第23話 銀の雨〈響子〉

文字数 3,019文字

 土曜の夕暮れ時、響子が台所で義母の雪江と夕食の支度をしていると、食卓の椅子の背に掛けていた響子のバッグから電話の着信音が鳴り出した。換気扇を回したガス台の前に立っていた響子は、音に気付かずに調理を続けていたが、居間のテーブルで塗り絵をしていた娘の葵が音に気付いてさっと立ち上がった。トコトコと椅子に駆け寄ってバッグからスマホを取り出してみたものの、葵の小っちゃな指が応答ボタンを押す前に切れてしまった。日頃、祖母や母親が電話に出る様子を傍で聞いて、大人たちを真似て電話に出てみたくて仕方のない葵は不服そうな顔を浮かべて唇をきゅっとすぼめた。背伸びをしてカウンター越しに台所にいる響子に目をやって様子を窺ってみたものの、何だか忙しそうなのを見てとり、仕方なく居間に戻ると、
「パパ、切れちゃった……」
 と、涼介と将棋を指している雅紀にスマホを差し出して画面を見せた。将棋盤から目を離した雅紀がスマホに目をやると、番号だけの不在着信が表示されていた。
「う~ん……番号しか表示されていないから、間違い電話かな……。ママの知ってる人なら、また掛かってくるだろうから、バッグに戻しておいで」
「は~い……」
 言われた通り、葵が再び食卓の椅子まで戻り、スマホをバッグの中に返そうとしたところで、再び着信音が鳴り出した。葵はパッと顔を輝かせると、今度こそはと勢い込んで電話に出た。
「はい、森村でございま~す」
 すると今度は一瞬、無言の間が空いた後、プツッ……と切れてしまった。なかなか思うように電話に出ることが出来ず、葵がもうっ……と眉根を寄せて小さく口を尖らしていると、台所から響子が小鉢を乗せたお盆を持って食卓へやって来た。
「あら、電話があったの?」
 食卓に小鉢を並べながら、響子が葵に声を掛けると、
「うん……一回目は出る前に切れちゃって、二回目は出たら切れちゃった……」
 と答えながら、葵は切れてしまったスマホの画面を響子に見せた。
「————」
 小鉢を食卓に並べる響子の手が一瞬、止まった。
——確か、この前、削除した佐山さんの番号だわ……。
 急に身体の内側を電流が走ったようにカッと熱くなり、心臓の鼓動が鳴り響くのを感じながら、響子は何とか平静を装いつつ「有難う」とだけ言って、葵からスマホを受け取ると、エプロンのポケットに仕舞い込んだ。
 空になったお盆を持って台所に戻ったものの、響子はポケットの中のスマホのことが気になって仕方がなく、傍にいる雪江の様子を見計らってさり気なく台所を出ると、二階へ上がって行った。
 寝室に入りドアをそっと閉めると、エプロンのポケットからスマホを取り出した。着信画面を見ると、短い時間に同じ番号が2回続けて表示されている……下四桁はやはり見覚えのある番号だ。おそらく二回目は葵が出て、びっくりして切ってしまったのだろう……。もう逢うのはよそうと告げた以上、このまま素知らぬ振りをしていた方がいいのかもしれない。そう思ってはみても、心の内をざわめきがさざ波のように広がり、響子は深い吐息をついて窓の外を見遣った。黄昏時の空から落ちてくる雨脚にはまだ薄明かりが残っていた。その静かな雨音を聴いているうちに、佐山と過ごした時間が取り留めもなく思い出され、戸惑う心をふっと優しく包んでいった。佐山の妻のことを考えたら、ここはもう電話をしない方がいいに決まっている。でも……短い間に二度も電話を掛けてきた佐山の気持ちを無下にするのも、何だか忍びなかった。しばし思い悩んだ末、響子はもう一度深い吐息をつくと、意を決して佐山に電話を掛けた。
