第25話 チョコレートコスモス〈雅紀〉

文字数 5,910文字

 午後の打ち合わせを終えた出先からの帰り道、雷が鳴ったかと思うとあっと言う間に夕立に降られ、傘を持っていなかった雅紀は、駅まで走るのを断念して、とりあえず目に留まった喫茶店の軒下に駆け寄った。鉄の鋲の打たれた分厚い木のドアを押し開けると、カウンターの中でマスターらしき銀髪の男性がちょうど煙草に火をつけ、うまそうに一服しているところだった。カランカラン、というドアベルの音で客の気配に気づいたのか、ふいっとこちらを向くと、慌てて灰を落として「いらっしゃいませ」と少し気まずそうな笑みを口許に浮かべながら会釈をした。
「あ…、もしかして休憩中ですか?」
 ドアにそれらしき表示は無かったよな……と思いながらも、雅紀が遠慮がちに訊くと、
「いや……開店休業中なだけです」
 と、カウンターの中の男性は苦笑いしながら答え、「どうぞ、お好きな席へ」と手振りで店内へと案内してくれた。珈琲豆の香りと共に微かに漂ってくる煙草の匂いに、雅紀は思いがけず掘り出し物を見つけたような嬉しさを感じつつ、後ろ手にドアを静かに閉めると、マスターに目礼して店の中へゆっくりと入っていった。
 平日の夕暮れ時、しかも夕食前の中途半端な時間帯ということもあり、店内に客はなく、マスターが一人で切り盛りしている感じのこじんまりとした、でも雰囲気のいい店だった。白い漆喰塗りの壁に、天井からレトロな灯りが温かみのある光を投げかけ、カウンターにもテーブル席にも、味わいのある木のぬくもりが随所に感じられる。マスターの好みなのだろうか……耳を澄ますと、聞き覚えのある控えめなクラシック音楽が店内を静かに流れ、店の誂えと共に落ち着いた空間を作り出していた。少し迷った末、大きな出窓に面した席に座ると、タイミングを見計らったように水の入ったグラスを持ったマスターがテーブルの横に立ち、雅紀はメニューの一番上にあるブレンド珈琲を頼んだ。濡れた肩先をポケットから出したハンカチで軽く払うと、雅紀は鞄から煙草の箱を取り出した。テーブルの片隅に置いてあった灰皿を引き寄せて、煙草を口にくわえ、俯いて手のひらで囲いながら火をつけると、煙を深く吸い込んだ。
——あれから三年か……。
 細長い煙をゆっくりと吐き出しながら、雅紀は目を細めた。
 妻の響子と佐山の一件が終わったのは、三年前のちょうど今時分だった。完全に忘れ去ったわけではなく、今でも胸の奥底にしこりのように残っていたものの、佐山のことを思い出すことなど久しく無かった雅紀だった。しかし一昨日、妻の鏡台の抽斗に仕舞ってあったある物を見てしまってから、雅紀の前に、再び佐山の影がちらつくようになっていた。
 あれから三年——幼稚園生だった娘の葵は小学生となり、家族も新たに一人増えた……息子の徹が産まれたのだ。父も母も口に出して言うようなことはなかったけれど、森村家の跡継ぎになるであろう孫の誕生は、やはり嬉しいものだったようで、家の中は一段と賑やかになった。そんな両親を見るにつけ、葵の初孫誕生の時とはまた少し違った意味で親孝行が出来たようで、密かにホッとしていた雅紀と響子だった。
 響子はといえば……佐山と逢わなくなってからも、こちらが拍子抜けしてしまうほど、これと言ってあまり変わりが無かった。そんな妻の様子を見るにつけ、雅紀は、よく知っているつもりの響子が全く未知の女性のように謎に包まれて見えた。表面的には変わらずにいるけど、本心はどうなのだろうか……。佐山のことは、本当にもうキレイさっぱり忘れているのだろうか……。それとも、時折ふっと思い出すことでもあるのだろうか……。夫にも見せない秘密をその胸の裡に畳み込んでいるのだろうと思うと、雅紀は響子のことがますます判らなくなった。
