第6話 遣らずの雨〈響子〉

文字数 4,939文字

「響子さ~ん、庭に干してある傘、仕舞っておいてもらえる~?」
 2階から降りてきてリビングに戻ると、キッチンに立つ義母の雪江に声を掛けられて、響子は返事をすると、庭へ出て行った。雲間から顔を出した太陽が穏やかな午後の日射しを降り注ぎ、庭に咲いた傘の花たちを柔らかに照らし出している。響子は屈んで傘を手に取っては、一つ一つ丁寧に折り畳んでいった。縁に竜胆(りんどう)色をあしらったツートンカラーの濃藍の傘は夫・雅紀の傘、その横にある賑やかな色彩の可愛らしい絵柄は幼稚園に通う娘・葵の傘、淡い藤色の下地に青紫や若紫の紫陽花が咲いているのは義母・雪江の傘、松葉色の落ち着いた格子模様は義父・涼介の傘、その隣は……。ひとつ残った最後の傘を持ち上げて閉じると、柄を握った手がしばし止まり、顔を上げた響子の視線が、ぼんやりと虚空を彷徨った。

「友達としてならいいでしょう?会ってこうしてお話するだけです。それでもダメですか?」
 昨日、植物園からの帰り道、不意に立ち止まり、振り向いた洋之の言葉に、それまで聴こえていたはずの蝉時雨も止んで、あたりがしんと静まり返ってしまったようだった。響子を見つめる洋之の切羽詰まったような真剣な目の色に、咄嗟に返す言葉もなく、思わずその場に立ち竦んでしまった。すると、洋之は慌てて、
「すみません。突然こんなこと言って……。今のは聞かなかったことにして下さい」
 と気まずそうに、軽く頭を下げた。この場を何とか取り繕おうと目だけは相変わらず必死だったが、二人を包む気重な空気を振り払おうとするかのように、先程よりは幾分明るい洋之の声のせいか、初夏の瑞々しい軽やかな風が吹き抜けて、響子の強張った表情も、ほんの少し和らいだ。
 雅紀と結婚して義父母と二世帯住宅で暮らすようになって早5年、世間で言うような嫁姑問題に悩まされることもなく、娘の葵が産まれてからは、涼介も雪江も孫の誕生を喜んで、何くれとなく面倒を見てくれて、平穏で幸せな結婚生活を送ってきた響子だった。葵が赤ちゃんの頃は、初めての子育てに必死で毎日が慌ただしく過ぎていったが、やがて幼稚園に通うようになってからは、時間と心の余裕が少しできたこともあり、たまたま電車の吊り広告で知った植物園に時折暇を見つけては足を運ぶようになっていた。夫との関係にも、舅姑との関係にも、子育てにも、結婚生活に特にこれといった不満はないけれど、植物園でひとり密かに過ごす時間は、どこか、囚われていた檻から抜け出して羽を伸ばすような解放感があり、響子のささやかな楽しみとなっていた。そうした中で出会ったのが、洋之だった。
 昨日は突然、お茶に誘われ、少し警戒してしまったけれど、名刺を差し出しながら懇願するような洋之の必死な目の色に、先日ハンカチを拾ってもらったこともあり、お茶くらいならいいかな……と軽い気持ちで承諾した響子だった。
「この間、初めてお見かけしたとき、綺麗な方だなぁって思って」
 思いがけない洋之の言葉に、首を小さく横に振りながらも、首筋から耳にかけてさぁっと桜色に染まっていきそうな自分を感じたが、綺麗だと言われることなんてもう久しくなかったことに気づくと、悪い気はしなかった。とはいえ、相手は会ったばかりの初対面の見知らぬ男性……、響子は少し緩んだ気を引き締めつつ、ティーカップに口をつけ、洋之の話に時折、愛想よく相槌を打ちながらも、目の前の男性をそれとなく観察していった。深々とした黒い瞳に、すっきりとした高い鼻、そして、形のよい、やや薄い唇。歳は自分と同い年くらい、三十代後半といったところだろうか。笑うと言いようのない優しさがその目許と口許に漂う……それは夫の雅紀には感じたことのないものだった。
 そんなことを考えながら、ふとコーヒーカップに添えられた洋之の左手の指輪に目が留まると、響子の視線の先をたどり、こちらから尋ねるまでもなく奥さんのことを話してくれた洋之だった。心の内をさり気なく探り当ててくれるそうした気遣いに、何だか面映ゆいような心持ちを感じた響子だった。
