第24話 ラプソディ・イン・レイン〈洋之〉

文字数 4,820文字

『——わかりました。十五分程お待ち頂けますか、駅の近くに着きましたら、またお電話しますので……』
 やや強張った硬い声での返答だったものの、何とか彼女と逢えることになり、ホッと安堵してシートに凭れかかり、しばらく目を瞑っていた洋之だったが、不意に、本当に来てくれるのだろうか……という疑念が胸底からフツフツと沸きだし、ダッシュボードの時計に目を遣った——まだあれから、たったの三分しか経っていない……。洋之はふっと自嘲気味な笑みを洩らして溜め息をついた。おそらく家族が揃って居るであろう土曜の夕暮れ時、しかもこんな雨の中、突然家を出てくることは、きっと相当難しいはずだ……。先程の電話では来てくれることになったものの、その後都合が悪くなり、やはり家を出て来られないとなることだって十分に考えられる……。逢いたい想いは募れども、彼女が現れない場合に備え、あまり落胆し過ぎることのないよう、早くも心づもりをする一方で、フロントガラスを流れ落ちる雨雫の描く線をぼんやりと目で追っては、ちらちらと何度もダッシュボードの時計に目を遣り、彼女からの電話を今か今かと祈るような思いで待ちわびる洋之だった。
 やがて、約束の十五分が過ぎ、折しも逢魔が刻と言われる時刻に差し掛かったせいか、車内に薄闇と共に心許ない空気が漂い始め、洋之は深い溜め息をついた。彼女を待つ思いが余計に車内の空気を重たくしているようで、身体がシートに沈み込んでいた。やはり、家を出て来られなかったのかもしれない……。ここがもう、潮時ということなのかもしれない……。思いを断ち切るように膝の上で握っていたスマホを助手席に投げ出し、窓の外を見るともなしに眺めていると、フロントガラスをぽつぽつと濡らしていた雨が、次第に大粒になり、雨脚が繁くなって来た。
 ——と、その時だった。
 フロントガラスの向こうの薄暗がりに、彼女の姿が見えた気がして、洋之は慌ててシートから身体を起こすと、ワイパーのスイッチを入れて水の膜を拭った。——やはり、あの女性(ひと)だ……。住宅街の中でクラクションを鳴らすわけにもいかず、洋之はパッシング・ライトを素早く何度か点滅させて、彼女が気づくようにと合図を送ってみた。すると、急にライトに照らし出されたことに気づいたのか、彼女は立ち止まり、辺りを見回している。洋之は急いで彼女に電話をかけようと、窓の外に目を向けたまま、助手席に置かれたスマホを手に取った。と同時に、着信音が静かな車内に響き渡り、洋之は一瞬ビクッと驚きながら、スマホに目を落とした。——彼女からの電話だ……。洋之はもう一度、パッシング・ライトを点滅させながら電話に出ると、「今、行きます」とだけ告げて、傘をさすのももどかしく、慌ただしく車から降り立った。

