第16話 マリーゴールド〈雅紀〉

文字数 8,222文字

 窓の外には、夏らしい真っ青な空が広がっていたが、雅紀の心はどんよりと曇った鼠色の梅雨空で、浮かぬ毎日が続いていた。このところ油断していると、ストンと穴に落ちてハマり込んでしまったかのように、鬱々とした気分からなかなか抜け出せないでいた。落ち込むのはいいが、浮上するのに時間がかかり過ぎる……雅紀は、出先から会社への帰りのタクシーの中で、重い溜め息をついた。響子がそんな大それたことをするはずはない——とは思っていても、どうも妻のことが気になって仕方なかった。不安と自信のなさのあまり、些細なことがすぐに疑いへと直結する今の状態を、雅紀は自分でも持て余すほどだった。男として、夫として、いつかは身に着けるべき強さや優しさ、包容力とか、待つことのできる余裕とか……歳を重ねるに従い漠然と身につけているつもりだったけれど、たかが一度、妻が見知らぬ男と歩いていたと聞かされたくらいで、グラグラと揺れている頼りない自分に、何だか男としての度量を試されているような気がした。父母たちの手前、あまり妻のことを気にしている素振りを見せるわけにもいかず、心に鬱屈した思いを秘めている分、家で過ごす時間は余計に気を遣ってイライラすることもあった。内心を悟られないように何とかいつもと変わらぬよう、何食わぬ顔をして過ごしているつもりだが、時折、うわの空になっているせいか、気が付くと食卓の会話から置いてけぼりになっていることもあるほどだった。妻を信じているつもりでも、今回の件をきっかけに改めて考えてみると、実に頼りない信頼であることに気づかされる……。夫婦の絆って一体、何なんだろう、と思ってしまう。ふと雅紀は結婚する前に響子と出会った頃を思い出していた。

 自由気ままな風来坊の弟がいることもあって、いずれは長男の自分が結婚して両親とこの家で同居することになるんだろうなぁ……と頭のどこかで思いながら大人になった雅紀だった。しかし、社会人になってから、結婚を考えた女性が現れたものの、両親との同居をそれとなく仄めかすと、だんだんと疎遠になり、いつの間にか自然消滅してしまった。そんな苦い思い出があったこともあり、しばらく女性との付き合いが億劫になり、特にこれといった趣味もない雅紀は、ある意味、逃げ場のようになってしまった仕事に打ち込む日々を送っていた。三十も近くなり、いい加減実家からの独立を考えたこともあったが、国内外への出張で家を空けることも多い生活だったので、親と始終顔を突き合わせているわけでもなく、家の雑事を母親に任せきりにできる便利さもあって、ぐずぐずと実家から離れずに来ていた雅紀だった。やむなくではあったものの仕事に邁進したおかげで、しばらく経つうちに雅紀のその働きぶりは上司の目にも留まり引き立てられ、やがて転勤の話が持ち上がった。会社に評価してもらえたこと自体は嬉しかったが、そもそも仕事に打ち込んだ動機のことを考えると、若干の後ろめたさがあり諸手を挙げて喜べるわけではなかったけれど、三十を過ぎて、口には出さずとも、そろそろ結婚を、と考えている両親といつまでも一つ屋根の下で暮らすことが気詰まりになってきたこともあり、雅紀はこれは実家から独立するいいチャンスだと思い、渡りに舟とばかりに二つ返事で承諾をした。
 ——が、それがどういうわけか、上司からある日突然、転勤の話は聞かなかったことにしてくれと言われた。おそらく、社内の派閥抗争のせいだろうと察しはついたが、雅紀はそれ以上、上司には何も訊かなかった。訊いたところで、転勤の話が覆るわけでもないし、社内のそうした揉め事にかかわるのが面倒だったからだ。仕事ぶりが評価されることに後ろめたさを多少感じつつも、それなりに気負って楽しみにしていた転勤の話が宙ぶらりんになってしまい、さて、これからどうするべきか……やはり、もう実家を出ようかな……などと思い始めていた矢先の出来事だった。
