第22話 うつせみ《空蝉》〈洋之〉

文字数 6,721文字

 彼女と逢えなくなってから、早いもので、もう三週間が経った。あの夜、彼女に電話でもう逢うのはよそうと告げられて以来、心の感覚が麻痺してしまったように、何を見ても、何を聞いても、気持ちがうまく反応しないようになってしまった。そうすることで、彼女ともう逢えない痛みも感じないで済むように自己防衛本能が働いていたようだ。逢いたくても、もう逢えない……誰にも言えない言葉を抱えた心はいつの間にか憂鬱に閉ざされていった。しかし、三週間経ってようやく、もう彼女に逢えないのだ……という淋しさが実感となって心に沁み込んでくるようになった。
 短くはあったけれど、彼女と過ごした時間を経験した後では、もう日々流れゆく時間がひどく退屈で味気ないものになっていた。気が付くと、目に見える周りの景色がふっと色を失い、モノクロ写真のように見えてしまう。よく、人は失って初めて大切なものに気づくというけれど、彼女との出逢いが、毎日の生活をどれほど潤いのあるものにしてくれていたか、単調な日常にどんなに華を添えてくれていたか、改めて思わずにはいられなかった。家庭でも会社でも、色々ややこしい問題が山積みで、精神的にも少し疲れ気味だったから余計にそう感じてしまうのかもしれないと思いつつも、彼女と逢えなくなってからの毎日は、想像していたよりもずっと味気ない、切ないものだった。そして時折、何の前触れもなく不意に、彼女に逢いたい……せめて声だけでも聴きたい……と洋之の心は静かに狂おしく波立ち、その度に、波が引くのをじっと待つしかなかった。
 職場では特に、いつもと変わらずにいるつもりだったが、心ここにあらざるせいか、勘のいい気心の知れた同僚に、何だか最近、元気がないね、なんて言われるたび、曖昧に笑ってごまかしたりしていると、一日が終わる頃にはどっと疲れが出て、魂の抜け去ったような顔で家路についた。思えば、彼女と出逢ってからというもの、洋之は自分でも笑ってしまうほどの現金さで頑張りが利くようになっていた。もうすぐだ、もうすぐ彼女に逢える。そう思うだけで、ほとんどのことはどうってことないという気分になれた。取引先から無茶な難題を吹っ掛けられても、解決策が見つからず会議が混沌としていても、部署内の人間関係に嫌気がさすことがあっても、いいじゃないか、もうじき彼女に逢えるんだから、なんていう具合だった。どんなに胸の内にどんよりとした灰色の雲が垂れ込めていても、彼女のことをふっと想うと、いつの間にか晴れ渡り、天気のいい日に散歩しているような気分になれた。それがあの夜、突然終わりを迎えてしまった……。どんなことでも、永遠には続かない——いつかは必ず終わりが来るものだと頭ではわかっていても、そう易々と納得できるものではなかった。すぅっと力が抜けていくような足元にひたひたと押し寄せてくる喪失感や、誰にぶつけていいのかわからない苛立ち、その他諸々の女々しい感情をどうすることもできずに持て余し、洋之は何だか身も心も空っぽになってしまい腑抜けたような日々を送っていた。毎日満員の通勤電車に揺られ、一日何とか(つつが)なく仕事を終わらせて家に帰っては、食べて寝て、また朝を迎える……そんな単調な繰り返しが辛うじて心の均衡を保っていた。しかし毎日、その日の終わり近くになると、心身ともに妙にくたびれ果てて、頭の中も体の中もどこか空虚で、蝉の抜け殻にでもなったみたいだった。たかが恋が終わったくらいで……と自分でも思うのだが、そのたびに、何とも始末に悪い感情が、キリキリとした痛みと共に胸の奥から突き上げてきた。

