第11話 金魚草〈雪江〉

文字数 5,798文字

「たまにはいいわね、こういう所も」
 歩きながら植物園のパンフレットを見ている雪江が言うと、
「うん、そうだな……」
 と、隣で涼介は頷きながら、公園内を見渡した。夏の光に包まれて、樹々や草花が一層その濃さを増して生き生きと輝いている。遊歩道脇の花壇に目をやると、金魚を連想させる愛嬌のあるふっくらとした花姿の金魚草が、赤や白、檸檬色に桃色、紅紫色、橙色などの色鮮やかな尾ひれをひらひらさせながら、午後の光を取り込むように口をパクパクさせて、賑やかに風にそよいでいた。
「この先をもう少し行ったところに、植物園があるらしいのよ」
 パンフレットの地図に目をやりながら、雪江がそう言うと、涼介も顔を上げて、遊歩道の先に目をやった。
——そのときだった。
「あら、あなた!…あれ、響子さんじゃない……?」
 パンフレットからふと目を上げた拍子に驚いたように雪江がそう声をあげるのと、「あ……」と涼介が気づいて声を漏らすのが同時だった。二人の歩く遊歩道から少し離れた先に見えたのは——、嫁の響子が見知らぬ男とこちらに向かって並んで歩いてくる姿だった。咄嗟に涼介は、雪江の視線を遮ろうと身体を少し斜め前に出した。
「ちょっと、あなた……?!」
 何をするの……?!と言いながら、突然視界を塞がれた雪江は涼介の腕を掴んで、なおもその肩越しに響子たちを見ようと、つま先立ちになった。涼介は振り向くと素早く雪江の腕を手に取り、くるりと背を向けるようにすると、
「いいから、こっち……」
 と、雪江の背中を手で押しながら足早に脇道へ入って行った。
 夫の行動に納得のいかない雪江は、なおも首だけ後ろに振り向かせながら、
「あなたも見たでしょう……?確かに響子さんだったわ」
 と粘ったが、涼介は(とぼ)けたように、
「お前の見間違いじゃないのか……」
 と言うだけだった。すると、すかさず、
「じゃあ、それなら、もう一度確かめに行くわ」
 と、雪江がムキになって来た道を戻ろうとするので、涼介は慌てて両手で雪江の腕を押さえて引き留めた。
「もうっ、あなたって響子さんには甘いんだからっ…。いつも響子さんの肩を持ってばかり」
 雪江は、頬を膨らませながら、涼介に冷たい目を向けた。
「別に肩なんか持ってないさ……」
 と、口ごもりつつ目を逸らした涼介だったが、ふっと真剣な顔をして視線を雪江の顔に戻すと、
「とにかく響子さんには……それから雅紀にも、このことは黙っているんだぞ。これは夫婦の問題なんだから」
 と釘を刺した。有無を言わせない、いつになく少し強い口調の涼介に、雪江はそれ以上何も言えず、不服そうにきゅっと唇を結んで涼介を見上げると、返事の代わりに、荒い仕草で自分の腕を掴んでいる涼介の手を振りほどいた。  

 その日の夕方——。
 雪江と響子が台所に立ち夕飯の支度をしていると、リビングで孫の葵をあやしながら、涼介がちらちらと台所に目をやっていた。妻には昼間、夫婦の問題なのだから黙っているように、と釘を刺したものの、やはり嫁の響子の様子が気になって仕方がなく、家に帰ってからというもの、ついついその姿を目で追ってしまう涼介だった。
 息子の雅紀の他に次男が一人と、男兄弟の息子たちしかいなかったこともあり、雅紀が結婚して以来、一緒に住むようになった響子のことを、涼介は急に娘ができたような嬉しさで温かく我が家に迎え入れた。雪江に「嫁に甘い、嫁の肩を持ってばかり」と小言を言われるたび、のらりくらりとはぐらかしてきた涼介だったが、男三人に妻一人という家族構成で長らく暮らしてきただけに、響子の、妻の雪江にはない優しい気遣いや、ふとした時に見せる仕草に、どこか面映ゆさを感じながら見守ってきた。それだけに今日、見知らぬ男と歩く響子の姿を偶然見かけてしまって、まさか……とは思いつつも、涼介も内心は、雪江に負けじ劣らず動揺していた。そのため、見まい、見まいとは思っていても、気が付くと意志に反して、目がすーっと台所の響子のもとへ走って行ってしまうのだった。
 そうしているうちに、台所のカウンター越しに立つ妻と、運悪く目が合ってしまった……。雪江がじろりとこちらを見ている。口では、夫婦のことなんだから口出しをするな、なんて言ってるけど、あなただって本当は響子さんのことが気になっているんでしょ……、と(なじ)るような目であった。涼介はバツが悪そうに肩をひょいと竦めて目を逸らすと、おもむろにテーブルに置いてあった新聞を手に取り、雪江の視線から逃れるように目の前に広げた。
「おじいちゃん、新聞、逆さまだよぉ~」
 涼介の傍らで遊んでいた葵が、新聞の写真を見ながら首を傾げて声をかけると、涼介はハッとして、苦笑いをしながら新聞の向きを変えて持ち直した。台所からその様子を見ていた雪江は、思わずフフッと小さく笑ったが、その目の奥は涼介をちょっと睨むようにチカリと光っていた。
 