 母の六歳年下の叔母が、突然、見合いの話を持って訪ねてきた。日頃から仲の良い妹が持ってきてくれた話だけに、母は当然のことながら喜び、まるで自分が見合いでもするかのように俄然、乗り気だった。雅紀は過去の苦い思い出から、女性とまた一から関係を築いていくのが面倒ではあったけれど、母と叔母の手前、断るなどという選択肢は最初から無く、叔母から差し出されたスマホで相手の女性の顔をちらりと見ただけで、二階の自室へ上がって行ってしまった。

 見合いの日——といっても、仲人を立てるような堅苦しいものではないので、叔母から指定されたホテルのラウンジで、とりあえず相手の女性に会う、というだけのものであったが、雅紀は待ち合わせの時間より早めに着くよう、家を出た。一足先に着いたラウンジで珈琲を頼んで気もそぞろに待っていると、しばらくして店員に案内された彼女が現れた。珈琲カップに口をつけながら腕時計に目を落としていた雅紀は、彼女を見るなり、思わず一瞬、咽そうになりながら慌ててカップを皿の上に戻した。
「初めまして、谷川響子と申します」
 そう言って彼女が微笑んだ途端、胸がざわっと波立ち、皮膚の一枚内側を、電流がさっと全身を駆け巡り、身体中がカッと火照る。自分の口があんぐりと開いているのに気づくと、雅紀は慌てて口を閉じ、ごくりと喉を鳴らした。まるで腰が抜けたようにソファにすっぽりハマってしまっていた腰を、両脇の肘掛けに手を置いて何とか立たせると、
「どうも……森村雅紀と申します」
 と、しどろもどろに挨拶をした。そのとき、頭のどこか片隅に、ある直感が翳めて通った。——この女性(ひと)と終わるときが来たら、きっと心にぽっかり穴が空きそうだな、と。まだ出会ったばかりだというのに……。

 そんな出会いから響子と付き合い始めるようになって、雅紀は週末を楽しみにしている自分に気づくようになった。仕事以外での人付き合いをあれほど億劫がっていた自分が、週末になると足取りも軽く家を出てしまうことに、ひとり苦笑いをせざるを得なかった。お互い電話は苦手ということもあり、平日に電話をすることはなく、会うのはもっぱら週末だけ、という短い時間だったが、どうということもない何でもない話を彼女としているだけで、自分でも不思議なくらい、心の深いところがふっと緩んで解けていくようだった。彼女は自分が話すだけではなく、雅紀にもいろいろ話をさせたがった。普段は、自分自身のことなど話す機会がなかっただけに、最初は抵抗があってぎこちなく話す雅紀だったが、興味津々に頷きながら耳を傾けてくれる彼女の目に励まされ、やがて、胸のつかえが取れたかのように心に浮かんだことを率直に話せるようになっていった。と同時に、そんな自分に戸惑いを感じていた雅紀だった。とはいえ、叔母から持ち掛けられた見合い話である以上、いつまでも、ただ会って話すだけというわけにもいかず、雅紀は、ある日ようやく意を決して、結婚のこと、その先にあるこれからの生活のこと、……そして親のことなど、この先も彼女と付き合いを続けていくためには避けては通れない話を、言葉を選びながら訥々と語り出した。その間、彼女は雅紀を見つめながら、途中で口を挟むこともなく、じっと聴いていた。やがて、雅紀がひと通り話し終えると、
「ようやく、話してくれましたね……いつ話してくれるのかなぁ……って、ずっと待っていたんですよ」
 と穏やかな笑みを浮かべながら、そう呟くように言った。思いもかけぬ響子の返事に、戸惑いつつ雅紀がぽかんと口を開けていると、
「実は……、おばさまからご両親との同居のことは伺っていました。雅紀さんのお母様は妹さんであるおばさまに、『雅紀が結婚できるならそれでいいから、同居のことなんか言わないで』と念押ししていたそうですが、ほら、あのおばさまのことでしょ……」
 そこで、目をクルリとさせると、いたずらっぽく微笑んで付け加えた。
「いずれどうせわかることだからって、お見合いの前に私に話して下さっていたんです」
 雅紀はようやく合点がいき納得したものの、新たな疑問が湧き、
