何て言うんだっけ?」
 手元のグラスから目を上げると、マスターと呼ばれた初老の男性は、カウンターの端に飾られた花に目をやり、
「あぁ、あれはアリウムって花だよ」
 とだけ答えると、再び手元に目を落とした。
「——ですって」
 と雅紀に向かって言うと、美和子はグラスの水をひと口飲んだ。「……で、何にします?」
「えっ……あ……」慣れない彼女の会話のテンポについていけず、何だかしどろもどろになってしまい、メニューの上で目を泳がせるも、
「じゃあ、彼女と同じもので」
 と口ごもりつつ注文した雅紀だった。すかさず隣で美和子がプッと吹き出した。
「それ、女性がよく口にするセリフよ、『じゃ、彼と同じもので』って。面白い人ねぇ……」
 そう言うと、雅紀を見ながら、ふふふっと笑った。すると、そこへマスターが間に入り、
「あんまり、お連れの方を困らせるんじゃないぞ」
 と少し戒めるように言いながら、チョコレートとナッツの入った皿をカウンター越しに二人の前に置くと、
「いつも、こんな調子ですから、あまりお気になさらずに」
 と、雅紀に向かって目で笑いかけた。
「やめてよ、マスター。初対面の人に、そんな変な先入観を持たせないでよ。これから大事なお話をするんだから」
「大事な話……?」
「そ……。だからもう、早くあっちへ行って下さいな」
 そう言って、美和子がひらひらと追い払うように手を振ると、マスターは「どうぞ、ごゆっくり」と二人の前にウイスキーの入ったグラスを置いて、カウンターの向こう端へ消えて行った。
 今度は雅紀がクスッと笑っていた。
「あ……、ようやく笑ってくれましたね。黒縁眼鏡でそんなお顔立ちだから、私、実はちょっとおっかなびっくりでいたんですよ」
「そんなに怖いように見えましたか?……いや、それより、貴女の方こそ、初対面でも物怖じなんかしないで、とてもおっかなびっくりでいるようには見えなかったですけど」
「あら、それは心外だわ」
 そう言うと、あっけらかんとした表情で笑いながら、美和子はグラスに口をつけた。

 しばらくして、店の中に抑えたボリュームで音楽が流れ出した。まだ他に客のいない静かな店内ゆえ、マスターが気を利かしてかけてくれたようだ。夜更けに聴きたくなるような落ち着いたジャズの曲を耳にしながら、雅紀は、先程、彼女が言っていた“大事な話”って一体、何だろう……と思いながら、ウイスキーを口に含んだ。すると、そんな雅紀にちらっと目をやり、美和子が口を開いた。
「『男性はある歳を境に、愛人ではなく女友達を持ちたがる』って何かで読んだけど、うちの主人もそうなのかしら?」
「さぁ、どうですかね……」
 そんなこと、自分に訊かれても困る……雅紀はちらりと美和子に目をやってから、手の中のグラスをゆっくり廻した。氷がカランと音を立てる。
「森村さんはどうです?」組んだ腕をカウンターに載せて雅紀の方に顔を向けると、好奇心で目をキラキラさせながら、彼女は訊いてきた。「女友達がほしいですか?」
「いや……」雅紀は苦笑いしながら答えた。
 すると、彼女は片眉をひょいと上げると、悪戯っぽく付け加えた。
「じゃあ、愛人?」 
「いや……」雅紀は思わず口ごもった。「……私は、妻一人で満足してますよ」
「あら、ごちそうさま」
 彼女は軽く肩を竦めて微笑んだ。
「でも、……妻は満足していないのかもしれません」
 思いがけない告白に、彼女は驚いた表情を浮かべると、目で問いかけた。
「妻は、佐山さんと話していると、娘の友達の母親たちとは違った話ができるのが新鮮だったから……と言っていたんですけどね。あれは、もしかしたら、私とは違った話ができることを言っていたんじゃないかって……」
 美和子は怪訝そうな顔で、雅紀の言葉を待った。
「確かに、うちは世間一般の夫婦に比べたら、会話は多い方だとは思うけど……、結婚前に比べたら、内容はどうしても、私の仕事の話や、娘や両親の話に限られてしまいますからね……。そういう意味では、私も反省しているんです」
「奥様は幸せだわ、こんな素敵なご主人がいて」
「いや……。ただ、妻には、両親と同居してもらっているでしょう。だから、そのくらいは気を遣わないと」
 彼女は両手の指を組んだ上に顎を乗せたまま雅紀に顔を向けると、少し口を尖らせながら、
「それ以上、惚気られたら妬けちゃうわ」
 と言い放つと、恨めしそうに雅紀を軽く睨んだ。

 美和子は組んでいた指を解くと、グラスをゆっくりと口へ持っていって一口啜り、そして……呟くように話し出した。
「うちは……主人とは大学時代からの付き合いで、卒業してしばらくしてから結婚したんです。最初はお互い仕事があるし、子供はもう少しあとにしようって話し合って……」
 彼女の目に、昔を懐かしむ輝きが走るのを、雅紀は黙って見つめていた。
「でも、三十代を迎えるようになって、いざ子供が欲しいと思った時にはなかなかできなくて……。子供がいないから、二人とも自分のやりたいことを自由にやって、夫婦というよりも、気の合う友達みたいになっているんです。だから時々、この人がいなくても、私の生活はあんまり変わらないのかも……って思うこともありました。でも——」
 彼女は、遠くを見るような目をして、不意に口を噤んだ。
 雅紀は促すように彼女の横顔を見つめた。彼女はちらりと雅紀を見て溜め息まじりに続けた。
「でも、知らない女性の写真を見つけてしまったら、自分でも意外なくらい動揺しちゃって……。主人に気軽に尋ねることもできなかったし、ビクビクしながら後をつけちゃたりして……」
 彼女はふっと力なく笑った。疲れたような微笑みだった。
 雅紀は居たたまれず彼女の横顔から目を逸らすと、手の中のグラスをゆっくりと廻した。
 不意に音楽が途切れ、店の中がしんとした。
「森村さん」
 雅紀の手が、ピタリと動きを止めた。静まった店内に、改まった様子の彼女の低い声が響き渡り、思わず背筋に緊張が走る。
「はい……?」
 少し強張った表情を浮かべて、雅紀はゆっくりと身体ごと彼女の方に向けた。美和子は膝の上に重ねた手をぎゅっと握り締めると、真っすぐに雅紀の目を見つめて、優しく、けれどキッパリとした口調で告げた。
「森村さんは少し時間が欲しいと仰っていたけれど、私はどんなに時間をかけて考えても無理だわ。私は、主人以外の男性を必要だとは思わないし、主人にとっても、私が唯一必要な女性であってほしい。……だから、奥様とうちの主人のような関係は、やっぱり認められないわ」
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