第8話 弟切草《オトギリソウ》〈響子〉

文字数 3,448文字

「パパ~、忘れ物だよ~」
 居間のテーブルに置いてあった夫の雅紀のハンカチを手に取ると、娘の葵がトコトコと玄関先へ走って行った。響子は台所で洗い物をしていた手を止めタオルで拭うと、夫を見送りに急いで娘の後を追った。
 玄関先の上がり(かまち)に腰を下ろして靴を履いていた雅紀は、振り向いて葵からハンカチを受け取って礼を言うと、
「今日は大きい傘を持っていくから、葵、出してもらえるかな?」
 と頼んだ。すると、葵は玄関横の棚を開けて、傘を選び取ると「はい、パパ」と立ち上がった雅紀に差し出した。——と、そこへ、台所から出てきた響子が玄関先に現れた。葵が手にした傘を見るとハッとして駆け寄り、
「パパの傘はこれじゃないわよ……」と言いながら、雅紀の傘を棚から取り出すと、葵の持っている傘と交換した。
「こっちの傘の方がクリームソーダみたいで綺麗なのに~」
 と、響子に返した傘を恨めしそうに見ながら、葵はぷくっとむくれて唇を尖らせると、仕方なく濃藍色の傘を雅紀に手渡した。
「行ってらっしゃ~い」
 葵が手を振りながら、よく通る声で元気よく送り出すと、雅紀も思わず微笑んで「行ってきます」と返し、響子に目を移して小さく頷くと出かけていった。
 雅紀を見送ると、響子は玄関の三和土に降り立ち、鍵をかけた。ふうっと大きく深呼吸をすると、ドアノブに手を置いたまま、動悸が鎮まるのを待った。少ししてから家の中の方へ振り向くと、既に葵は小走りで居間へ戻っていった後だった。玄関に一人残り、傘を仕舞おうと棚の前に立った響子だったが、手にした天色(あまいろ)の傘に目を落としたまま、しばらく動けずにいた。
 先程は、玄関先に出てきた途端、葵が夫にこの天色の傘を手渡しているのを見て、思わず心臓がドクンと音を立てて胸から飛び出しそうになってしまった。と同時に、首筋から耳にかけて電流が走ったようにカッと熱くなり、必死に平静を装った響子だったが、内心は夫が何か勘づいてしまったのではないかとドギマギするばかりだった。別に疚しいことをしたわけではない……。後ろめたいわけでもない……。別に、隠さなくてはならないようなことをしたわけでもない……。一緒にお茶をして、帰り道で雨が降ったから駅まで傘に入れてもらい、その傘をもらっただけ……、言葉にすれば、それだけのことかもしれない。でも、それだけではないものが胸の奥底にひっそりと横たわっているのを感じずにはいられなかった。けれど、それ以上覗きこんだら最後、ぽっかりと口を開けた暗い洞穴に吸いこまれてしまうような気がして、響子は手の中の傘をキュッと握り直すと、人目に触れないように棚の一番奥にそっと仕舞いこんだ。

 その後、いつものように葵を幼稚園に送り出して帰ってくると、響子は二階の部屋の片付けを始めた。ベランダに親子三人分の敷マットや夏掛け布団を干してから、掃除機をかけていると、ふと目を上げた拍子に、壁に貼ってあるカレンダーに目が留まった。すると妙に、ある日付の数字だけが際立って見え、まるで何かを訴えかけてくるようだった……。あの日以来、考えないようにしていたことだったけれど、今朝、あの天色(あまいろ)の傘を見てしまったら、やはり考えずにはいられなかった。
——来週は、木曜日が休みなんです。もし宜しかったら、またあの植物園に来ていただけませんか?
 先週、電車の中で彼から告げられた言葉が脳裏をよぎる。
——無理だったらいいんです。とにかく、来週の木曜日、あそこで待っていますから。
 彼の声が耳の中でこだまするようで、響子は頭を振りながら大きな溜め息をつくと、掃除機のスイッチを切ってカレンダーの前に立った。来週の木曜日は……明日だ。先週からずっと、頭の片隅にちらついてはいたけれど、あえて気づかないふりをして、やり過ごしてきた響子だった。でもさすがに、約束の日が目前に迫り、いつまでも放っておくわけにもいかなかった。唇を少し噛みつつ思案げな表情を顔に浮かべると、再び掃除機をかけ出した。
 電車から降りる間際に、こちらの返事も聞かずに言い置いて行ってしまうなんて……ちょっとズルいわ、とも思う。彼からは名刺をもらったけれど、自分は名乗ってもいないし、一度お茶をしただけ……このまま都合がつかなかったとして行かなくても、別に問題はないはず……。でも——と、そこで響子の心の振り子が反対方向へ揺れ出した。自分にもう一度逢いたいがために、これまでも植物園に何度も足を運んでいたらしいことを考えると、明日もきっと彼は自分が現れるまで待っているだろう……そう思うと、本当に用事があって行けないならともかく、行ける状況でありながら、あえて行かない選択をすることは、何だか自分が薄情な人間のようにも思われ、忍びない気がした。結論の出ないまま、心の中で行ったり来たり揺れ動く振り子を、響子は持て余していた。
 やがて掃除機をかけ終わると、今度は、部屋のあちらこちらに置かれていた新聞や雑誌などを片付けていった。ソファ前に跪いてテーブルの上でトントントンと四隅を揃えるようにして束ねていると、ぽとりと床に落ちるものがあった。何気なく拾い上げると、植物園のパンフレットだった……響子はふっと力が抜けたようになり、ぺたりと床に座り込んだ。膝の上でパンフレットを広げると、色鮮やかな熱帯の花々や青々と生い茂る木々の写真の中に、彼に初めて声をかけられた水辺の写真や、喫茶店や遊歩道の案内が目に留まり、彼と過ごした時間と情景が不意に目の前に甦る。響子は顔を上げると、どこか遠くを見つめるように少し目を細めた。