 その晩、雪江はベッドに入ってからまんじりともせず、灯りを消した薄暗闇の中で天井を見つめていた。いつもなら夫婦共々、夜10時前には床に入り、すぐに眠りについてしまう雪江だったが、今夜は、昼間植物園近くの公園で見かけた、見知らぬ男と並んで歩く嫁の響子の姿が目にちらついて、眠れそうにもなかった。長男の雅紀の結婚以来、家族の一員として迎え入れ同居するようになった響子は、良家のお嬢さんらしく、少しおっとりしているところはあるものの、家事は何でもそつなくこなすし、気働きのできる、よく出来た嫁だと思っている。少し気の強い姑の自分を、一歩下がって立ててくれる控えめさもあり、時折会う友人たちの間で聞くような嫁姑問題で悩まされることもないし、結婚してしばらく経つと待望の孫も抱かせてくれて、特に言うことのない嫁だと思っている。でも……、と雪江は時折、ふと思ってしまう。これだけ非の打ちどころのないような嫁ではあるけれど、響子にはどこか心の奥底がいまひとつ見えないようなもどかしさ、響子の周りに張りめぐらされた見えない壁を、雪江は折に触れて感じていた。どんなに周囲の人間と穏やかに親しげに接していても、どこか自分と周りの人間との間に見えない一線を引いているように見えるのだ。おそらく涼介も雅紀もそんなことには気づいていないだろうが、同じ女性であるせいか、雪江は響子が心の内に秘めている固い殻を感じていた。
 今日は思いがけず見知らぬ男と歩いている響子を見かけてしまったが、別に雪江とて、見知らぬ男と並んで歩いていたからといって、それだけですぐに、響子が世間で言うような不倫関係にあるなどと疑っているわけではない。響子がそんな女ではないことは、自分でもよくわかっている。ただ、心の内がいまひとつ見えない嫁のこと……、ふと何かのきっかけでパンドラの箱が開いてしまうような怖さがあるように思えた。雅紀との夫婦関係がどれほどのものであるかは、母親とはいえども分かりかねるが、響子の心の奥深くにある固い殻の部分にまで、雅紀がまだ触れていないとしたら、響子のその固い殻に触れるような、何か心の琴線に触れるような男性が現れたときは、きっと危ない。思いもよらぬ方向へ転がっていく怖さがある……。
 早くに家を出て自由気ままに生きている次男と違って、雅紀は子供の頃から長男としての自覚を持つよう、少々親が厳しく育ててきたせいもあって、成長するにつれ、親の言うことに表立って逆らうこともなく、親を殊更に心配させることもなく、親の欲目とは思いつつも、どこそこ生真面目で、風来坊の次男とは対照的に、しっかりとした堅物な息子に育った。そんな雅紀だけに、人の心の機微、とりわけ女心には疎いところがあるのは母親の目からも見ても明らかだった。夫の涼介には、「夫婦の問題なのだから、雅紀にも黙っていろ」と言われたけれど、何も見ていない、何も知らないのならともかく、一度見て知ってしまった以上、母親として、このまま黙っていることはできない。雅紀には今日の響子のことを伝えて、火種が大きくなる前に対処をするよう、ひとこと言っておかねば、気が済まなかった。
 そんなことを考えながらベッドで横になっていると、寝室の外の廊下をスリッパでパタパタと歩く足音が聞こえた。ベッドサイドのテーブルの時計に目を凝らすと、11時を少し回ったところだった。会社から帰ってきた雅紀が遅い夕食を済ませ、お風呂から上がってきたようだ。雪江は目をパチリと開けて天井を見上げた。確か、響子は葵を寝かしつけに二階に上がったきり、降りてきた気配はない。顔を横に向けて、夫のベッドに目をやると、昼間出かけて疲れていたのかスヤスヤと眠っているようで、寝息に合わせて布団が微かに規則正しく上下している。雪江はむくりと起き上がると、足音を立てないようにベッド脇のスリッパを手に取り、忍び足で寝室を出て行った。

