第14話 カンナ〈雅紀〉

文字数 5,848文字

『とにかく、雅紀も一度行ってみなさい、この間、話した植物園に。……いいわね?』
 そう言って、こちらの返事も聞かずに一方的に母親に電話を切られ、雅紀は憮然とした表情でスマホを見つめた。昼日中に、それも会社にまで、こんな電話をかけてきて……勘弁してくれよ、母さん……と、溜め息をつきながら窓の外に目をやった。
 昼前の会議が終わり、会議室を出てデスクに戻ろうとしたところスマホが鳴り、着信画面を見ると自宅からの電話とわかり、雅紀は何だか嫌な予感がして、デスクには戻らず、人気のない業務用エレベーターホールへ来ていた。壁一面に広がる大きなガラス窓の外には、東京湾が広がり、夏の日射しを受けて、水面がキラキラと眩しく輝いているのが見える。その向こうにはレインボーブリッジが広がり、車が蟻の隊列のように小さく連なって見え、雲ひとつない青く澄み渡った空には、羽田から飛び立った飛行機がゆっくりと横切ってゆくのが見えた。雅紀は、手前に見える大型船が白い足跡を残しながら埠頭を離れてゆくのをぼんやりと見つめながら、ふうっと大きく息を吐いた。息子夫婦を心配した母親としての親心だとわかってはいても、母のお節介ぶりには、正直言ってげんなりしている。いい歳をして、いつまでも親を心配させる自分が悪いとは思うものの、母の手にかかってしまうと、小さな火種もあっという間に大きな山火事になってしまいそうで、何だか先が思いやられる……。とはいえ、今のところ、あのおしゃべりな母が響子に何も言わずに黙ってくれていることは奇跡に近く、それだけ母は母なりに用心深く、ことの推移を見守っているということだろう……。
 先日は、母から植物園近くの遊歩道で響子を見かけたことを聞かされ、思いのほか動揺してしまい、翌朝、妻を久しぶりに外食に誘い出した雅紀だったが、母に言われるままに動いて振り回されるのもどうかと思う自分もいる。心配して電話してきてくれたことはわかるが、今回は静観しよう……。と、そこへ、エレベーターが止まる音がして扉が開き、大きな荷台とともにガヤガヤと人が降りてきたので、雅紀は足早にその場をあとにした。

 しかし、デスクに戻り、会議の資料を整理しながらパソコンに向かっていると、ふと手が宙に浮いて止まってしまい、目がスーッと画面右下の時計表示に吸い寄せられてしまう雅紀だった。
——1時に待ち合わせか……。
 仕事のことを考えているはずなのに、先程、母から電話で言われたことが、まるで頭の中をぐいぐいと押しのけるようにして割り込んでくる。気が付くと、考えるより先に、指は勝手にキーボードの上で動き出し、植物園のホームページを検索していた。
——ここが、その植物園か……。
 園内の様子を映した写真をマウスで次々とクリックしながら、雅紀はしばしの間、見るともなしにぼんやりとパソコンの画面を眺めていた。そうしながら頭の中では、先ほど電話で母から聞いた話を思い返していた。妹に会うと言う妻のことを信じたい気持ちはあるけれど、その一方で、昔話の鶴の恩返しに出てくるお爺さんではないけれど、覗いてはならない、見てはならない、と言われれば言われるほど、見たい、知りたいという思いが募ってくる……。先程の電話では母の戯言に付き合ってなんかいられない、と一蹴したものの、時計の針が刻一刻と進み、母から聞いた“1時”が近づいてくるにつれ、だんだんと気になって仕方のない雅紀だった。行こうか……行くまいか——。今回は静観しようと思いつつも、行かなければ行かなかったで、情けないことではあるけれど、きっとまた今夜、眠れずにひとり悶々と一夜を過ごすことになってしまうだろう……。何があろうとどっしりと構えていることのできない、自分の男としての器量の無さを恨みがましく思いながらも、雅紀は居ても立っても居られず、鞄を手にして立ち上がると、傍らにいた同僚に急遽外出する旨の声をかけて、慌ただしく出かけて行った。

