第29話 やじろべえ〈雅紀〉

文字数 4,393文字

 佐山と三人で会ってから一週間ほど経ったある日、残業を終えて家路についた雅紀が駅の改札口を出ると、少し先に父の涼介が軽く手を振って立っていた。
「どうしたの、こんな時間に……?」
 涼介のもとに歩み寄ると、雅紀は怪訝そうに訊いた。
「たまには、お前と外で飲みたくなってさ……もう夕飯は済んだか?」
「会社の近くで済ませてきたけど……何かあったの?」
「いや、別に何もないさ……」
 いつものように飄々とした口調で涼介は答えた。
「母さんたちにはちゃんと言って出て来たの?」
「母さんは、今日は女学校時代の友達と観劇で、そのあと食事会だって言ってたから、まだ帰って来てないよ。響子さんには、もちろん言って出て来たさ——たまには、お前とちょっと外で飲んでくるってね」
「鬼の居ぬ間に洗濯かぁ……」
 ふっと小さく笑いながら雅紀がそう言うと、涼介もつられて「そうそう……」と笑い返した。
 涼介が雅紀を連れて向かった先は、駅前の商店街の外れにある馴染みの小料理屋だった。暖簾をくぐってガラガラと涼介がすり硝子の引き戸を開けると、「いらっしゃい」と威勢のいい大将の声が聞こえてきた。
「おや珍しい、今夜は親子お揃いで」
 そう言うと、大将はカウンターの中から手振りで、どうぞ、と店の中へ案内した。入ってすぐL字型のカウンターがあり、い草を編み込んだ座面に木の背もたれのついた椅子が八脚ほど並び、カウンターの反対側には、三畳ほどの狭い座敷がある。定年後に店を開いた大将が奥さんと二人で切り盛りしている、こじんまりとした店構えである。涼介と雅紀は奥にいる先客にちょっと頭を下げると、いつものようにカウンターの手前の端に腰を下ろした。大将は二人の前にお銚子二本に古伊万里の盃とお通しを置くと、また流し台に戻っていった。

「どうだ、あれから……?」
 涼介は、灰皿を手元に引き寄せながらそう訊くと、煙草に火をつけ、うまそうに一服した。呑気な調子でそう言う父親の横で、いやなことを訊くなぁ……と、雅紀は眉を寄せて顔を曇らせた。お通しで出された烏賊の紅葉和えをつまみながら、
「あれからって……?」
 と、わざと(とぼ)けた返事をしてみせた。
「相手の男と、響子さんを交えて会ったんだろ?」
「その話かぁ……」
 雅紀は、少し唇を歪めながら浮かない顔をして素っ気なく言うと、お銚子を手に取って涼介の盃に酒を注いだ。自分から三人で会うことを言い出したものの、あれ以来、佐山のことを思い浮かべただけで、つい心が波立ってしまう雅紀だった。そんな心の揺れを鎮めるように、手酌で盃に酒を注ぐと一息で呑んだ。
「母さんには理解できないだろうけど——」
 そう言って涼介は盃を口に運び、うまそうに一口呑むと、
「——俺はいいなぁ……と思ってる」
 と言って、雅紀を感慨深げな眼差しでちらりと見て微笑んだ。
「何が……?」
 雅紀は怪訝そうに父親の横顔を見つめながら訊いた。
「お前と響子さん、佐山さんみたいな関係を築けるのがさ」
 そう言って雅紀に酌をすると、涼介は少し目を細めて優しく息子を見た。
「そうかな……」
 雅紀はふっと苦笑いを浮かべて煙草を口に咥えると、ちょっと首を傾げてライターで火をつけて、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
