第7話 梔子《くちなし》〈洋之〉

文字数 4,599文字

 薄暮があたりを覆いはじめる頃、家路を急ぐ人々の背中を見ながら、むっと押し寄せる人いきれに、洋之はようやく夢から現実に引き戻されたような心持ちで改札口を出た。夢ではないよな……と思わず頬をつねりたくなりそうになって、ひとり苦笑がもれた。たった一日、いや半日も経っていないというのに、あまりにもたくさんの出来事が起きて、まだ実感の湧かない、どこかふわふわとした夢見心地の洋之だった。いつもなら、せかせかと早足で家に向かうところ、今日は何だか急いで帰ってしまったら勿体ないような気がして、駅を出ると少し歩調を緩め、今朝からの出来事を、好きな映画のワンシーンを思い出すかのように、ひとつひとつ大事そうに思い返していった。

「友達としてならいいでしょう?会ってこうしてお話するだけです。それでもダメですか?」
 今になって思うと、我ながら、思い切ったことを言ったものだと思う。あの時は彼女に「でも、主人がおりますから」と即答で断られた後で、頭で考えるよりも先に咄嗟に言葉が口をついて出たものだった。しかし、みるみるうちに戸惑いの色が彼女の顔に広がってしまい、悔んで唇をきつく噛むも、既に後の祭り……。聞かなかったことにしてほしいと苦し紛れの言い訳をしたものの、一度出てしまった言葉の余韻は消すことができず瞬く間に二人を包み、気まずい空気がズシリと肩にのしかかるのを感じながら、足取りも重く、公園の出口へ向かった洋之だった。
 そんな時だった——大粒の雨が路面に水玉模様を作ったかと思うと、あっという間にあたり一面を黒く塗りつぶし、篠付く雨の中、シャッターの降りたパン屋の店先に駆け込んで雨宿りをすることになった。捨てる神あれば、拾う神もあるとやら……、雨に濡れた肩先をハンカチで拭いながら、思いがけない恵みの雨に感謝しつつ心の中で手を合わせながら空を見上げた。喫茶店で話すだけでは物足りず、あともう少しだけ一緒にいたいという思いが通じたようで、まさに遣らずの雨だなぁ…と気づくと、思わずそう口にしてしまった。だが、しばらくして、傍らに立つ彼女が腕時計に目を落としていることに気づき、いつまでもこのまま雨宿りをしているわけにもいかず、通りの向こうに見えたコンビニへ傘を買いに走った。

 店に入ると、突然の雨に降られて同じように傘を買い求める客が数人、陳列棚の前に立って傘を選んでいた。後ろから手を伸ばして、よくあるビニール傘を2本手に取り、急いでレジの列に並んだ洋之だったが、不意にあることを思いついて……慌てて引き返し、手にしていた2本の傘を陳列棚に戻した。よく見てみると、透明なビニール傘の隣に、色や柄のついた傘もあり、しばし品定めに迷った末、透き通るような天色(あまいろ)の傘を1本だけ手に取ると、再びレジに向かった。
 買った傘を早速広げて、大通りの横断歩道を走って渡り、彼女の待つ店先に辿り着いたはいいけれど、傘を1本しか持っていない洋之を見て、途端に彼女の顔に何とも言えない複雑な表情が浮かぶのが見てとれた。こちらの不純な動機を見透かされたようで、洋之は一瞬怯んでしまったが、ここで引き下がるわけにもいかない……ズルいけれど、そんな彼女の様子には気づかないふりをして、傘をそっと差し向けた。少し躊躇いつつも傘の中に入り、洋之の傍らに身を寄せた彼女だったが、お互いの腕や肩先が触れぬよう、微妙な距離を保ち、緊張しているのか、少し身体を固くしているのが伝わってくる。と同時に、水仙のような清々しい香りがほのかに漂ってきて、洋之の鼻をくすぐった。