 今日も、そんなくたびれ果てた身体を引きずるようにして家に帰り着くと、妻の美和子はまだ仕事から帰っていなかった。ネクタイを緩めながら部屋の窓を開けて回り、家の中の空気を入れ替えると、洋之は着替えることもせず、そのままリビングのソファにどさりと身を投げ出すように座り込んだ。どんよりとした鈍色の雲に覆われた雨空のせいか、鬱々とした気分が昂じて、発作的に、すべてを投げ出して一人で遠くへ行ってしまいたいような気持ちになり、急に何もかもが、本当に何もかも、あらゆることが面倒くさくなった。ソファの背に頭を乗せて天井を見上げるも、部屋の明るさまでも煩わしくなり、リモコンを取り上げてスイッチを消すと、薄闇が下りてきた。暗さに目が慣れてくると、窓の外の方が明るいことに気づき、ぼんやりと暮れなずむ空を見つめた。
 あの夜の一件以来、洋之は今までにも増して、休日出勤や残業をする日が多くなった。実際、昨今の人員削減の煽りを受け、洋之の所属する部署も人手不足になり片付けなくてはいけない仕事があるという一応の目的はあったのだが、それは表向きの理由で、本当の理由は別にあった——家で美和子と二人きりで過ごすことが何となく後ろめたく、苦痛になっていたからだった。美和子は、別にツンケンしているというわけではなかったけれど、どうしても二言三言以上の会話が続かなった。ちょっとした機会を見つけては、お互い何とか話をしようと口を開くも、すぐに尻すぼみになって会話が続かず終わってしまうばかりだった。以前と変わりなく、顔を合わせて食事もしていたが、言葉だけが食卓の上を妙に浮いてしまって、白けた空気が漂うだけだった。口はきいてくれるものの、なかなか目を合わせようとはしない美和子の姿に、チクチクと胸に突き刺すような罪悪感を覚えるものの、だからといって、二人の間にできた溝を何とか埋めようと努力することもできずにいる洋之だった。
 洋之は溜め息をついて重い身体を引きずるようにのろのろと立ち上がると、窓の外からの薄明りを頼りに箪笥の前に立ち、抽斗の奥から煙草の箱を取り出した。妻の手前、とうの昔に煙草はやめたことになっているが、時折、何となく吸わずにいられなくなることがあり、こうして密かに抽斗の奥に隠し持っていた。いつもならベランダに出て、煙草の匂いが部屋の中に残らないように気を遣っていた洋之だったが、今日は、そんな気遣いさえも煩わしく面倒で、窓際に立つと、雨に煙って白く霞んだ街を見下ろしながら、一本くわえてライターで火をつけ、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
 帰ってくるときには柔らかな霧のような雨だったはずが、いつの間にか、樹々の緑や家々の屋根をしとしと濡らす雨になっていた。風も少し強まってきたようで、木の枝が時折大きく揺れている。洋之は煙草をくわえたまま、窓を大きく開け放った。少し冷たい風が仄暗い部屋の中を通り抜け、煙草の匂いをゆっくりと薄めてゆく。しばし窓辺に佇み、煙を吸っては吐き、ひとり静かに雨の雫の織り成す糸を見るともなしに眺めた。静まり返った部屋の中に忍び込むように聞こえてくる雨音が、胸に抱えた鬱屈した思いを優しく癒してくれるようだった。その雨音に耳を澄ましながら、煙草の煙がゆらゆらと漂いながら薄闇に溶けてゆくのをぼんやりと目で追った。そうしながら思い浮かんでくるのは、やはり、あの女性(ひと)だった。