「最初から知ってて、何で、お見合いを受けたんですか……?」
 と、ふと気にかかったことを思わずそのまま響子に訊いてしまった。
 すると、今度は響子が言葉に詰まる番だった。
「えっと……それは……」
 戸惑う響子の様子に、雅紀は慌てて弁解した。
「すみません、別に責めているわけじゃないんです。ただ……義理の親との同居なんて、大抵はみんな嫌がるものでしょう……。正直に言っちゃいますと……、実は、昔、結婚を考えていた女性に、親との同居の話をそれとなくしてみたら、うまくいかなかったことがありまして……。だから、あなたが最初からそれを知らされていて、どうして見合いの話を受けたのかな……って思ったんです」
 すると響子は、自分は父方も母方も、祖父母が田舎に住んでいて、都内で両親と姉弟だけの核家族で育ったから、子供の頃に観たサザエさんやちびまる子ちゃんみたいな三世代家族の暮らしに憧れを抱いていたと言う。
「でも、雅紀さん、なかなか親御さんのことを話してくれないし、先のことを話すのも避けているようだったから、『これはダメかな……お嫁さん候補のお眼鏡には適わなかったのかなぁ……』って内心思ってました」
 雅紀は首を振りながら慌てて彼女の言葉を打ち消した。
「ダメだなんて……そんなこと……」
 それからやや間を置いて居ずまいを正すと、彼女の目をおそるおそる覗き込みながら、口を開いた。
「じゃ……、ほんとにいいんですか……?」
 緊張で身体を強張らせた雅紀に、響子は柔らかな笑みを浮かべると、
「うちの両親は既に弟家族と同居してしますし……、嫁ぎ先で三世代家族で暮らせるなら、本望です」
 彼女にしては珍しくきっぱりとそう告げられ、雅紀は驚きと嬉しさの入り混じった表情を浮かべながら、ホッと一息つくと、
「ありがとう。こちらこそ宜しくお願いします」
 と神妙な面持ちで深々と頭を下げた。

 そんな当時のことを思い出しながら、雅紀はふと思った。
——相手は必ずしも自分でなくてもよかったのかもしれないな……。
 三世代家族という環境があれば、結婚の相手は、何も自分でなくてもよかったのかもしれない——。そう思うと、ちょっと虚しいような寂しいような気がして、窓の外にぼんやりと目をやりながら大きく息をついた。考えてみたら、お互い結婚を意識したあの話以降、今日に至るまで、響子の口からどうして自分と結婚したのか、明確なところは聞いていない……。今更ながらそう気づくと、何だかまた鬱々としてきてしまう雅紀だった。
 その時だった——。見るともなしに眺めていた窓の外から、見覚えのある看板が目に飛び込んできて、雅紀は運転手に向って咄嗟に「スミマセン!ここで、降ります!」と声を掛けていた。

 路肩に停まったタクシーから降りると、雅紀は来た道を引き返し、先ほど目にした看板を見上げると、矢印に沿って中へ入って行った。向かった先は、先日、母に急かされて思わず足を運んでしまった植物園だった。前回訪れた時とは違う方向からタクシーを走らせていたため、例の植物園近くを通っていることに気づかなかったが、広い敷地の公園ゆえ、どうやら入口はいくつかあるようだ。園内の遊歩道を植物園へ向かって歩き出すと、むしむしと湿り気を帯びた空気があっという間に全身を包み、背中に早くもじんわりと汗が吹き出してきた。雅紀はギラギラ照りつける真夏の日射しを避けるように、額に手を翳した。ふと目を落とすと、遊歩道脇の花壇に鮮やかな黄色や橙色が目を引くマリーゴールドが、降り注ぐ太陽のもとで、濃い黄緑色の葉で敷き詰められた絨毯の上を明るい黄金色に彩っていた。
 こんな真夏の炎天下を再び歩いて、一体、何をやっているのだろう……。看板を見た途端、条件反射のようにタクシーから降りてしまった自分に呆れながら、雅紀はふうっと大きな溜め息をつくと、顔を上げて園内を見渡した。——と、青々とした緑の芝生を挟んだ向こう側に、遊歩道を歩く妻の姿が目に入ってきたような気がして、雅紀は手を翳して日射しを避けながら前方に目を凝らした。男と並んで歩く女の横顔が小さく見える。