 でも決して、それ以上の感情を持ったわけではなく、一期一会、今日限りの出逢いだと思っていたので、洋之からは名刺を受け取っていたものの、自分からは名乗るつもりはなかったし、洋之もあえて尋ねてくることはなかった。だから、このまま駅まで行って、お互い電車に乗ったら、もうそれきり逢うこともない人だろうと思っていた……。それが——、
「友達としてならいいでしょう?会ってこうしてお話するだけです。それでもダメですか?」
 という、あの洋之の問いかけで、思わぬ方向に事態が流れて雲行きが怪しくなり、遊歩道の少し前をゆく洋之の背中を、響子は不安げに見守りながらついて歩いた。するとしばらくして、今度はそんな二人の頭上の雲行きも怪しくなり、気が付けばどんよりとした鈍色の雲が立ちこめて、大粒の雨を降らし始めた。洋之は振り向いて響子と顔を見合わせると、それを合図に二人して公園の出口に向かって走り出し、駅に向かう大通りの歩道に辿り着いたものの、あっという間にスコールのような土砂降りの雨となり、歩道脇の店仕舞いしたパン屋の軒先に走り込んで雨宿りをした。ハンカチで肩先の雨を払って一息ついたものの、お互い言葉を交わすわけでもなく、しばらくの間、ただそこに並んで立っていた。雨が止むのを待っていたというよりも、互いに相手が話し出すのを待っているかのような沈黙が続いた。
「確か、今朝の天気予報では雨は降らないはずだったのに……」先に口を開いたのは洋之だった。「あいにく降り出しましたね、まさに、遣らずの雨、という感じで」
 軒先で、いつ止むともなく降り続ける雨空を見上げながら、呟くように言う洋之の横顔を、響子はハッとして見上げたものの、何だか見てはいけないものを見てしまったかのような気がして、さっと目を逸らすと、雨垂れが店先のアスファルトを叩くのを見つめた。
 少し生暖かい湿った空気と雨の匂いを胸の奥深くに吸い込みながら、しばらく足元の雨水を眺めていたけれど、雨が止む気配はなく、それどころか雨脚はさらに強まり、店先の雨どいから勢いよく水が流れ出してきていた。歩道にできた水溜まりは次第に大きくなり、時折強く吹く横風が二人の足元を濡らしていった。ふと顔を上げると、洋之が鞄から取り出したスマホを手にしているのに気づき、響子も腕時計をちらりと覗いた。義母の雪江が夕食の支度にそろそろキッチンに立つ時間だ。
「すみません……、僕がお茶に誘わなかったら、雨に降られることもなかったでしょうに……」
 と、洋之が軽く頭を下げながら謝るので、響子は小さく首を横に振った。すると急に、洋之は何か思い当たったような表情を顔に浮かべ、
「あ……、ひょっとして、お嬢さんのお迎えとか…?」
「いえ、今日は義父(ちち)が迎えに行ってくれていますから……」
 そう響子が言うものの、気が引けたのか洋之は若干慌てた様子で、
「ちょっとここで待っていて下さい、傘を買ってきますから」
 と、通りの向こうに見えるコンビニに向かって走り出した。
 しばらくして、通りの向こうから、横断歩道を渡って洋之が戻ってくるのが見えた。響子の待つ軒先まで息を弾ませ走ってやってくると、
「2本買おうかとも思ったんですけど……駅までそんなに遠くない距離なので、1本にしちゃいました……」と少し決まり悪そうに言いながら、響子の方に傘を差し向けた。何と答えたらいいかわからず、心の揺れを曖昧な笑みで隠しつつ響子が小さく頷くと、洋之は黙ったまま、手にしていた傘をほんの少しだけ上下させて、傘の中へ彼女を導いた。躊躇いつつも、洋之の隣に身を寄せると、二人は駅に向かって歩き始めた。
 響子がふと視線を上げると、傘の内側に晴天の澄んだ空のような鮮やかな天色(あまいろ)が広がり、中心から傘の縁へゆくにつれて、クリームソーダの泡が弾けて立ちのぼるように、淡いグラデーションを描いていた。束の間、夫以外の男性と肩を並べて一つ傘の下にいる気まずさも忘れて、響子は傘に見惚れていた。そんな響子の横顔を、洋之はそっと盗み見るよう見つめていた。
