第4話 夕顔〈洋之〉

文字数 831文字

 美和子が風呂に入ったことを見届けてから、ビールを片手に洋之はベランダに出た。欄干に両肘をつくと、ビールを口に含み、先程感じた嫌な胸のざわつきを押し流すように飲みこんだ。見上げた視線の先には、満月を少し過ぎたくらいの月が、雲の波間から顔を出している。月の傾く音が聞こえてきそうな静かな夜だった。その静けさの中で月明かりを頼りに、洋之は先ほど目を逸らした自分の心の淵をそっとのぞき込んだ。
 あの女性(ひと)とどうこうなったわけでもない。というか、何も始まってすらいないのだ、疚しいことは何一つしていない、何を気に病むことがあるというのか…。そう不敵に居直る声も聞こえてくる。でも―と、そこで洋之は先程の美和子との会話を思い出していた。あの女性(ひと)に会いたい一心で植物園に足を運びたいがために、これまで美和子には小さな嘘を何度となくついてきた。小さな嘘ではあるけれど、やはりどこか罪の香りがする……それが後味の悪い棘となって、洋之の心に突き刺さっていた。世間で言うような大それたことを自分がするとは思わない。しかし、何かの拍子に何処へ流れていくかわからないような危うさが自分の中で影を潜めているのも、洋之は感じていた。
―引き返すなら、今のうちだな……。
 何も始まっていないのだから、一時(いっとき)の気の迷い、儚い恋だったとして、もう過去の闇に葬ってしまった方がいい。
―植物園へ行くのは、明日を最後にしよう。
 そう胸の内で呟いて、今すぐには、まだ葬れない往生際の悪い自分に、洋之はふっと苦笑いをした。と同時に、紅の布を前にした闘牛のように、どこか挑戦的な、賭けに出るような思いが頭をもたげていた。明日、あの女性(ひと)が現れなかったら、それは、そこまでの縁だったのだろうと。
 残っているビールを勢いよく、ぐいと飲み干すと、洋之は欄干から離れ、部屋の中に入ろうと向き直った。と、視界の端で、何やら白いものがゆらゆらと揺れている。目を凝らすと、仄暗いベランダに真っ白な夕顔がぼぉっと浮かび上がってきた。
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