第21話 遠雷〈響子〉

文字数 4,754文字

『もう少し残業して帰るから、悪いけど食べてから帰るよ、ごめん』
 そう夫の雅紀から電話があったのは、七時を少し回ってからだった。せっかく久しぶりに新作料理に挑戦した日だっただけに、出来立てを食べてもらえず、ちょっと残念だったけれど、夕食後、娘の葵を寝かしつけ、やがて義父母も寝室に引き上げてから、リビングで一人静かに過ごす時間は響子にとって密かなお気に入りのひとときだった。この機会を逃したら、また後回しになってしまうわ……と寝室から溜まっていた夫のワイシャツを持ってくると、響子はリビングのテーブルでアイロンを掛け始めた。
 小一時間ほど、無心になって一枚一枚丁寧にアイロンを掛けていくうちに、身体がじんわりと熱くなり、響子は外の風に当たろうと、庭に面した窓際に立った。窓を大きく開け放つと、途端に秋の気配を感じる心地よい夜風が、虫の音とともに部屋の中に流れ込んでくる。雲の波間に浮かんでは消える満月の美しい、青い静かな夜だった。響子はリビングの灯りを落として、再び窓際に立った。澄んだ白い月の光に皓々と照らし出された庭を眺めていると、ふっと時が止まったような静寂さに包まれる。ただただ静謐に満たされているうちに、月よりも静かな心になっていくようだった。——と、外の門扉がカシャンと開ける音を立てた。夫が帰ってきたようだ……響子はくるりと部屋の中に向き直ると、リビングを出て玄関先へ向かって行った。

「今日、佐山さんの奥さんと会ってきたよ」
 帰ってきた雅紀が、寝室でネクタイを緩めながら口にした言葉に、夫の脱いだ背広をハンガーにかけていた響子の手がピタリと止まった。
「えっ……?」
 驚きのあまり二の句が告げずにいる響子から目を離さずに、雅紀は言葉を継いだ。
「この前、佐山さんと会ったあの店に、奥さんもいたんだって」
「……どういうこと?」
 響子はただただ当惑するばかりで、手にした雅紀の背広をきゅっと握りしめたまま、夫の顔を見上げた。
「奥さん、佐山さんが撮った写真の中に、響子を映した写真があるのを見つけて、不審に思って、この前、佐山さんのあとをつけたんだって」
 さっと響子の顔色が変わった。
「佐山さんはそのことを——?」
「——まだ、知らないって」
 そう言うと、雅紀は腕時計にちらりと目を走らせた。
「もっとも、今頃は、もう佐山さんに話してるだろうけど……」
 響子も壁の時計を見上げた。
「僕が、響子と佐山さんみたいな関係があってもいいじゃないかとも思っているって言ったら、奥さんに『男と女の関係が無いなら、それでいいんでしょうか?』って切り返されちゃってさ」
 そして彼女は、続けてこう言ったのだ——実際に関係を持つことと、心の中で自分の夫や妻以外の異性を思い描くことは、たいして変わらない裏切りだ、と。でも、さすがにその言葉をそのまま響子に伝えることはできず、雅紀は口を噤んだ。そんな夫を見て、響子は躊躇いがちに促した。
「——それで、奥さんは、何て……?」
 雅紀は大きく息をつくと、美和子に言われた内容を思い出しながら続けた。
「『私は主人以外の男性を必要だとは思わないし、主人にとっても、私が唯一必要な女性であってほしい』って。だから、いくら考えたところで、そんな関係は認められないって」
 響子は床に目を落とすと、唇をきゅっと噛んでから、再び雅紀を見上げた。
「そうね……奥さんの立場からしたら当然よね……」
 そう言って、ちょっと逡巡するように口を噤いでから、静かに言った。
「私、やっぱり、もう佐山さんに会うの、やめるわ。人を傷つけてまで会う必要はないもの。雅紀さんにだって、今まで嫌な思いをさせてきたのよね……ごめんなさい」
「いや……」雅紀は一瞬口ごもると、響子の目を覗き込むようにして訊いた。「でも、ほんとにいいのか、それで……?」
 響子は夫の目を真っ直ぐに見つめると、余計なものを振り切るかのようにコクリと大きく頷いた。