 駅に着くまでの間、時折すれ違う人たちの視線に、何となく罰の悪いような、気まずい空気が二人の間に流れたが、傘を弾く雨音と、道路脇を駆け抜けていく車が水たまりを弾いていく音しか聞こえない、穏やかな沈黙の心地良さを感じつつ歩いていった。途中、雨に濡れぬよう自分の方に傘が傾けられていることに気づき、傘の縁にそっと手をやり、少し斜めに傾いた傘を直す響子だったが、しばらくすると、再び響子の肩先を覆うように傘が傾いてきた……そんなさりげない洋之の気遣いに、響子は胸の内に何かこれまでと違う火がぽっと灯るのを感じていた。
 ようやく駅に着いてホームで電車を待っているうちに、雨は小降りになっていった。お互い同じ方向の電車であることがわかったものの、それ以上は特に口をきくこともなく、微妙な距離を保ったまま、無言で電車を待った。やがて、電車到着を知らせるアナウンスが聞こえてくると、洋之は傍らにいる響子に、
「これよかったら…、どうぞ持って帰って下さい」
 と手にしていた傘を差し出した。
「いえ、大丈夫です…もし降っていたら、タクシーで帰りますから…」
 と響子が遠慮してそう言うと、
「僕のところは、駅から雨に濡れずに帰れますから」
 と言って、洋之は少し強引に響子に傘を手渡すと、ホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。
 通勤時間帯にはまだ少し時間があるせいか、車内は空いていた。先に乗り込んだ洋之が空いていた座席中央に座るので、あえて立っているのも可笑しな気がして、響子は少し躊躇いつつも、洋之の隣に腰を下ろした。と同時に、見知った顔がないかと思わず車内の乗客を見渡した。植物園では、娘のママ友などの顔見知りに会うこともないだろうという気安さもあって、あまり意識することもなく、洋之と行動を共にしていた響子だったが、電車に乗った途端、急に周囲の目が気になり、思わず車内を見渡してしまったのだった。そんな響子の心の内を察したかのように、洋之は響子に話しかけることもなく、たまたま隣に座っただけの赤の他人というような感じで、黙ったまま窓外を見るとはなしに見つめていた。やがて電車が動き出し、しばらくすると、さっきまでの雨がうそのように上がり、窓の外に広がる街並みの向こうに、うっすらと虹が降り立っていた。洋之はそれに気づくと、俯き加減の響子に「ほら、あそこに虹が出てますよ」と小声で言うと、窓の外を指し示すよう視線を投げかけた。響子がはっとして窓の外を見やると、雲間から天の梯子のように差し込む光に照らされて、色とりどりの甍の波の上に淡い柔らかな虹が浮かんでいた。消えそうでいて、なかなか消えない虹にしばし見惚れていると、やがて洋之の降りる駅がアナウンスされ、「じゃ、僕はここで」と言う洋之の声に、響子ははっと我に返った。洋之の方を見るともなしに軽く会釈して、
「今日は有難うございました」
 と礼を言うと、洋之は一旦立ち上がりかけていた腰をすっと下ろし、前を向いたまま、呟くように言った。
「来週は、木曜日が休みなんです」
 何を言い出すのだろうと、怪訝そうに響子が顔を向けると、洋之は視線を床に落とし俯いたまま、
「もし宜しかったら、またあの植物園に来ていただけませんか?」
 と一息に言葉を継いだ。小さな声ではあったけれど、聞こえなかったふりをすることはできないほど、低くしっかりとした声だった。
 思いがけない洋之の言葉に、響子が驚いて言葉に詰まり答えられないでいると、洋之はふっと顔を上げ、窓の外に目をやりながら、
「無理だったらいいんです。とにかく、来週の木曜日、あそこで待っていますから」
 とだけ言うと、響子の返事を待たずに立ち上がって、慌ただしく電車から降りていってしまった。あまりにあっという間の出来事に、響子が小さく口を開けたまま唖然としていると、洋之はホームに立ち、ゆっくりと動き出した電車の窓越しに目が合うと、そっと一礼して響子を見送るのだった。
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