 会社を出ると、雅紀は少し離れた場所でタクシーを拾った。電車で行くこともできたが、いつどこで社内の人間に会うかわからないし、今の時間帯なら、タクシーで行っても渋滞に巻き込まれることもないだろうと思ったからだった。運転手に行き先を告げると、案の定、怪訝な顔をされたが、わざわざ愛想よく説明するのも煩わしく、構うものかと素知らぬ顔をして、雅紀はシートに凭れて目を閉じた。そうして、ここ最近、何かふわふわと妙に浮き足立っている自分を省みた。母から植物園で響子を見かけたことを聞かされた夜には、ひとり悶々としてなかなか寝付かれず、翌朝には思わずベッドに妻を引き込んだものの、結局何も言い出せずに寝室をあとにしてしまった。その夜、久しぶりに二人きりで外食をしてみたものの、話のついでに、
——昨日はどこへ行ってきたんだ…?
 そんな短いひと言さえ、うまく口に出せない自分が歯痒くて、雅紀は自分で自分の頭をポカっと殴ってやりたい気持ちだった。そして今日は、母からの電話を戯言に付き合っていられないと一蹴したくせに、結局、タクシーを走らせて、植物園へ向かってしまっている……。さながら昼メロに出てくる“妻を疑う夫”みたいなことをしている自分に呆れつつも、笑い飛ばせないものが腹の底からモヤモヤと込み上げてくる。雅紀は深い溜め息をつきながら目を開けると、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めた。
 植物園の入り口に着いてタクシーを降りると、頭上から照りつける真夏の日射しの強さと、アスファルトからの照り返しでモワっと立ち上る熱気に怯みつつ、雅紀は矢印に従って公園内へ入って行った。母がこの前話していたのが、この遊歩道なのだろうか……。炎天下ゆえ、ほとんど人影はなく、思わず引き返してしまいたくなりそうな草いきれに気圧されつつ、少し先に見えるドーム型の植物園に向かって、ひたすら歩みを進めていった。ふと腕時計をのぞくと、約束の1時が近づいており、背中に受けた日射しに、ジリジリと焦げ付くような焦りを感じながら、歩みを速めた雅紀だった。
 ようやく植物園の入り口に辿り着き、チケットを買うのももどかしく園内に足を踏み入れると、程よく冷房が効いていて、砂漠の中のオアシスを見つけたような心持ちで、額の汗をハンカチで拭った。しかし、一息ついている暇はなく、すぐに園内を見渡しながら、矢印の順路に沿って早足で歩いて行った。順路通りに一周してみても、響子の姿は見当たらず、ホッとひと安心しつつも、何だか肩透かしを喰らったような気分になり、雅紀は思わずその場に座り込みたくなった。母にけしかけられたとはいえ、どこか思い詰めたように来てしまった自分を笑い飛ばすように、ひとり自嘲気味の笑みを零した。
 響子の姿を探す目的が無くなると、急に手持ち無沙汰になり、雅紀は園内を改めて見渡した。そこかしこに緑豊かな樹々が生い茂り、原色の鮮やかな花々が咲き乱れ、水辺では滝から流れる水音が聞こえてくる……その中にポツンと立っているスーツ姿の自分が、何だか急にひどく場違いに思われた。時折、通路ですれ違う人からも、昼日中に外回りでサボっているサラリーマンを見るような視線が感じられ、雅紀はそうした視線から逃れるため、少し俯いて大きな身体を申し訳なさそうに縮こませながら歩いた。
 ふと通路脇に目をやると、赤や黄色、橙色などの原色系の花が視界に入り、雅紀は思わず足を止めた。近づいてプレートを見てみると「カンナ」と書いてある。昔、小学校の校庭の花壇でも見かけた記憶のある花だ。ゆったりとした艶やかな大振りの緑葉の間から、明るく色鮮やかな菖蒲にも似た花姿を見せ、熱帯植物らしいトロピカルな雰囲気を辺りに漂わせている。ビタミンカラーのせいか見ているこちらまで、元気に明るくしてくれるような花だが、今の雅紀にはその明るさがちょっと眩しすぎるように思えて、思わず目を逸らした。そのまま順路に沿って水辺近くまで行くと、ベンチが置かれているのが目に入り、雅紀は周りに誰もいないことを確認すると、おもむろに腰を下ろした。
 別に、響子が浮気をしたというわけではないのだ。自分以外の男と並んで歩いていたことくらい、どうってことない。道でも訊かれて、たまたま一緒に歩いていただけかもしれないのに、そんなことくらいで動揺してどうする……。その程度のことでヤキモキするなんて、あまりに心が狭すぎるじゃないか……。鷹揚に構えていられない自分の器の小ささに、雅紀は自分ながら嫌気がさし、ベンチの背凭れにぐったりと背中を預けた。そして、ドーム型の天井を見上げると、深呼吸をしながら辺りの熱帯植物を見渡した。植物から発する気がいいのか、濃淡様々な緑が目にいいのか、水辺に流れる滝のマイナスイオンがいいのか、よくわからないが、とにかく、ベンチに座ってぼうっとしてるだけで、日頃忙しなく動いている頭の中の回転が緩み、身体の緊張も次第に解けてきて、心がスーッと落ち着いてくる……。静かに耳を澄ましていると、気付かなかった自然のささやきを聴き取ることができるような気がしてくる。響子がここへ一人で来る理由が、雅紀は何だかわかるような気がした。自分にとっては、生まれ育った家であり、何の遠慮も気兼ねもなく暮らせる家ではあるけれど、響子にとっては、義父母と暮らすあの家は、やはりあまり寛げる家ではないのかもしれない……嫁姑関係で表立って悩まされていることはないとは思うが、結婚して家族の一員になったとはいえ、あの家での響子の立ち位置は、あくまで外から入ってきたよそ者であり、心から安らぐことはできないのかもしれない……。そんなことをぼんやりと考えているうちに、気が付くと、雅紀はベンチでいつの間にかうとうとと船を漕いでいた。しばらく目を瞑り、うたた寝をしていた雅紀だったが、少ししてスマホが鳴り出し、ハッと目を覚ました。会社からの電話であることに気づくと、雅紀は慌てて小声で電話に出て、辺りを憚りながら急いで出口へ向かった。