 涼介は黙って盃を含むと、大きく一つ頷いた。雅紀が、三年ぶりに再会した佐山を響子に引き合わせたと聞いて、涼介は父親として、男として、そうした息子の決断を、心密かに好ましく、そして少しばかり誇らしく思っていた。親から見ても、真面目だけが取り柄のような、ちょっと面白味に欠けるところのある息子だったが、改めて見直した思いだった。息子と嫁の響子との間に、佐山という男が入ってくることで、これまであまり波風の立つことのなかったであろう夫婦関係の均衡が少なからず崩れ、今まで通りの安定した穏やかなだけの夫婦関係ではいられなくなるだろうけれど、そうした危うさや、白か黒か割り切れないところにこそ、人生の面白さはあるはずだ——と涼介は思っている。だから、どちらかと言うと、人の気持ちに疎いところがある息子が、そうした決断をしたことを密かに喜んで見守っていた。
「こういう関係は、なかなかできるもんじゃないからねぇ……」
 しみじみとした声でそう言うと、涼介は少し短くなった煙草の先で左側の宙を指し、
「夫は妻を信じ、相手の男のことも信じなくちゃいけないし……」
 と言って、今度はひょいと右側の宙を指し、
「相手の男も決して一線を越えてはならない——」
 と、続けた。
 それから最後に、煙草の先を左右にゆっくり振って弧を描きながら、ぽつりと言った。
「微妙なバランス関係の上に成り立っているんだな……まるで、やじろべえみたいに」
 雅紀は、考え深げに眉根を寄せながら斜め上に向かって煙をふぅっと吐き出すと、
「やじろべえねぇ……」
 と呟いて、灰皿の中にそっと灰を落とした。そうして、ちょっと唇を歪めて笑うと溜め息をついた。随分深くて長い溜め息だった。
 涼介はそんな雅紀の様子を横目で見ながら、手酌で酒を注ぐと、盃をぐいと呑み干して話を続けた。
「まぁ、響子さんがお前を裏切るとは思えんがね……。それでも、響子さんだって女だ。夫以外の男から好意を寄せられているのを知って、心が揺らがないわけじゃない……。なんたって、その男の前では、妻でも、嫁でも、母親でもない自分でいられるんだからなぁ……」
 そう言うと、涼介は煙を燻らせながら、ふっと何かを思い出すような目をした。
「あれみたいだなぁ……、ほら、将棋の駒を山盛りに積んどいて、順番にそっと引っ張るやつ」
 そう言うと、雅紀の方に問いかけるように顔を向けた。雅紀は涼介に酌をしながら答えた。
「将棋崩しのこと……?」
「そう、将棋崩し……肝腎な一枚を、こう引っ張ると——」と言いながら、涼介は将棋崩しの手つきを真似て一呼吸置いたのち、「ザザザと崩れるんだよなぁ……」と低い声で呟くように言うと、残り少なくなった煙草を頬をすぼめて吸い、灰皿の上でもみ消した。
 雅紀は黙ったまま盃をぐいっと干して深い溜め息をつくと、神妙な面持ちで父親の次の言葉を待った。涼介は雅紀に酌をして、空になったお銚子の首をつまんで振りながら大将に顔を向けてお代わりを頼むと、話を続けた。
「夫婦のカタチも、世間一般で言うような型通りだからって必ずしも上手くゆくわけじゃないさ……。傍から見れば、ちょっと歪なおかしな形であるがゆえに、時にはそれが夫婦にとっての危機にもなり、刺激にもなることがあるだろうけれど、そうした危うい均衡の中でこそ得られる幸せっていうのも、あるんじゃないかなぁ……」
 雅紀は父親の横顔を見ながら、ふっと鼻先で小さく笑って言った。
「今夜は、いやに饒舌ですねぇ……、酔いが回るの、早いんじゃないですか……?」
 涼介はそれには答えず、大将がお銚子と一緒に置いてくれた柿の白和えを口に運び、しばし考える顔をしてから話を続けた。
「妻に好意を抱いている男を近づけさせるっていうのは、男としての度量がないとできないからねぇ……。妻を取られない自信がないとできない」
 そう言うと、涼介はひとり納得したように頷いて、手酌で酒を注ぎながら、横目でそっと雅紀の顔を窺った。