 廊下から格子状のガラス窓越しに居間を覗くと、雅紀がソファで新聞を広げているのが見えた。ドアノブにそっと手をかけ、音がしないように静かに開けると、雪江は顔をドアからひょっこりと出して居間の様子を窺った。雅紀が一人であることを確認すると、中に入って、そっとドアを閉め、居間のソファに向かって歩き出した。
 と、足音に気づいた雅紀が新聞から顔を上げた。
「どうしたの、母さん?」
「え?……ううん」
 小さく首を振りながら、神妙な面持ちで雪江は雅紀の隣に腰を下ろした。
「どうしたの…?具合でも悪いの…?」
 雪江はそれには答えず、顔を少し近づけて雅紀の目の中をのぞき込むようにして見ると、
「ねぇ、響子さん、最近変わったところない?」
「いや、別に……」
 雅紀は途端に話の雲行きを感じ取り、面倒くさそうに答えると、視線を再び新聞に戻した。雪江はそんな雅紀の様子にはお構いなしに続けた。
「夫婦仲はうまくいってるの…?」
「えぇ、まぁ……」
 いまひとつ浮かぬ顔をしながら口ごもる雅紀に、
「えぇ、まぁって……。もう、ハッキリしないんだから」
 雪江はしびれを切らしたように言った。
「だって、親子だからって、いちいちそんなこと報告することはないでしょう」
 言いながら、雅紀は雪江から顔を隠すように、広げていた新聞を少し持ち上げた。すると、雪江は新聞の上の端っこを指で摘まんで下げて顔をひょっこり出すと、意味深な顔をして、
「そうよ、うまくいってるならね」
 と、片方の眉をひょいと上げた。
「何ですか、急に……。母さんこそ、はっきり言ってくださいよ」
 今度は雅紀がしびれを切らす番だった。広げていた新聞を閉じて四つに畳んでテーブルに置くと、母親の方に身体を向けた。雪江は雅紀の方へ少し身体を寄せると、声を落として話し始めた。
「お父さんには、夫婦の問題なんだから黙ってろって言われたんだけど……」
 雅紀の肩が微かにピクリと動いたのを、雪江は見逃さなかった。
「今日、見たの」
「何を?」
「響子さんが男の人と歩いているのを」
 一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐにその動揺を打ち消すように雅紀はポーカーフェイスを貼り付けて訊いた。
「どこで……?」
「植物園で」
「植物園……?」再び驚いた顔をして「また、どうしてそんな所へ?」と訊いた。
 雪江は軽く肩を竦めながら、
「知らないわよ、そんなの……」
 と、ムッとして少し口を尖らせるようにして答えた。雅紀は思わず苦笑して、
「響子じゃなくて、母さんたちが行った理由」
「あぁ…」
 そっちの理由ね、という感じで頷くと、雪江は立ち上がってサイドボードへ行き、抽斗から取り出してくると、雅紀の前に差し出した。
「この間ね、新聞入れのかごを片付けていたら、この植物園のパンフレットが紛れていたのよ。   たぶん、響子さんが入れたんでしょうけど」
 雪江から受け取った植物園のパンフレットに目を落としたまま、雅紀は黙って聞いていた。
「それで今日お父さんと、知り合いの方のお見舞いに行ったんだけど、そこの植物園、その病院の近くだったから、ついでに寄ってみたの。もう長いこと、植物園なんて行ったことなかったから、たまにはいいわねってことで」
 相変わらず黙り込んだまま、雅紀は植物園のパンフレットを見ていた。
「そしたらね、その植物園に向かう途中の遊歩道で、響子さんが男の人と話しながら歩いていたのを見たのよ」
 雅紀が何と言うか、しばらく待っていた雪江だったが、いつまでも黙っている雅紀がじれったく、やがて
「何とかおっしゃいな」
 と促した。すると、雅紀は考え込んでいた表情をふっと緩めて、パンフレットから顔を上げると、
「母さんたちは知らない人でも、僕は知っている人かも……」
 と、ポツリと言った。
「じゃ、今日、響子さん、あなたに話した?誰かと会ってきたって……?」
 雪江はすかさずピシャリと言ってのけた。
「いや……」
 痛いところをついてくる。
「ほら、ごらんなさい」小鼻を膨らませて少し勝ち誇ったような顔をして雪江は言い放った。「疚しいところがあるから、きっと話せないのよ」
 雅紀は再び黙り込んでしまったが、少ししてパンフレットを折り畳むと、ようやく口を開いた。
「響子はもちろん、母さんたちが植物園にいたことを知らないんですよね?」
「そうよ。だって、お父さんが見なかったことにしようって、すぐに私の腕を引っ張って脇道に入っちゃったんだもの」
 先程までの思案げな表情は消えて、雅紀は少し改まった顔つきで雪江を見ると、
「母さん…、このことは絶対に、響子に黙っていてくださいよ」
 と、念を押した。
「それくらいわかってますよ、母さんだって……」夫にも息子にも同じように釘を刺され、思わずムッとしてしまった雪江だったが、最後は昔に戻って子供の頃の雅紀に言い聞かせるような口調になって言った。
「とにかく、そういうことだから、今のうち何とかなさいよ」
「……わかりましたよ」
 少し不服そうに肩を竦めてそう言うと、雅紀はソファから立ち上がった。しかし、ドアのところまで行くと、ふっと足を止めて振り返り、手にした植物園のパンフレットを軽く振りながら、
「母さん、ありがとう」
 と、少し照れ臭そうな微笑を浮かべ、静かに居間から出て行った。口許は笑ってはいても、どこか寂しげな雅紀の背中を、雪江は子供を心配する母親の顔になって、複雑な思いで見送った。
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