 駅に向かって歩き出すと、ぎこちない空気から逃れるように、ふと顔を上げた彼女の視線がピタリと止まった。視線の先をたどると……どうやら傘の内側に広がる、クリームソーダを思わせるような澄んだブルーのグラデーションに目が留まったようだった。この傘を選んで良かったと、洋之は思わず胸の内で小さくガッツポーズをした。そして、前に向けた視線を微妙にずらしながら、傘に見惚れている彼女の横顔を心の中のカメラに収めるようにシャッターを切った。初めて彼女を見かけた日、衝動的にカメラに収めたその横顔を、こうしてこんなに間近に見られるなんて、何と贅沢なことか……。しかし、これ以上彼女を戸惑わせるようなことはできないと、ひとり悦に入る己を諫め、洋之は彼女の横顔から視線を無理矢理もぎ離した。
 ひとつ傘の下にいるという照れ臭さもあって、駅までの道すがら、ひたすら黙り込んだまま歩いた二人だった。しかし、気詰まりからくる重苦しさは雨の中に溶けていくようにだんだんと消え失せ、穏やかで心地良い沈黙が二人を包んでいった。降りしきる雨が、二人を外界から遮断するかのように白糸の壁を織りなし、傘を弾く雨音だけが響き、あたりは束の間、別世界のようになった。できるものなら、この時間がずっと終わらなければいいのにと洋之は願わずにはいられなかった。いつまでもこうして、一つ傘の下、彼女と肩を並べてどこまでも歩いていきたい気分だった。しかし、今、歩いている道は、駅へと続く一本道……横道に逸れて遠回りすることも、寄り道することも叶わず、後ろ髪引かれるような名残惜しさを残しつつ駅に着くと、改札口へと続く階段を足取りも重く上っていった洋之だった。

 電車を待つ間に、遠慮する彼女に少々強引に傘を手渡すと、ホームに滑り込んできた電車に洋之はそそくさと乗り込んでいった。通勤時間帯にはまだ少し時間があるせいか、車内は空いており、扉近くに立つのもかえって目立ってしまいそうで、空いていた座席中央に座ると、彼女も少し隙間を置いて隣に腰を下ろした。しかし、しばらくして乗客が増え座席が埋まりだすと、彼女も隙間を埋めるように少し詰めて座り直し、電車の揺れで時折、お互いの肩先や腕が少し触れるようになった。途端に、何とも言えぬ甘やかな感情が胸の内に広がり、洋之の頬が思わず緩んだ。と同時に、胸の奥底からキュッと突き上げるような鋭い痛みが走った。途中、窓の外に虹が降り立つのも見え、しばしその甘い余韻に浸っていた洋之だったが、自分の降りる駅の名が車内のアナウンスで告げられると、急に再び現実に引き戻され、心臓が早鐘のように打ち始めた。言うべき言葉を探しているうちに、容赦なく電車はホームに滑り込んでいき、速度を落としていく電車と入れ替わりに、洋之の脈はどんどん速くなっていった。
 急き立てられるような思いで、
「来週は、木曜日が休みなんです」
 と、前を向いたまま、呟くように彼女にそう告げると、隣で彼女の肩先がぴくりとしたような気がしたが、深く息を吸い込むと、洋之は一息に言葉を継いだ。
「もし宜しかったら、またあの植物園に来ていただけませんか?」
 彼女がどんな顔でその言葉を受け止めたのかはわからなかった。今ここで、公園の遊歩道での時のように、にべもなく断られたら、もう後がない。そう考えると、彼女の顔を見ることができなかった。
「無理だったらいいんです。とにかく、来週の木曜日、あそこで待っていますから」
 絞り出すようにそう言い置いて立ち上がると、急いで開きかけたドアに向かった。彼女の返事も聞かずに電車を降りてしまうことに後ろめたさは感じたものの、立ち止まらずに、その後ろめたさを振り切るかのように慌ただしく電車から降りていった。ホームに降り立ち、人心地がついたところで、ようやく窓越しに彼女の顔を見ることができた。呆気に取られて、当惑気味の表情を浮かべた彼女と目が合うと、さすがに罰の悪いような申し訳ない気持ちになり、洋之は一礼して見送ったのだった。

