エピローグ

文字数 2,720文字

 その晩、雅紀は涼介とお銚子を二本ずつ空けて、ほろ酔い気分を少し通り過ぎたところで店を出て家路についた。
 玄関のチャイムが鳴り、響子がドアを開けて出迎えると、足元の覚束ない義父の涼介を雅紀が抱えるようにして支えて立っていた。
「ただいま……」
 少しトロンとした眼の雅紀がそう言いながら玄関から中に入ると、千鳥足だった涼介が急にしゃきんと背筋を伸ばし、大真面目な顔で敬礼のポーズをしたかと思うと、少しおどけた口調で、
「響子さん、ただ今、帰りました!……遅くなり、すみません!」
 と言いながら、頭を下げた。——と、そのまま前のめりに倒れかけ、響子は「お帰りなさい」と言いながら、慌てて涼介の右腕に手を伸ばした。背の高い偉丈夫な涼介を、雅紀と一緒に両脇から抱えて、ふらふらとよろけながら上がり框に座らせると、涼介は何度も謝りながら一回り小さくなったかのようにシュンとして自分で靴を脱ぎだした。
 その横で雅紀も腰を下ろして靴を脱ぎながら顔を上げて響子に訊いた。
「母さんは……?」
「さっき帰ってきて、今、お風呂」
「よかった……父さん、結構呑んだから、母さんに見つかったら、またお小言こぼされるとこだよ……母さんが風呂から出てくる前に早くベッドに寝かせちゃおう……」
 すると、靴を脱ぎ終わった涼介が急に顔を上げ、
「たいして呑んでいないぞ……いつもより、ほんのちょっと多いだけ」
 と、響子に向かって手振りで示しながら目を細めた。いつもはそんな冗談を言うことのない義父だけに、茶目っ気あるその仕草に響子が思わずクスっと笑っていると、雅紀は目配せをしてやれやれ、という仕草で首を振りながら立ち上がり、涼介の腕を取って立たせた。
「酔っていませんよ~酔ってなど~」
 と鼻唄まじりに言いながら上機嫌の涼介を、雅紀は響子と再び両脇から抱えるようにして玄関に上げると、寝室まで運んだ。

 涼介を何とか寝かしつけて二階の寝室に上がってくると、雅紀はサイドテーブルの灯りをつけて、ネクタイを緩めながらベッドの端に腰を下ろした。少し遅れて、水の入ったグラスを持って響子が入ってきた。
 手渡されたグラスに口をつけて、上を向いて一気に飲み干すと、雅紀はふぅっと息をついた。 
「悪かったな……酔った親父を寝かしつけるの手伝ってもらって」
 ううん……と響子は小さく首を振った。
「久しぶりじゃない?……息子と二人きりで飲むの。何だか、お義父さん、凄く嬉しそうだったもの。何かいいことでもあったの……?」
「……いや、別にないよ」
 酒を呑みながら涼介と交わした会話を思い出し、雅紀はふっと苦笑いを浮かべた。
 空になったグラスを受け取ろうと響子が手を伸ばすと、雅紀は彼女の手をさっと掴んだ。不意に手を握られ、え?と驚く響子をそのまま軽く引っ張るようにして少し強引に隣にストンと座らせる。
「……どうしたの?」
 俯いて黙ったままの雅紀の横顔を覗き込むようにして、響子は再び声を掛けた。雅紀の顔色が少し悪かった。
「雅紀さん……?」
 響子の声が耳に入らないかのように、雅紀は俯き加減のまま、微動だにしなかった。響子は雅紀をひたと見つめ、夫が口を開くのを待った。
 すると、やや置いて、雅紀は下を向いたままポツリと洩らした。
「揺れてもいいけど……」
「え……?」
 怪訝そうに瞠った響子の目が、間近から雅紀を見上げていた。
 雅紀は横目で響子の顔をちらりと見ると、また目を落とし、低い声で続けた。
「あいつと俺との間で、揺れてもいいけど……」
 響子は一瞬ピクッとして、慌てて口を開いた。
「私は別に佐山さんとはそんなつもりじゃ——」
「わかってる、わかってるよ——響子がそんな女じゃないってことは」
 安心させるように一旦響子に目を遣り頷くと、ふっと前を向いて溜め息混じりに言った。
「——でも、あいつは君に本気だ……友だちなんかじゃない……君を一人の女性として見ているんだからね」
 そこで少し言い淀んでから、付け加えた。
「……もっとも、君に手出しするようなことはないだろうけど」
 酔いの回った頭の中で、この前、佐山に釘を刺した時の会話が脳裏に浮かび、雅紀は唇を少し歪めて自嘲めいた笑みを洩らした。目の端で、響子が膝の上で重ねた手をきゅっと握ったのが見える。
 雅紀は再びちらりと響子を見てから、俯いて躊躇いがちに続けた。
「僕が不安なのは……君の心さ。人の心は、努力でどうこうできるものでもないし、誰にも縛ることもできないからね……」
 ドキッとするほど淋しい表情だった。響子は黙ったまま、夫の横顔を見守った。
 少し間を置いて、雅紀は一言ずつ、喉から押し出すように呟いた。
「響子、……揺れてもいい。……揺れるな、とは、俺は言わない。でも……」
 雅紀は言いさして口を噤んだ。響子は息を詰めて、夫の次の言葉を待った。
 雅紀は息を小さく吸い込んで言葉を継いだ。
「——でも、どんなに揺れても、最後は必ず……俺のところに戻ってきてほしい。……それだけは約束してくれ」
 そう言うと、雅紀は俯いたまま肩で大きく息をついた。響子は、夫のこういう声を初めて聞いたように思われた。必死の声だった。それまで一度として聞いたこともないほど低くて、ひどく掠れた声に、響子は思わず雅紀の手に自分の手をそっと重ねると、上から柔らかく包み込むように握った。
「大丈夫よ……そんなこと心配しないで」と言いながら、響子は大きくコクリと頷きながら、夫の横顔を見上げた。「——私はあなたの妻なんだから」
 響子が真剣な目で、訴えるように、祈るように、雅紀を見つめている。
「……ありがとう」
 照れ臭いのと情けないのが一緒くたになって、掠れた声で小さくそう言うと、雅紀は手をくるりと裏返して、響子の手を握り返した。
「なんか今日は女々しいな、俺……」
 弱々しく微笑して雅紀がそう言うと、響子は小さく首を横に振りながら、黙って夫の横顔を優しく見つめた。それからスッと目を閉じて俯くと、頭を雅紀の肩にコトンと寄せた。
 肩にもたれかかる妻の重みを感じながら、雅紀はふと、涼介が言っていた将棋崩しの話を思い出していた。雑然と積み重なった将棋の駒の山……それぞれがお互いに寄りかかり支え合って危うい均衡を保っているけれど、駒ひとつ抜けただけで、途端にザザザッと崩れることもある……自分たち夫婦と佐山の三人は、果たしてこれから先、このまま駒の山を崩さずに、やっていけるのだろうか……。もし万が一崩れたとして、そのとき響子の隣にいるのは自分なのだろうか……それとも、佐山なのだろうか……。膝の上に置いたままの手を、響子の肩に回そうかどうか迷いながら、雅紀は酔いの回った頭でぼんやりと考えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み