 はやる気持ちを抑えきれず、洋之は水溜まりを踏んで足先が濡れるのも厭わず、臙脂色の傘をさした彼女のもとへ小走りで向かって行った。そして、彼女の三メートルほど手前まで辿り着くと、歩みを緩めつつ、軽く頭を下げながら声を掛けた。
「すみません、こんな時間に、突然お呼び立てして……」
 響子は立ち止まると、近づいてくる洋之を見つめながら、微かに首を振った。
「しかも、こんな雨の中、来て頂いて——」
 そう洋之が言いかけたところで、二人の横を水溜りの水をはねながら車が通り過ぎ、洋之は車からかばうように、響子の傍に歩み寄って道路脇に二人の身を寄せた。
 洋之はちらりと空を見上げてから、前に立つ響子に目を戻した。
「こんな雨ですし、もし良かったら、どこか駅前のお店か、それとも車の中でお話を——」
 洋之がそう言いかけると、響子は微かに首を振った。
「家族には、娘のお友達のお母さんの所へ行くと言って出てきましたし、それに……奥様やうちの主人のことを考えたら、ここでこのままお話した方がいいと思うんです」
 洋之の妻や家にいる夫のことを思い浮かべると、響子は、洋之とこうしてここに立っているのも、やはり悪いことであるような気がしてならなかった。
 彼女にしては珍しくキッパリとした口調で即答で断られ、洋之は思わずハッとして唇を噛んだ。
「そうですね……そこまで気が回りませんでした。すみません……」
 洋之は決まり悪そうな表情を浮かべて謝った。響子はちょっと目を伏せて、黙ったまま再び首を振ると、傍らの水溜りに目を落とした。
 気まずい沈黙が二人の間に流れ、洋之は早く本題に入らなければ……と焦るものの、ここに来るまで、とにかく彼女にもう一度逢いたい一心で、衝動的に来てしまっただけに、いざ久しぶりに彼女の姿を目の前にしたら、自分でももどかしいほど言うべき言葉が見つからず、それでも何とか、やっとの思いで口を開いた。
「この前は、電話で急なお別れの挨拶だったから……、最後にどうしても、もう一度逢ってお別れを言いたくて……」
 そこで言葉を切ると、洋之は深く息を吸い込んだ。響子はちらりと洋之の顔を見上げたものの、すっと視線を逸らし、俯き加減のまま微かに頷くだけだった。洋之はこれで最後だと思うと、もう言葉を整えただけの思いを彼女に伝えようとは思わなかった。——言うなら、もう今しかない……。緊張をごくりと飲み下すと、洋之は響子をピタリと見つめ、胸の中にずっと仕舞っていた気持ちを思いの丈を込めて打ち明けた。
「あの時は、あなたを引き止めたくて『友だちとして会うならいいでしょう』なんて言ったけど……僕はあなたを一人の女性として——」
 響子は、人妻の自分が聞いてはいけないようなことを洋之が言う気がして、ハッと顔を上げると、
「佐山さん!——」
 と、咄嗟に声に出して、洋之の言葉を遮った。しかし、そんな響子の制止に動じることなく、洋之は抑えた口調で静かに続けた。
「最後だから……今日ぐらいは言わせて下さい」
 強い語尾ではあったけれど、どこか哀願するような洋之の必死な目の色に、響子もそれ以上は何も言えず、口を噤んでそっと目を伏せた。
「あなたがご主人を愛していらっしゃることはわかっていますし……、あなたは決して友情以外の曖昧な態度をとらなかった——」洋之は吸い込むように、響子をじっと見つめた。「だから、これは僕の一方的な……片思いです」
 ふっと目を上げると、触れれば切れそうなほど真剣な洋之の眼差しにぶつかり、響子は思わずたじろいだ。と同時に、胸にキュッと刺し込んでくるような痛みを覚えたが、響子は表情を変えずに、すっと目を逸らした。洋之の言った言葉を反芻しながら、ふと響子はこれまでの自分の心を省みた。響子はあくまで単なる友人として、洋之と逢ってきたつもりだったし、その気持ちに偽りはないつもりだった。しかし、電話で洋之にもう逢うのはよそうと告げたあの夜、遠くで鳴り響く雷の音を聴きながら、胸の内を風が吹き抜けるような淋しさを感じたこと……、あの夜以来、時折ふっと気持ちが宙を彷徨い手元が留守になっている自分に気が付くことが増えたこと……、そして、今日もこうして家族に嘘をついてまで雨の中を逢いに来たことを思う時、響子は洋之に対する感情が、自分でも知らぬうちに、微妙に変化していることを認めないわけにはいかなかった。
 そんな響子の胸の内を知る由もなく、洋之は言葉を継いだ。
「短い間だったけど……、あなたに出逢えて本当に良かった……あなたと過ごした時間は楽しい時間でした……いえ、僕にとっては掛けがえのない時間でした」
「————」
 響子は俯き加減のまま微動だにせず、黙っていた。何と答えたらいいかわからなかった。
「こんな気持ちになるのは、これから先、もう二度とないかもしれない——そう思っています」
 辺りが急にしんとして一瞬、時間が止まってしまったようだった。響子が思わずハッと顔を上げると、ひたすらな洋之の眼差しが真っ直ぐに自分に向けられていた。響子は胸の刺される思いがした。まるでこれから戦地へ旅立つ人のような思い詰めた目だった。響子は目を伏せると、
「——ごめんなさい……」
 と、小さく呟くように言った。
「謝らないで下さい。あなたが悪いわけじゃないんですから……」
 そう言うと、洋之は少し困ったように弱々しく微笑した。
「——ただ、知っておいてもらいたいだけなんです」
「————」
 響子には、やはり答える言葉がなかった。ちらりと洋之の顔を見上げたものの、すぐに目を逸らした。そんな響子をじっと見つめていた洋之の視線が、やがて傍らの水溜りに落ちた。そのまましばらく二人とも身動き一つせず、黙り込んだ。傘を弾く雨音だけが耳元に迫るように聞こえ、二人を優しく包んだ。絶え間なく降りしきる雨の中、お互いの想いが身に沁みてくるようだった。