 それにしても、こうして思い返しただけでも様々なことが起こった一日だった。世の中に「絶対」と言えることは滅多にないけれど、今日のことは胸の奥深くに刻み込まれ、この先も忘れることはないだろう……と洋之は感じていた。残り1%の望みを捨てきれずに植物園に出向いたとはいえ、今朝の洋之の心に占めていたのは、今日が最後になるんだという諦めであり、いつまでも諦めきれず、ぐずぐずとしている自分にいい加減踏ん切りをつけるためであった。それなのに、まさか本当にあの女性(ひと)が現れるとは……。焦がれるほど夢見てはいたけれど、それはいつも、手の届かない妄想でしかなかったのだ。こんなことが起きることってあるんだな…、生きてるとこんなこともあるんだな…と、人生の不可思議さを改めて思いながら歩いた。
 柄にもなく、そんな思いに耽りながら、赤信号に気づき立ち止まると、初夏の風に乗って運ばれてくる芳醇な甘い香りが鼻先をかすめ、洋之は思わずあたりを見回した。すると、通り脇の家の玄関先の植込みに、純白の梔子(くちなし)が形の良い花びらを幾重にも重ねて、ひっそりと咲いていた。信号が青になるのを待ちながら、しばし目を瞑り、梔子(くちなし)の甘い香りを、胸いっぱいに吸い込んだ洋之だったが、そこではたと気付いた。……そういえば彼女の連絡先はおろか、名前すら聞いてない——。不意に胸の内にさぁっと薄墨色のスモークが湧き広がっていきそうだったが、洋之はすぐにそれを追いやった。公園の遊歩道での失言で、一時は崖っぷちに立たされたことを思えば、次に逢う約束を取り付ける……いや、彼女の返事を聞いていない以上、取り付けるところまではいっていないが、少なくとも、こちらのまた逢いたいという意思表示と日にちと場所を伝えられただけでも万々歳……とまではいかないが、今日はこれが精一杯、よしとしよう……。初めて彼女を見かけて以来の月日のことを考えれば、今日の一歩は大きな前進とも言える……牛の歩みのように極めてゆっくりではあるが、着実に、確実に、前に進んではいる……はずだ。
 そんな取りとめもないことにつらつらと考えを巡らしている洋之の額に、ぽつんと雨粒が落ちてきた。「雨に濡れずに帰れますから」なんて嘘をついて彼女に傘を渡したバチが当たったのか……見上げると、いつの間にか、灰色に染まった雲が空一面に広がり、大粒の雨が路面を濡らしていった。いつもだったら、足早に家路を急ぐか、タクシーを拾う洋之だったが、今日は、このまま顔を上げて雨を全身に受けて帰ってもいいような気分だった。不意に「雨に唄えば」のメロディが頭の中に流れてきて、唄の歌詞ではないけれど、雨を笑顔で受け止めるかのように、顔を心なしか上向きにして、幸せを噛みしめながら歩いた。鉛色の雨雲とは対照的に、身も心も軽やかで、雨に濡れて、どこか清々しささえ感じる洋之だった。
 ぽつぽつと降り始めた雨は、やがて家に近づいた頃にはいよいよ本降りになり、歩道に大きな水溜りを作り出していたが、洋之はよけずに、あえて踏んでいった。これから新たな未知の世界へ踏み出していくような、そんな思いが足先から伝わっていくようだった。できることなら、ジーン・ケリーよろしく、ステップでも踏みながら帰りたいくらいだったが、さすがにそれはちょっと気恥ずかしいので、マンションの入り口付近にさしかかり、あたりをさっと見渡して周囲に誰もいないことを確認すると、昔テレビで見たCMの俳優を真似て、片足を軽く上げるように飛び跳ねてから、扉の中へ入っていったのだった。
 
 そこへ、一台のタクシーがマンション前に止まり、ゆっくりとドアが開いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み