——いや、忘れられるわけがないよな、あんな風に別れたあとでは……。
 雅紀は思わず心の中で呟くと、ぼんやりと窓の外に目を遣った。
——そういえば、あの日も、こんな雨の日だった……。
 夕方と夜の狭間の時刻に差しかかり、暮れなずんだ灰色の空の下、降り注ぐ雨が無数の線を描いている。雨と共に薄闇が下りてくる窓の外の景色が、雅紀にあの日の記憶を呼び起こした——忘れているつもりでも、時折、何かの拍子にふっと思い出してしまう、あの雨の日の夜に見た二人の姿を……。

 あの日——。
 土曜の夕暮れ時、母の雪江と響子が台所で夕食の支度を始めていると、食卓の椅子の背に掛けてあった響子のバッグの中で、スマホの着信音が鳴り出した。居間のテーブルで父の涼介の将棋の相手をしていた雅紀は、傍でお絵描きをしていた娘の葵が立ち上がってトコトコと食卓へ向かうのを目の端で見ながら、次の一手を考えていた。——と、スマホを持った葵がまたトコトコと戻ってきた。
「パパ、切れちゃった……」
 不満げに唇をきゅっと結んだ葵が差し出したスマホには、番号だけ表示された不在着信画面が表示されていた。この時はまだ、雅紀はさして疑問に思うこともなく、葵にスマホを鞄に戻すように言うと、再び将棋盤に目を戻し、端の香車を上げた。すると一瞬間を置いて、再び響子のスマホが鳴り出した。鞄にスマホを戻そうとしていた葵が、今度こそは、と気負って出てみたものの、どうやら切れてしまったようだ。やっぱり、間違い電話だったのかな……と思いつつ、将棋盤の上に戻しかけた雅紀の視線が不意に引き戻された。台所から出てきた響子が、葵に差し出されたスマホの画面を見て少し驚いたようにふっと顔を強張らせたのを、雅紀は見逃さなかった。どうやら見覚えのある番号だったようだ。葵からスマホを受け取ると、響子はするりとエプロンのポケットに滑り込ませた。誰からなんだろう……。食卓の方へ顔を向けたまま考えていると、
「おい、お前の番だぞ」
 と、涼介の声で雅紀はハッと我に返った。父親のたしなめるような眼差しとぶつかり、「あ、ごめん……」と気まずそうに肩を竦めると、雅紀は将棋盤に無理やり目を戻した。しかし、頭の中は、今しがた見た妻の表情が気になって仕方がなかった。次の一手を考えるふりをしながらも、雅紀の全神経は台所にいる響子に注がれていた。やがて、響子がさりげない様子で台所を出てゆくのを目の端で捉え、パタパタと二階へ上がってゆく足音が聞こえてきたとき、あ……、と思い当たって、雅紀は心の中で呟いた。
——電話の相手は、佐山ではないだろうか……。
 ママ友や葵の通う幼稚園の関連で、登録していない番号から電話がかかってくることはあるだろうが、あんな風に顔色を変えて驚くようなことはないだろう……。となると、考えられる理由は一つしかない——登録はしていない番号だけれど、本来かかっては来ないはずの相手からの電話だ……。となれば、自分が知る限りでは、佐山しかいない……。ふと顔を上げると、涼介が待ちくたびれたような顔で怪訝そうにこちらを見ていた。雅紀は罰の悪そうな表情を浮かべると、上の空でとりあえず目に留まった歩を前に進めた。