 風呂に入るため雅紀が階下へ降りて行った後、寝室に一人残った響子は、張り詰めていた糸が急に緩んだように、ストンと力なくベッドの端に腰を下ろした。雅紀から佐山の妻に会ってきたことを告げられたときの驚きと動揺が収まってくると、響子は心のどこかでホッとしている自分を感じていた。別に疚しいことをしているわけではない……、隠さなければならないことをしているわけでもない……、ただ、会って話しているだけ……。そうは思っていても、その相手が男性で、しかも互いに既婚者であるということが、影のように自分に付いて回り、佐山と逢うようになって以来、今までにない時間を過ごす楽しみが増えた一方で、いつも心の中にしこりのようなものがあった。夫に、家族に言えない秘密を持っているという後ろめたさと、いつかその秘密が露わになるような怖れを胸の内でずっと抱えてきた気がする。神様はやっぱり見ているんだなぁ……と改めて思う響子だった。義父母に始まり、夫にも知れ、こうして佐山の妻までもが知るところなり、それが最後のダメ出しのようになって、佐山との付き合いを続けることは、やはりいけないことだと天から言われている気がするのだった。
 佐山と出逢い、話す機会が増えるにつれ、響子はいつのまにか、佐山と過ごす時間を心からリラックスして楽しむようになっている自分を認めないわけにはいかなかった。観た映画や聴いた音楽、読んだ本が同じという共通の話題で盛り上がることももちろんあったが、何でもないことを話しているだけでも、相手が次に何を言うのか、心待ちにするかのような昂揚感があった。同じ波長の音叉が共振するように、佐山といると、響子は自分が夫といる時とはちょっと違った、別の波長の音色を響かせているように思えた。心の奥底でそっと鍵を開けてくれるのを待っていた柔らかな部分が目を覚ましたような思いだった。それゆえに、これまで佐山と会うことを断る機会はあったのに、あともう少しだけ彼と逢って話してみたい……という思いを抑えることが出来ずに、ここまで来てしまった。何度となく、今日こそは、と佐山に断るつもりで出かけたはずなのに、彼と話しているうちに、そんな決意もいつの間にか鳴りを潜めてしまい、結局は、次回また逢うことになってしまっていた。そうやって、見ないように気づかぬように、意識の襞の奥深くに沈めてあったものが、佐山の妻の出現で日の当たるところに否応なしに引っ張り出されてきたようで、自分の中に潜んでいた狡さを響子は省みずにはいられなかった。雅紀から聞いた美和子の話は、妻の立場からすれば、至極当然の言い分であり、反論の余地はなかった。自分だって、夫の雅紀にそうした女性がいたら、やはり心穏やかではいられないだろうし、きっと嫉妬だってすると思う。同じ状況であっても、する側とされる側とで、自分の中にある物差しを都合よく変えてしまう認識の甘さを、佐山の妻に鋭く突き付けられているような気がした。
——やはり、佐山との付き合いをこのまま続けることはできない。
 響子は大きく息をついて立ち上がると、鏡台の前に置いてあったスマホを取りに行った。佐山の番号を探して発信ボタンを押しながら、再びベッドの端に腰を下ろしたものの、ふとサイドテーブルに時計に目が留まると、慌てて電話を切った。夫の話では、佐山の妻も今頃、帰宅しているはずだというのに、こんなときに電話をしたら、かえって佐山に迷惑がかかってしまう……佐山のことを考えずに、思わず電話をしてしまった自分の軽率さに、響子は唇をきゅっと噛んだ。どうか、今の電話に佐山が気づかずにいてくれるようにと祈りつつ、響子はしばしスマホの画面を息を詰めて見つめた。——が、少しして、佐山からの着信画面が浮かび上がり、響子はハッと息を呑んで、おそるおそる電話に出た。
「はい、森村です……」
『佐山です、先ほどお電話を頂いたようで……』