 しばらくして、空を見上げた洋之の表情がふっと和らいだ。手のひらに雨を受けながら、二人の間の気重な空気を払うように、洋之は出来るだけ明るく言った。 
「だいぶ降ってきましたね……よかったら、お宅の近くまで送りましょうか」
 顔を上げた響子の表情も少し和らいではいたが、再び微かに首を横に振って答えた。
「有難うございます。でも、歩いて帰りますから……」
 洋之はひとり苦笑を洩らすと、
「そうでした……懲りずにまた言ってしまって、すみません」
 と、決まり悪げな微笑を浮かべて謝った。洋之は響子の肩先に目を遣り、ちょっと考える顔をしてから、おもむろに雨を受けて濡れた手のひらをズボンでゴシゴシと拭くと、スッと響子の前に差し出した。
 響子は差し出された洋之の手に、戸惑いながら目を落とした。躊躇っている響子を見て、洋之は微笑しながら、わざと快活に言った。
「お別れの握手ぐらい、いいでしょう?」
 語尾は優しかったが、洋之の目は真剣だった。別れの握手ぐらいと言われれば、響子も嫌とは言いかねた。躊躇いがちに右手を前に差し出すと、洋之がそっと包み込むように響子の手を握った。
「じゃ、お元気で……」
 洋之は思いの丈を込めて、じっと響子の目を見つめて言った。響子はその目に応えるように洋之の顔を見上げた。
「佐山さんもお元気で……」
 少しして、洋之はやっとの思いで手を離すと、響子に背を向けて後ろ髪引かれる思いのまま足早に車へ向かった。振り向いたら、また彼女の元に戻っていってしまいそうで、車に乗り込むまで、一度も振り返ることはなかった。車に乗り込む直前、彼女が立っていた方へ目を遣ると、ちょうど大型のトラックが遮るように停まってしまい、もう彼女の姿は見えなかった。洋之は、仕方なく閉じた傘を助手席に放り込み運転席に滑り込むと、素早くエンジンを掛けて、車を傍らの空き地にバックさせながらハンドルを切り、ギアを入れ替え、もと来た道を戻るべく車を方向転換させた。——と、その時、何気なくバックミラーに視線を向けた洋之の目がピタリと釘付けになった。バックミラーの中でトラックが通り過ぎた後に見えたのは……臙脂色の傘をさしたまま立っている彼女の姿だった。洋之は思わずブレーキを強く踏み込んだ。リアウィンドウのワイパーが拭うたびに、バックミラーの中に彼女の姿が映る——。しかし、いつまでも、そうして見ているわけにはいかず、洋之はアクセルをゆっくり踏み込んだ。だんだんと小さくなっていく彼女の姿を見つめながら、洋之は徐々にスピードを上げていった。やがてウィンカーを出して曲がり角に差し掛かる頃、もう一度バックミラーに目を遣って、見納めするかのように小さく見える彼女に別れを告げると、洋之はゆっくりハンドルを切っていった。

 響子は、洋之の車が角を曲がり見えなくなるまで見送ったあとも、しばらくその場に佇んでいた。——が、やがて気持ちを切り替えるように傘をきゅっと握り直すと、来た道を引き返し、小走りに駆けて家へ戻って行った。

 ——と、少し離れた街路樹の下でじっと雨に濡れていた傘が、わずかに揺れ動いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み