 このふた月ほどの間に、洋之は既に彼女のことをどうにも忘れられなくなってしまっていた。恋に落ちたとか、夢中だとかいうのは、随分控えめな表現で、彼女に魅入られてしまったというのが一番近いかもしれない。妻の美和子に対してさえ、こんな気持ちになったことはなかった。彼女のどこがどうだから、というわけではなく、意思とは関係なく、自分の気持ちがまるごと彼女にぶつかって行ってしまうような感覚だった。そういう、理屈ではない感情を抱いた人のことはなかなか忘れられないものだ。そう思いながらも、洋之は、何度も、醒めた目で自分の心を見つめようと努めた。この気持ちが倦怠期の夫婦にありがちな、一時の心の揺らぎに過ぎないのであれば、いずれ消えてゆくものであるはずだし、この想いがそんな不完全なものだとしたら、これ以上あの女性(ひと)を巻き込みたくはなかったからだ。
 けれど、そうして考えるたびに、瞼の裏には、あの日——植物園で彼女を初めて目にした日、衝動的にカメラに収めた彼女の横顔が甦るのだった。今こうして、あの日のことを思い出しただけでも、あれは……正直言って、電撃的な一目惚れだった。運命的と言い換えてもいい。あのときの想いは今でも消えてはいなかった。そして、レンズの向こう側にあって、決して手に入れることはできない、自分にはどうすることもできないものだとわかっていながら、手に入れることを諦めきれない激しさ、しぶとさが自分の中にあることに気づかされた出逢いだった。そうした激しさ、しぶとさはもちろん自分の内側にあるものには違いないが、時に自分でも制御不能な危うさがあり、心の中に虎を一匹飼っているようだった。
 そして今、普段はおとなしく眠っているはずのその虎が、心の檻の中で目を覚まし、頭をもたげつつあるのを感じて、洋之は思わず煙草をくわえたまま、その場に立ち尽くした。煙を吸いながら、何とか宥めておとなしくなるのを息を潜めてじっと待ってみたものの、一度目覚めた虎は檻の柵を引き裂くように荒々しく暴れ出し、もう為す術がなかった。逢いたくても逢えない、口にも出せない気持ちの分だけ、行き場もなく胸の奥底に降り積もっていたやるせなさを、煙と共に洗いざらい吐き出すと、洋之は目を上げて遠くの空に焦点を合わせた。

——やっぱり、もう一度、彼女に逢いたい。

 不意に、身体の底から彼女に逢いたい思いがどうしようもなく突き上げてきて、洋之は取る物も取り敢えず、玄関のドアを開けて出て行った。こんな時間に、突然彼女のところへ訪ねることなんかできるわけがない——という声が、警報のように頭の中で鳴り響いてはいたけれど、本能の赴くままに走り出した身体を止めることは最早できなかった。エレベーターが止まるのももどかしく地下の駐車場へ降り、車に飛び乗ってから、そういえば、彼女の家の住所も知らないことに今更ながら気づいたが、最寄り駅なら知っている。どうなるのかわからないけれど、とにかく今は、彼女の住む町まで行けば、少しは気が収まる気がして、その思いにすがるように、洋之はアクセルを強く踏み込んだ。