 しばらくして、エプロンを外した響子が急いだ様子で二階から下りてきた。食卓の椅子の背にかけてあった鞄を手に取り、「ママ友の所へちょっと行ってきます」と言って慌ただしく外へ出て行った響子を見送ると、雅紀は思わず時計を見上げ、窓の外を見た。庭先で、チョコレートを思わせるような深い赤褐色のコスモスが、雨に打たれてゆらゆらと頼りなく揺れている。——こんな時間に、しかもこんな雨の中を、ママ友の所へ……?雅紀の中で、ふつふつと湧いていた疑念が確信に変わった。
 と、そこへ、台所から母の声が聞こえてきた。
「あら、やだ、餃子の皮が無いじゃない……せっかく餃子のたねを作ったのに……」
 冷蔵庫の中を見ながら、何やらブツブツと呟いている。雅紀は渡りに舟とばかりに、咄嗟に立ち上がると、
「じゃあ、俺が買って来るよ」
 と言って、居間の棚から財布を引っ掴むようにして取り上げると、驚いたような顔をしているこちらを見ている母の顔を尻目に、雅紀は慌ただしく居間を後にし、外へ出て行った。息子の思いがけない行動に唖然とした雪江は怪訝そうな顔をして、居間にいる夫に目を向けたが、涼介は何も言わず、何か物言いたげな妻の視線から逃れるように、窓の外の雨空をおもむろに見上げるだけだった。
 
 家の外に出てみると、駅の方面へと続く道を小走りで駆けてゆく響子の後ろ姿が小さく見えて、雅紀は慌てて後を追った。特に迷うことなく走り続けているところを見ると、目的地は響子がよく知っている場所のはずだ……。一瞬、本当にママ友のところへ行くつもりなのだろうか……という考えが頭の中を過ったが、ママ友の所に、こんな時間に、こんな雨の中、しかもあんな風に小走りで駆けてゆくとは到底思えず、雅紀はすぐさま、その可能性を打ち消した。やがて、もうそろそろ駅に近づいてきたところで、不意に臙脂色の傘をさした響子の歩みが遅くなった。あまり近づいてしまっては、万が一、響子が振り返った際に気づかれてしまうため、用心してだいぶ距離を置いていたので、響子の顔まではよく見えないものの、辺りを気にしながら鞄から取り出したスマホを耳に当てているようだった。——と十字路を渡って行こうとした響子が、急に右側の方へ身体を向けながら立ち止まった。日が沈んだものの、まだ夜の帳が下りる前、夕方と夜の間の薄闇に、車のライトが響子を照らし出すように立て続けに数回光ったのが見えて、雅紀は思わず足を止めた。響子はスマホを鞄に仕舞うと、車のライトが光っていた方向へ足早に向かって行った。雅紀は右へ曲がって姿が見えなくなってしまった響子のあとを慌てて追いかけると、曲がり角の三角地帯に植えられた大きなプラタナスの木の下に身を寄せ、響子の行方をじっと目で追った。
 ライトを点滅させていたと思われる車から降りてきたのは……やはり佐山だった。響子の方へ小走りで駆け寄って来るのが見え、雅紀は咄嗟に傘で顔を隠した。不意に雅紀は胸苦しくなった。電話の相手が佐山だろうと思ってここまで来たものの、いざ実際に佐山の姿を見ると、驚きと妬心の入り混じったような感情が胸の中で吹き荒れた。そんな雅紀の横を一台の車が通り過ぎ、佐山たちの姿を雅紀の視界から一旦遮った。車がいなくなると、道路脇にさらに身を寄せた二人の姿が再び見えた。響子の後ろ姿は臙脂色の傘に隠れて顔までは見えなかったものの、佐山の姿は薄暗がりの街灯の下で、ぼんやりとではあるが見ることが出来た。細かい顔の表情まではもちろんわからなかったけれど、それでも、佐山が何やら響子に懸命に話している様子は何となく見てとれた。雅紀は、聴こえるはずのない二人の会話に全身を耳にして、固唾を飲んで見守った。
