第2話 天つ風〈洋之〉

文字数 1,283文字

「天つ風 雲の通ひ路吹き閉ぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」僧正遍昭

 そんな出口の見えない、変わり映えのしない日々に、思いもよらぬ、天高く吹き抜けるような一陣の風が舞い上がったのは、日曜の午後のことだった。

 勤め先の都内百貨店の紳士服売り場の店先で、主任との打ち合わせを終えた洋之は、午後の会議を控え、一旦、デスクへ戻ろうと歩き出した。
と、そこに、あの女性(ひと)が通りの向こうから歩いてくるのが目に入り、洋之ははっと息をのみ、立ち止まった。菫色のアンサンブルに、薄紅色の蓮の花がぱぁっと咲いている。洋之はそのまま暫く見惚れて、こちらへ向かってくる彼女の様子を見つめた。すると、自分に注がれている視線に気づいたのか、怪訝な眼差しの彼女と目が合った。その瞬間、周囲に見える景色が忽ち消えて、しいんと辺りが静まり返り、自分の心臓の鼓動だけが大きく聞こえてくるのを洋之は感じた。ふと我に返ると、洋之は彼女を見つめつつ軽く会釈をした。見知らぬ男に突然会釈をされ、一瞬身を強張らせながらも、彼女は小首を傾げ、誰だか思い出そうとするような表情を浮かべた。今、ここで手離したら、手がかりが無くなってしまうような性急な心持になり、急いであの女性(ひと)のそばへ行かなくてはと、洋之は歩き出そうとした。しかし、その矢先、前に踏み出しかけた足先は、ふっと宙に浮いてしまった。

「ママ!」
 洋之と彼女を繋ぐ見えない糸をパチンっとハサミで断ち切るかのように、可愛らしい女の子の声があたりに響き、洋之は急に現実に引き戻された。彼女が声のする方へ振り返ると同時に、洋之は、思わず通路から店先に身を隠した。
 まだ小学校に入る手前、幼稚園生だろうか…彼女のもとへ、桜色のワンピースを着た愛らしい女の子が駆け寄ってきた。ふた言三言娘と言葉を交わすと、彼女は、洋之がいた方向へ目をやり、その姿を探した。洋之は、用心して店先でさらに身を隠すも、彼女から目を逸らすことはできなかった。あの女性(ひと)が結婚しているであろうことは頭ではわかったいたつもりだったが、それでも、胸の内に鈍色の雲がさぁっと広がっていくのを感じずにはいられなかった。
 暫くして諦めたのか、彼女は娘の手を引いて通路脇のネクタイ売り場へ入っていった。鈍色の雲がさらに濃い墨色に変わりつつあるのを感じながら洋之が見つめていた視線の先に、ほどなくして、柔らかな萌黄色のセーターを着た男性が現れた。娘を抱き上げると、妻であるあの女性(ひと)の隣に寄り添うように立ち、一緒にネクタイ選びを始めたようだった。気になるネクタイを一つ一つ手にとっては胸元に当て、夫の顔とネクタイに交互に目をやりながら真剣に品定めをする彼女の横顔は、初めて出逢った植物園の時とは異なり、幸せそうな人妻のそれだった。
「課長、大澤部長からお電話ですけど」
 背後から主任に声をかけられ、洋之は再び現実に引き戻された。自分に言い聞かせるかのように、もう一度、親子三人の幸せそうな彼女の姿を目にとどめると、洋之は足早にその場を立ち去った。墨色になった雲が一つの冷たい(おもり)になって、心の奥底に沈んでいくのを感じながら。
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