——やはり、響子に間違いない……。
 蝉時雨が鳴り響く中、響子たちの姿以外、視界からすべて消えてしまったかのようになり、雅紀は暑さも忘れて、その場に立ち尽くした。母から響子のことを聞かされた時は、父母の見間違いではないか、もし本当に響子が男と歩いていたにしろ、たまたま道でも訊かれて歩いていただけのことではないか、と思っていた雅紀だったが、そのどちらもでなかった……。思わず天を仰ぐように顔を上げると、先ほどまで照りつけていた太陽が厚い雲に覆われて、ふっと日射しが翳った。
 ショックだった。自分でも思いがけないくらいに、雅紀は狼狽していた。足を動かそうにも、しばらくそこから動けないくらいだった。まさかとやっぱり……二つの実感が、子供の頃、床屋の店先でよく見かけた、あの赤青白のくるくる回る看板のように、頭の中でぐるぐると廻っている。ドキドキと鳴り止まない心臓を落ち着かせながら、雅紀は、響子たちの後を追うべく、向こう側の遊歩道に向かって歩き出した。
 誰かを尾行するなんてことはもちろん初めてのことだったし、しかもこんな状況で妻を疑い尾行することに後ろめたさはあった。響子が隠そうとするなら、知らないふりをしているほうがいいかもしれない。彼女が話す気になれるときまで待つべきかもしれない。でも、そうしている限り、モヤモヤとしたわだかまりを胸の内にずっと抱え続けていくであろうことを考えると、雅紀には、このまま二人が遠ざかってゆくのを黙って見送ることはできなかった。響子が自分から何も話してくれない以上、こちらから突き止めるしかない……。今はただ、とにかく目の前の二人に気付かれずに後をつけることだけに集中しよう——そう自分に言い聞かせながら、余計な考えを振り払って雅紀は歩き続けた。幸い二人とも、何度もここを訪れているからだろうか……途切れることなく会話が続いているせいなのだろうか……、一度も案内板で道を確かめたり、周囲を見渡したりすることもなく、背後の雅紀の存在に気付く心配は今のところなさそうだった。——が、こんな時に限って、途中、スマホが鳴り出し、雅紀は慌てて前を歩く響子たちに背を向けると、しばし近くの木陰に入って電話に出た。会社からの電話だった。遠ざかる二人の姿に目をやりつつヤキモキしながら、手短に帰社が遅れることを伝えると、雅紀は再び二人の後を追った。
 公園の出口を通り抜け、ようやく駅にたどり着くと、改札口の前で男が立ち止まり、身振りで先に響子を通し、後から続く背中が見えた。そんな二人に目を向けたまま、少し遅れて雅紀が改札口を通ろうとすると、タッチ画面が赤くなって音が鳴り響き、行く手が塞がれた。こんな時に……と思わず胸の内で舌打ちしながら、ふと手元を見ると、胸ポケットから定期入れを出したつもりが、社員証をかざしていたことに気づき、ひとり苦笑いをしつつ定期入れを取り出した雅紀だった。
 何とか改札口を抜けたはいいものの、肝心の二人の姿を見失ってしまい、雅紀は焦ってキョロキョロと辺りを見回した。すると、視線の先に、ホームへ続くエスカレーターを上っていく二人の姿が見えた。自宅へ帰る方向の電車が発着するホームだ。——とそこへ、電車到着のアナウンスが頭上から聞こえてきて、息継ぐ隙もなしに、雅紀は一段飛ばしで階段を駆け上がって行った。
 息を切らせながら階段を登りきると、既にホームに電車が滑り込んできていて、人波に紛れて響子たちが乗り込む後ろ姿が見えた。雅紀は咄嗟に隣の車両に駆け込むと、人の陰に隠れてそれとなく二人の様子を窺った。まるでドラマに出てくる刑事のようだ。