 夕暮れ時の渋滞に巻き込まれ、やきもきしながらも、何とか彼女の住む駅の近くに辿り着くと、大通りから少し住宅街に入って、人通りの少ない道路わきに車を止めた。衝動的に、突き動かされるようにここまで来てしまったけれど、さて、これからどうするか……。エンジンを切ってシートに背中を凭せかけると、洋之は目を瞑った。とにかく一目でいいから、彼女の顔が見たい。逢って声が聴きたい。電話をかけたところで、もう出てもらえないかもしれない。たとえ電話に出てくれたとしても、逢うことはできないと断わられるかもしれない——考え出したらきりがないが、ここまで来た以上、何もせずに黙ってこのまま帰るわけにはいかない……。目を開けると、洋之は助手席に手を伸ばし、置いてあったスマホを取ると、大きく一つ息をついてから、発信ボタンを押した。呼び出し音が繰り返される間、心臓が早鐘のように打つのを感じながら、息をつめて耳を澄ました。随分長いこと経ったような気がしたが、彼女が出ることはなかった。留守電に切り替わる案内の音声が聞こえて、洋之はメッセージは残さずに慌てて電話を切った。夕食時でスマホなどに気を取られている状況ではないかもしれない。あるいは、寝室などに置きっぱなしで、そもそもスマホが鳴っていることさえ気づいていないかもしれない。それとも、スマホに表示された番号か名前を見て、出ないことにしているのかもしれない。冷静に考えれば、彼女が電話に出る可能性は限りなくゼロに近いのだ……。そうは思っても、心の中の虎はまだしぶとく暴れ回っており、諦めきれずに洋之はもう一度かけた。すると今度は、一回目の呼び出し音が鳴りきらずに途切れた。洋之は思わずビクッと身を乗り出すように背凭れから身体を起こして、スマホをぎゅっと握りしめた。
『はい、森村でございま~す』
 電話の向こうから聴こえてきたのは、可愛らしい女の子の声だった。洋之は思わずスマホを耳から離し、番号を確認した。確かに彼女の番号だ、掛け間違いではない……。ということは、今のは娘さんの声だろう……洋之は何も言わずに慌てて電話を切った。さすがにもう掛け直すわけにもいかず、洋之はスマホを助手席に投げ出すと、シートにぐったり背中を凭せ掛け、フロントガラスを流れ落ちる雨雫の行き先をぼんやりと目で追った。窓を打つ雨音だけが車内に響き、凪いだ海の遠くの水平線を眺めているような静かな時間だった。時折、対向車のライトに照らされ、銀色の絹糸のような雨が降り注いでいるのが見えた。彼女との縁もここまで、ということなのだろう……。そう自分に言い聞かせるように思いながら、洋之はしばし虚脱感の淵に首までどっぷり浸かった。しかし、いつまでもそうしているわけにもいかず、やがて思い切るように身体を起こすと、エンジンに手をかけた——その時だった。
 不意に、助手席から鳴り響く電子音に、洋之はドキリとして、エンジンを掛けようとした手を止めて、おそるおそるスマホに手を伸ばした。……あの女性(ひと)からだった。先程まで、心を決めて掛けた電話のはずなのに、緊張のせいか喉がカラカラに干上がっている。何とか唾をごくりと飲み下し、応答ボタンを押したものの、また彼女の娘さんが出たら、と思うとすぐには声を発することは出来なかった。電話の向こうに、一瞬、息詰まるような沈黙が広がる。
『……もしもし?』
 おずおずとした彼女の声が聴こえてきて、洋之は安堵のあまり詰めていた息を密かにふーっと吐き出した。
『あの……森村と申しますが、佐山さんのお電話でしょうか……?』
 あぁ、この声だ……落ち着いた柔らかな彼女の声が、緊張のあまり強張った身体を優しく包み込んでくれるように感じる。返事をするのも忘れて、突き上げてくる嬉しさを奥歯で噛みしめていると、
『……もしもし?』
 再び、不安げな彼女の声が聴こえてきて、洋之は慌てて答えた。
「佐山です——」声が掠れてしまい、咳払いして続けた。「すみません、突然お電話したりして……」
『いえ……』
 周りに誰かいる気配は感じられなかったが、それでも土曜の夕暮れ時だ……夫や家族に気を遣ってか、声がとても小さく聴こえる。洋之はスマホを耳に強く押し当てた。
「今、お電話大丈夫ですか?……」
『えぇ……』
 車の中で外の音が遮断されてることもあり、彼女の声が耳元でより鮮明に聴こえてくる。この三週間、せめてもう一度彼女の声を聴きたいと思いつつも、電話をかけられずに悶々としていたというのに、いざこうして声を聴いてしまうと、満足するどころか、電話の声だけでは物足りなくなってしまう。やっぱり彼女の顔が見たい……逢って、目を見て話したい。
——逢うのをやめようなんて、言わないでほしい……。
 すがるようで情けないけれど、できることなら、本当はそう言いたかった。けれど、口にした言葉は結局こうだった。
「実は今、お宅の近くに来ているんです」
『————』
 彼女が身構えるように身体を固くしているのが伝わってくるようで、洋之は弁解するように慌てて言葉を継いだ。
「あ、いや……、初めて一緒に電車で帰ったとき、お互い降りる駅を言ったから……それを思い出して、今、その駅の近くに来ています」
 一瞬、躊躇ったものの、洋之はその迷いを振り切るように、思いきって言った。
「どうしても、もう一度お逢いしたくて……」
『————』
 電話の向こうで、彼女がハッと息を呑むのがわかった。
『でも、もうお逢いしないと——』
 戸惑っている彼女の顔が見えるようだったが、洋之は構わず必死な思いで畳みかけるように続けた。
「最後にもう一度だけ、逢ってもらえませんか……?」
『————』
 答えられずにいる彼女の沈黙を振り払うかのように、洋之は言葉を継いだ。
「お願いします」
 洋之は息をこらして、ひたすら祈るような思いでじっと返事を待った。すると、程なくして、わずかに低くなった彼女の声が耳元に静かに響いた。
『——わかりました。十五分程お待ち頂けますか、駅の近くに着きましたら、またお電話しますので……』
 洋之は全身から、どっと力が抜けるのを感じながら、やっとの思いで、
「有難うございます。では、お待ちしています」
 とだけ答えると、シートに深く沈み込み、詰めていた息をふぅっと大きく吐き出して、目を閉じた。
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