 電話はやはり佐山からだった。家の近くまで来ていると言われ、心臓がドクンと音を立てると同時に、一体どうして、うちの住所を……と思わず身構えてしまった響子だった。しかし、佐山に言われて、初めて電車で一緒に帰るときに、お互い降りる駅を教え合ったことを思い出し、ホッとするのも束の間、もう一度逢いたいと言われ、返答に詰まって再び黙り込んでしまった。もう逢うのはよそうと決めたはずなのに、佐山の「最後にもう一度だけ……」という言葉が胸の底に深く降りてゆくのを感じながら、響子は窓辺に立ち、空を見上げた。いつの間にか雨脚が強くなってきたようで、薄闇に白い銀の線が無数に降りてきていた。吹き込む風を孕んで白いレースのカーテンがゆらゆらと揺れている。次第に強まってゆく雨の様相に、何だか神経までもが昂ってきて、心ならずも煽られてしまいそうな自分を感じていた響子だったが、それでもまだ、気持ちの踏ん切りがつかなかった。しかし、そんな響子の耳元に「お願いします」と、切羽詰まったような佐山の必死な声が低く響いた時、辛うじて守っていた最後の砦が崩れ落ちるのを感じながら、響子は「——わかりました」と答えていた。
 こんな夕食時が押し迫った時間帯に、どうやって家を出ればいいのだろう……。佐山との電話を切ったあとで、そこまで考えが及ばずに答えてしまったことに気づくも後の祭りで、今更断るわけにもいかない……。こんな時間に、しかも雨の中、家族に嘘をついてまで外へ出ることに後ろめたさはあったものの、色々と考え始めたら足が止まってしまって動けなくなってしまう。とにかく今は、外へ出ることだけを考えよう——響子は迷いを振り切るようにエプロンを外し、クローゼットから取り出したカーディガンを羽織ると、急いで寝室を出て行った。
 階下に降りると、台所にいる雪江や居間にいる雅紀らに、「さっき、葵のお友達のお母さんから電話があったので、ちょっと出掛けてきます……」とだけ声をかけて、食卓の椅子に掛けた財布の入ったバッグを手に取り、慌ただしく家を後にした。義母も夫も怪訝そうに何か言いたげな顔をしているのが目の端に映ったが、まともに顔を合わせて平然と嘘をつく勇気はとてもなく、狡いのは承知で、あたふたと忙しなく家を出てくるのが精いっぱいの響子だった。
 家の外に出ると、思ったより風があり、冷たい雨が降っていた。響子はカーディガンの前を合わせると腕をさすって身体を暖めながら、小走りで駅に向かった。葵のお友達の家に行くと言い置いてきた以上、外に長居はできず、できるだけ早く家に戻らねばならない。それに、駅の近くに来ていると言っていたとはいえ、佐山がどこで待っているのかわからず、首尾よく逢えるのだろうか……と不安な気持ちに急かされながら、響子は駅までの道をひたすらに走って行った。
 やがて、駅前に続く大通りに差し掛かる頃には、だいぶ日も暮れて、薄暗がりの空の下、ちらほらと街灯が点り始めていた。響子は歩みを緩めてバッグからスマホを取り出すと、佐山に電話をかけた。——とその時、少し離れた道路脇に停められた車から、二度三度素早く点滅するようにライトで照らされたような気がして、響子は立ち止まって雨の向こうに目を凝らした。すると、先程と同じように再びライトが点滅した。と同時に耳元で、
『今、行きます』
 と佐山の声が聴こえ、車から傘をさして降り立った人影がこちらに向かってくるのが見えた。お互いの顔がわかる距離まで近づき目が合うと、佐山は手にしていた傘をわずかに前に差し向け会釈した。響子は電話を切ると、息を整えながら佐山に向かって再び歩き出した。息が上がっているのは、走ってきたせいだけなのだろうか……響子は自分でもよくわからなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み