 園内の遊歩道から駅に向かうまでは、二人の間で会話が途絶える様子もなく、どちらかと言うと男の方が話し、響子の方はと言えば、時折、隣を歩く男の顔を見上げ、小刻みに頷いたり、笑ったりしながら聞き役に回っているようだったが、電車に乗ってからの二人は、座席に並んで座っているものの、周囲の目を気にしているのか、一言も話していないように見えた。隣の車両越しとはいえ、あんまりまじまじと見ていると、視線を感じて妻がこちらに顔を向けてしまいそうな気がして、雅紀は無理やり目をもぎ離した。やがて二十分ほどして、響子の横に座っていた男が電車から降りてゆくのが見え、雅紀は慌ててドアに向かった。間一髪で電車から降りると同時に、背中で電車のドアがプシューッと音を立てて閉まった。ホッとするのも束の間、雅紀は、改札へ向かう乗客の波に揉まれ、時折肩を小突かれながらも、少し離れた場所から、男の様子を窺った。
 すると、ホームに一人で降り立った男は、すぐには改札に向かわずに、少し歩いて車両の中ほどの位置に立つと、動き出した電車の窓越しに、響子に向かって一礼をした。そしてそのままホームから完全に電車が走り去るまで見送っていた。
 不意に、内臓が捻じれてちぎれそうな感覚が雅紀を貫いた。奥歯をぐっと噛みしめて痛みを堪える。何なんだ、これは、と一瞬考えて、思い当たった。——嫉妬だ。考えてみたら、響子と出会って以来、どちらかというと順風満帆に結婚まで漕ぎつけたお陰で、嫉妬なんかを感じることなど無かったことに改めて気づいた雅紀だった。
 やがて男は、おもむろに踵を返すと、改札へ向かう階段を降りて行った。胸の内で吹き荒れる嫉妬の嵐に、雅紀はなす術もなく、その背中を複雑な思いで見つめながら、その場に立ち尽くした。

 その夜——。
 雅紀は残業を終えて帰途についたものの、最寄り駅の改札口を出ても、どんよりと鬱々とした気分がまだしつこく続いており、そのまま真っ直ぐ家に帰る気にはなれず、商店街の端にある馴染みの居酒屋の暖簾をくぐった。時計はちょうど八時を回ったところで、週の中日ということもあり、先客はカウンターに一人と、座敷に二グループがいるだけで、比較的静かな店内だった。いつものようにカウンターの片隅に座り注文を済ませると、雅紀は鞄から煙草の箱を取り出した。母や妻の手前、家では吸わないようにしているが、何となく吸わずにはいられなくなる時がたまにあり、密かに鞄に忍ばせている。一本くわえて火をつけると、雅紀はゆっくりと煙を吸い込んだ。
——どうして、こんなにも鬱々と落ち込んだ気分になるのだろうか……。
 ゆらゆらと漂いながら消えゆく煙をぼんやりと見つめながら、雅紀は大きく息をついた。
 母からの焚きつけもあって、どんどん良からぬ方向へと妄想しながら響子と男の後をつけた雅紀からすれば、何だか肩透かしを喰らわされたような気分だった。別に妻の浮気現場を目撃したわけではなかったのだから、もっとホッと安堵してもいいはずだった。それなのに、何か釈然としない思いが拭えず、どうして、こんなにもひどく落ち込んだ気持ちになるのだろうか……。
——いっそのこと、妻とあの男が、ホテルにでも消えてゆくのを見届けた方がよかったのかもしれない……。
 雅紀は自嘲気味に心の中で呟いた。そして、そう呟く心に浮かんだのは、ホームでのあの男の姿だった。こんなにも落ち込んだ気持ちにさせられるのは、どうしてかといえば——それはたぶん、ホームから電車の窓越しに車内にいる響子に向かって一礼をして見送るあの男の姿に、二人の間に、単なるわかりやすい男女関係以上の、目に見えない何とも言いようのない繋がりを見てしまったからなんだと思う。世間でよく言うような不倫関係なんかには収まらない、もっと根の深い関係性を垣間見てしまったような気がして、余計に落ち込むのだ。そう考えると急に、吸い込んだ煙が灰色の鉛のように胸の内に広がる気がして、雅紀は吸いかけの煙草を灰皿の上でもみ消すと、カウンターに置かれた酒をぐいと呷った。いつもより少し多めに酒を呑んではみたものの、鬱々とした気分が晴れることなく、頭の芯が冴えるばかりで、早々に切り上げて店を後にすると、重い足取りで家路についた。
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