 電話の向こう側から、少し安堵したかのような息遣いとともに佐山の声が聴こえてくる。
「夜分遅くにすみません。今、お電話、大丈夫ですか……?」
『えぇ、僕もちょうど電話しようと思っていたところです。今日は妻がご主人にお会いして、
何だか失礼なことを申し上げたようで……』
「いえ……。それより奥様は大丈夫ですか?」
『えぇ……』佐山は何と答えてよいか判らず、言葉を濁した。
 電話口から伝わってくる佐山の様子に、おそらく今しがた妻との間で交わされたであろう会話や光景が思い浮かび、響子は自分の認識の甘さゆえに引き起こした事の重大さを改めて思い知り、唇をきつく噛んだ。やがて、肩で大きく息をつき、すっと背筋を伸ばして居ずまいを正すと、改まった声でキッパリと佐山に告げた。
「あの、佐山さん——、私たちやっぱり、もう会わないほうがいいと思うんです」
『————』
 電話の向こうで、佐山はハッと息を呑んだ。予測していた言葉だとはいえ、やはりショックで、返す言葉が咄嗟に出て来なかった。こんなにも早く呆気なく終わりを迎える日が来ようとは思いもせず、佐山はただ黙り込むしかなかった。
 響子はふぅ……とひとつ息をついて言葉を継いだ。
「奥様を傷つけてまで、会うことはできないですし……それに、うちの主人も」
『————』
 しばらく待っても、電話口から佐山の声が何も聴こえず、響子は不安になって言った。
「もしもし……?」
 佐山は軽く咳払いをしてから、やっとの思いで重い口を開いた。
『——残念だけど、こればっかりは仕方ないですね。……どうか、ご主人に宜しくお伝えください。それから——』
 一瞬、声が途切れたかと思うと、佐山は大きく息をついてから静かに告げた。
『今まで、どうも有難うございました』
 響子は思わず、きゅっとスマホを握りしめた。
「いえ、こちらこそ、短い御縁でしたけれど、楽しい時間を過ごさせてもらい、本当に有難うございました。奥様にも宜しく——」
 と言いかけて、響子はハッと口を噤んだ——自分は、そんなことを言える立場ではないと思い直した。
「——今更、弁解の仕様もないことですし、奥様に直接お詫びすることもかないませんが、でも……、奥様にはお辛い思いをさせてしまって、本当に申し訳なく思っています」
 言うべき言葉が見つからず佐山が黙っていると、響子はわずかに小さくなった声で別れを告げた。
「じゃ、お元気で……」
『——響子さんも、』お元気で……と言おうにも、最後は言葉にならない佐山だった。
 少ししてから響子はスマホを耳から離し、膝の上に置いてみると、まだ「通話中」の文字が表示されていた。佐山が先に切ってくれるのを待ってみたものの、「通話中」の文字はなかなか消えない。電話越しに見えない沈黙の糸がまだ繋がっているのを感じながら、響子はしばし息をつめてスマホの画面を見つめていたが、やがて自分からそっと電話を切った。

 肩の荷が下りたように深い溜め息をついて顔を上げると、目の端にピカッと走る閃光が過り、響子はぼんやりと窓の外を見やった。と、遠くで雷の落ちる音が、雨雲の垂れこめた暗い夜空に響き渡った。いつのまにか降り出した雨が、ベランダの手すりをぼつぼつと濡らしてゆく音と共に、開け放った窓から湿り気を帯びた雨の匂いがさぁっと部屋の中に流れ込んでくる。響子はその雨の匂いを胸の奥まで吸い込むと、再び膝の上のスマホに目を落とした。遠くで鳴っている雷の音に静かに耳を澄ましながら、響子はふと身体の中を風が吹き抜けてゆくような淋しさを感じた。——これでもう二度と、佐山さんに逢うことはないのだ……佐山と過ごした短い夏が去ってゆく寂しさを胸に、スマホに佐山の番号を表示させると、一瞬ためらった後、削除ボタンを押した。
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