 その夜、家に帰って、今日のことを色々と母に詮索されてはかなわないと、雅紀は残業して夕食の時間をずらし、なるべく雪江と顔を合わさずに済むよう帰宅した。しかし、敵もなかなか手強いもので……、雅紀が二階から降りてきて居間へ向かおうとすると、雪江も居間からちょうど出てきたところで、あえなく廊下で鉢合わせすることになってしまった。まったく油断も隙もあったものではない……雅紀は胸の内で独りごちた。
「響子さんは?」
 近づいてくる雅紀に、風呂場の方を気にしながら、雪江は小声で訊ねた。
「葵と風呂ですよ」
 そう言いながら、そそくさと雪江の横を通り過ぎようとした雅紀だったが、
「ちょっと……」
と言いながら雪江に腕を引っ張られ、抗議する間もなく、背中を押されるようにして両親たちの寝室に押し込まれてしまった。
 雪江は素早く寝室の灯りをつけ、ドアを背にするようにして雅紀を立たせると、外の物音が聞こえるように、ドアを少しだけ開けた状態にして雅紀の前に立った。
「それで、どうだったの?響子さんに会えたの?」
 雅紀から話を聞くのを待ちわびていたのだろう。雪江は好奇心丸出しの顔をして、下から雅紀を見上げてきた。
「会うわけないだろ。……それより、母さん、頼むよ。あんな電話を会社にまで掛けてきて……」
「でも、やっぱり気になったから、あなたも行ったんでしょ」
 したり顔の雪江が、リスみたいにクリクリした目を光らせながら問いかけてくる。
 仕方なく、雅紀は言った。
「行きましたよ、母さんが大袈裟に言うからさ……」
 そこで言葉を切ると、少し不貞腐れるようにして続けた。
「母さんたちが男といる響子を見たというのだって、たまたま声をかけられて一緒に歩いていただけなんじゃないの……?ほら、響子は綺麗だし……道を訊いても親切に答えてくれそうに見えるし……」
「声をかけられたからって、フラフラと男の人について行っていいって言うの?」
「いや、そうじゃなくて、男といたからって、その……関係があるとは決めつけられないでしょう?」
「だから、ちゃんと確かめた方がいいって言ってるんじゃないの」
「そんなこと、真正面から聞いてどうすんですか……。軽々しくそんなことを聞いて、もし本当に何でもなかったら、夫婦関係がかえってややこしくなるだけなんだから」
 そう言うと、雅紀は少し憮然として雪江から目を逸らした。
 そんな息子の顔を、雪江はしばらく黙ったまま訝しげに見上げていた。やがて、雪江は一歩前に踏み出して詰め寄り、間近から雅紀の目の中を探るように見つめると、ひょいと顔を寄せて囁いた。
「あなた……、もしかして浮気しているの?」
「はぁ……!?ちょっと待ってよ……どうして、そっちへ話が行くんですか?」
 思わぬ成り行きに、雅紀は慌ててしまった。疚しいことなんて別にしていないのに、そんな風に問い詰められると、何か思い当たる節があるようにドキッとしてしまう自分に、心の中で思わず舌打ちをした——まったく、何をビビッているんだろう……情けないったらありゃしない。しかし、そんな雅紀の心の内も知らずに、雪江は続けた。
「自分に疚しいところがあれば、妻に問いただすこともできないんじゃないかしらと思って」
 雅紀は下からじっと睨みつけるような雪江の視線から逃れるように目を逸らすと、
「浮気なんかしてませんよ、僕は。母さんの考えすぎですよ」
 自分ながらもうちょっと気の利いたことが言えないものかと思うが、しかし何だって母親相手に冷や汗をかいて言い訳みたいなことを言わなきゃならないんだろう……。そもそも、夫婦のことをいちいち母親に教える必要なんて無いはずなのに……。
「……とにかく、この件は夫婦の問題なんだから、頼むから、これ以上、口出ししないで下さいよ」
 いい加減、こんな話はもう切り上げたいと雅紀が思っていたところ、
「パパ~、お先にご無礼しました~」
 とタイミング良く、風呂場のドアが開く音がして、葵の声が聞こえてきた。雅紀はこれ幸いとばかりに、
「じゃ、頼みますよ。母さん」
 と雪江に念押しするように言い置いて、廊下へ慌ただしく出て行った。
 寝室に一人ぽつんと取り残された雪江は、相変わらず煮え切らない態度の息子に、気持ちのやり場がなく「ん~もうっ、雅紀ったら……」と心の中で地団駄を踏んでいた。
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