 どのくらい経っただろうか……。時間にしたら、まだそんなに経っていないはずだが、雅紀にとっては、ひどく長い時間のように思われた。——と、佐山が響子の前に手を差し出すのが見え、雅紀の心臓は再びドクドクと脈打ち始めた。響子は戸惑っているのだろうか……佐山の左手がしばらく宙に浮いたままになっている。響子の手の動きは後ろ姿に隠れてしまって、よく見えなかったものの、少しして、佐山の手が響子の手を握っている様子がわずかに見え、ズキッと疼くような痛みが雅紀の全身を貫いた。と同時に、胸を締め付けられるような思いがした。もちろん響子の夫という立場から佐山に対する嫉妬も少なからずあったが、それよりも、どういうわけか、自分が佐山の立場になって響子に別れを告げているかのような錯覚を覚え、ひりひりと痛い共感がやけに胸にこたえた。自分でも思いがけない反応に雅紀は驚きつつ、二人の様子をじっと見守った。
 やがて、佐山が響子の手を名残惜しそうに離し、踵を返して車に戻ってゆくのが見えると、雅紀は無意識のうちに詰めていた息をふうっと吐き出した。引き返して来る響子と鉢合わせしないように、急いで十字路を渡ると、再び曲がり角の植え込みのプラタナスの木の下に身を寄せた。そうして、傘を慎重に少しずつ上げていった先に見えた光景に、雅紀は思わずハッと息を呑んだ——佐山と別れ、こちらに向かってくるであろうと思われた響子が、帰る素振りもなく、身じろぎ一つせず佐山の車の方を見つめていたのだった。そして、佐山の車が角を曲がって見えなくなってからも、響子はしばらくその場に立ち尽くしていた。臙脂色の傘の下、妻がどんな顔で佐山を見送っているのかまでは見えなかったものの、その妻の立ち姿は、あの日、ホームで響子の乗った電車を見送る佐山の姿と重なり、妬心とも淋しさともつかない、言いようのない感情が雅紀の胸の内で激しく渦巻いた。
 ようやく響子が小走りでもと来た道を引き返してくるのが見えて、雅紀はハッと我に返ると、咄嗟に後ずさり慌てて身を隠した。傘で視界が遮られつつも、曲がり角までやって来た響子の足元が、立ち止まることなく走り去ってゆくのを確認すると、雅紀は傘を元に戻して歩き出した。そうして、小走りで駆けてゆく妻の後ろ姿を目で追いながら、今さっき見た光景を自分の中でどう処理するべきかを考えた。
 以前、植物園から二人の跡をつけたときは、響子が佐山とどういう関係なのか気になって黙っていられず、その日の夜のうちに響子に白状してしまった雅紀だったが、今日はそんなことはすまい……二人の会話が聴こえたわけではないけれど、佐山が別れの挨拶をしに来たことは、あの握手の様子からも判る。おそらく電話だけでは物足りず、最後にもう一度響子に逢いに来たであろうことは容易に察しがつく。響子が嘘をついてまで、しかもこんな雨の中を佐山に逢いに行ったとしても、佐山と別れ際に握手をしたとしても、佐山の車が見えなくなるまでずっと見送っていたとしても……二人で逢うのがこれで最後ならば、今日のことは、とやかく言わず自分ひとりの胸の内に納めて黙っていればいいではないか……。今日で最後だろうと判っていながら、あえてそれを響子の前で蒸し返すような不粋なことはしたくない。……そうは思ってみても、一抹の不安が雅紀の心の中で疼いていた。
——これでもう、佐山とは本当に終わったんだよな……?
 少し前をゆく響子の背中に、口に出しては訊けない言葉を、雅紀は胸の内で問いかけながら歩き続けた。

 だが二人の関係は、これで終わってなんかいなかった……。
 三年後——。二人を繋ぐ見えない糸は、そう簡単には切れていなかったことを、雅紀は嫌でも思い知らされることとなった。
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