「自信ねぇ……」
 雅紀は、幾分皮肉な微笑を頬に浮かべると、胸の奥まで煙を吸い込んで斜め上に溜め息混じりに吐き出した。そうして、ぼんやりと煙を追いながら、目を細めて遠くを見るような眼差しになった。
 雅紀は、あの夜、ダンスフロアでぎこちなく身体を揺らしていた佐山と響子の姿を思い出していた。少し暗めの落ち着いた照明のせいなのか、佐山の腕の中にいるせいなのか、響子はいつになく(つや)めいて見えた。そして遠目からも、その身体を固くしているのが判った。佐山の方も、必要以上響子に近づかないように気を遣っているのか、腕の強張りが見て取れ、緊張しているのが伝わってきた。佐山と響子の間には、お互い決してそれ以上近づこうとしない微妙な距離があるにもかかわらず、二人はしっかりと、深く、解き難く結ばれているように雅紀には思えた。二人で過ごした時間は少ないだろうが、二人の間には、単に過ごした時間の長さだけでは計りきれない、自分などが割り込んで行くことのできないような、心の底で通い合う繋がりがあるように思えた。ふと、佐山と響子の方が夫婦で、何だか自分の方が横恋慕してるような気がしてしまうほどだった。もしかしたら、前世はあちらの二人が夫婦か恋人同士で、自分はこっちから見ている側だったかもな……と、ワインで酔いの回った頭で思わずそう考えていたことを思い返していた。
 三年前に三人で会ったときに、佐山と響子の関係を認めたくないと思う一方で、そういう関係があってもいいんじゃないかと思う自分もいて、少し時間が欲しい、と言ったことを雅紀は覚えていた。あのときは結局、答えを出す前に佐山と響子がもう逢わないことになってしまったけれど、三年越しに、自分で出したその宿題に答えを出そうとしたとき、あの頃自分の中でうっすらと抱いていた答えのイメージとは随分と変わってきていることに雅紀は気づいた。三年前は、二人の間に男と女の関係が無いのであれば、そして、それを信用できるのであれば、そういう関係を認めてもいいように思っていた。しかし、三年という月日を経て佐山に偶然とはいえ再会するという縁の深さを考えたとき、そして、響子の気持ちはともかく、佐山の響子に対する想いがいまだしっかりと続いていることを感じ取ったとき、自分が佐山の立場だったらと思うと、他人事には思えなくなっていた雅紀だった。立場を変えれば、雅紀自身、人妻の響子に惹かれたかもしれなかった。そう考えると、雅紀は佐山に友情に似たものを感じたのだった。持ってゆき場のない気持ちを抱えたまま、残りの人生を過ごすにはあまりにも長すぎる——それが、佐山と三年ぶりに再会した雅紀が辿り着いた宿題の答えだった。
 煙草を燻らせながら、そんな物思いの底に沈み込んでいた雅紀の隣で、涼介がひとり悦に入ったように、
「いや、いいねぇ……。いい……実にいい……」
 と、しみじみと何度も頷きながら言う声が聞こえ、雅紀はふと我に返った。
 涼介は自分の盃を雅紀の盃にぶつけて何やら嬉しそうに笑みを浮かべると、乾杯、というように盃を上げて吞み干した。そうして、雅紀の煙草に手を伸ばし、また一本取り出して、ひょいと口に咥えて火をつけた。
 そんな父親を横目で見ながら複雑な笑みを浮かべると、雅紀は煙草の煙を溜め息混じりに吐き出して、苦い思いを押し流すように盃をぐっと一息にあけた。
 それぞれの思いに耽る二人の男の指先から紫煙がゆらゆらと立ち昇るのを、カウンターの向こうの端から大将が包丁の手を止めて静かに見つめていた。
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