 初めは、突然声をかけられて警戒してしまったけれど、誘われるままに向かった喫茶店で彼と話す午後のひとときは、思いがけず楽しいものだった。初対面ではあるけれど、彼が、どこか懐かしいような、ホッとするものを感じさせる人だったからかもしれない。少し身を乗り出すようにテーブルに肘をついて胸の前で手を重ねながら話をする姿は、夫の雅紀には無い雰囲気を纏っていて、新鮮に感じたからかもしれない。その後、公園の遊歩道を歩いたときには、少し気まずい思いもしたけれど、途中、突然の雨に見舞われ、雨宿りをしたり、ひとつ傘の下で歩いたりしたときも、凪いだ湖面に浮かんだ木の葉が揺蕩(たゆた)うような、不思議と心地よい穏やかさに包まれ、気持ちが満ち足りて潤ってゆくのを感じた。毎日、どこかせかせかと急き立てられるように日常を繰り返し積み重ねていく中にあって、彼と過ごす時間は、妻でもなく、母でもなく、嫁でもない、ただの一人の女性としていられた時間であり、それは響子がかつて経験したことのない不思議な時間であった。
 そんなことを考えながら、膝の上に再び目を落とすと、パンフレットの片隅に「弟切草」と書かれた小さく可憐な黄色い花が目に入った。オトギリソウ……漢字で書くと、可憐な見た目とは異なり何だか怖い花のようだけれど、平安時代の鷹匠兄弟の話が花の名前の由来になっているそうだ。山野の中でひっそりと黄色い花を日中だけ咲かせ一日で終わる、一日花と書いてある。
——一日で終わる、一日花か……。
 顏を上げると響子はぼんやりと窓の外を見やった。ベランダの物干し竿の向こうに、薄墨色の雲間から顔を出した太陽が、雲を脇に押しやるようにして束の間、青空をのぞかせている。窓際にぶら下げた真鍮の風鈴が、微かな風に揺られて、チリン、チリン……と透き通るような涼しげな音を立てていた。響子は目を閉じると、風鈴の音色に耳を澄ませ、頬を撫でてゆく風が運んでくる夏の匂いに包まれながら、大きく深呼吸をした。あと一日……もう一回だけ会うくらいなら、いいかしら……。このまま、有耶無耶にして終わらせてしまうより、明日きちんと彼に会って、こちらの想いを直接伝えて断った方が、自分にとってもスッキリ後味がいいように思えた。
 そう結論が出て、心の中で揺れ動いていた振り子をようやく止めることができると、響子はそれまでの迷いを吐き出すように肩で大きく息をついた。そうして、束ねていた新聞紙に植物園のパンフレットを重ねて立ち上がると、一階の居間に下りていき、かごの中へ入れ込んだ。
 ——とその時、電話が鳴り、響子は慌てて立ち上がった。いつもなら、束ねた新聞紙をきっちりとかごの中に仕舞うはずが、電話に出るために少し慌てていたせいか、響子が立ち去ったあと、かごの中から植物園のパンフレットがひょっこりと顔をのぞかせていた。
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