第18話 七つ下がりの雨〈美和子〉

文字数 8,816文字

 美和子はうっすら開けた霞んだ目で、ベッドサイドの目覚まし時計を見たかと思うと、次の瞬間ガバッと飛び起きた。
——ヤダっ!寝坊しちゃった……遅刻だわ!
 と、慌てて夏掛け布団を跳ねのけ、床に足をおろしたところで、ハタと気づいた——私、今日は休みだったんだわ……。美和子は再びゴロンとベッドに横になった。昨日は、出張先から夜遅くに帰ってきて、今日は休みを取っていたのだった。仰向けになって再び目を閉じると、窓からのそよ風が頬を優しく撫でていった。クーラー嫌いの美和子のため、先に起きた夫の洋之が、ベランダに向いた窓とリビングへ続くドアを少し開けてくれたようで、早朝の清々しく心地よい風が寝室を通り抜けてゆく。ドアの隙間からは、キッチンで洋之が朝食を作っている物音が微かに聴こえてくる。目玉焼きでも作っているのだろうか……ベーコンを焼いたような香ばしい香りが寝室にも仄かに漂ってきた。どうということもない、些細な日常のひとコマだけど、幸せだな……と心からふっと思えるお気に入りの瞬間だ。ベッドの上で大の字に手足を伸ばしながら、満ち足りた思いで美和子は大きく深呼吸をした。そのまま目を瞑ってしばらく耳を澄ませていると、今度は洋之の口笛が聴こえてきた。——確か、昔の洋画で流れていた曲よね……。それにしても、ヒロが朝から口笛だなんて珍しいわね……。何だか気になって起き上がり、ベッドから静かに降り立つと、美和子はドアからひょっこり顔を出し、キッチンに立つ洋之の様子をうかがった。

「うわっ!?ビックリした……」
 冷蔵庫を閉めて振り向きざま、リビングから怪訝そうな表情を浮かべて、こちらをじっと見つめている美和子の目とぶつかり、洋之は驚いて思わず素っ頓狂な声を上げた。
「起きてきたんだったら、早く声をかけてくれよ……」
 そうこぼしながら、冷蔵庫から取り出したバターをパンに塗った。
「だって、何だか気持ちよさそうに口笛なんか吹いてるから、邪魔しちゃ悪いかな、と思って」
 美和子がふわふわぁと欠伸をしながらそう言うと、洋之は何だか気恥ずかしそうに下を向いて呟いた。「なんだ、聴こえてたのか……」
「珍しいわよね、ヒロが朝から口笛吹いてるなんて。なんか、いいことでもあったの?」
「いや、別にないよ……」
 そう言いながら、洋之は塗り終えたバターを冷蔵庫に仕舞うと、
「もう起きるなら、珈琲淹れるけど、一緒に飲む?」
 と、美和子に訊いた。
「ありがとう、でも、まだいいわ……もう少し寝るから」
 眠たげに目をこすりながらキッチンへ入ってくると、美和子はマグカップにポットからお湯を注いだ。冷え性のため、寝る前と朝起きた後には、夏でも白湯を飲むことにしている。珈琲を淹れている洋之の隣に立つと、マグカップを両手で包むようにして白湯を啜りながら美和子は訊いた。
「あの曲、何ていう曲だったっけ?さっきから、名前が思い出せないのよ」
「えっ……?」
 きょとんとした顔で洋之が、美和子を見た。
「ほら、ヒロがさっき口笛で吹いていた曲よ」
 そう言うと、美和子は鼻唄でメロディを口ずさみ始めた。
「あぁ、それか……」何だったかな……としばし考えるような表情を浮かべながら、洋之は珈琲を淹れる手元に集中した。
「昔の洋画に流れていた曲よね……ほら、あの有名な映画……、あぁ~名前が出てこないっ……」
 じれったそうに言いながら、美和子は白湯を口に含んだ。
 洋之は淹れ終わった珈琲カップとパンのお皿をもって、ダイニングテーブルに向かった。
 と、美和子が突然思い出して言った。
「そうだ、カサブランカだわ~。ね、そうでしょ、ヒロ?」
 洋之は、椅子に腰を下ろすと、
「あぁ、そうだったね……」
 と、どこか上の空のような表情で気のない返事をしながら、珈琲カップに口をつけた。
「ほら、確か、イングリッド・バーグマンが、頼むのよね、『あの曲を弾いて』って」
 美和子は、ひとり満足したように白湯を飲み干すと、
「じゃ、もうひと眠りするわ。気を付けて行ってらっしゃい」
 と、洋之に声をかけて、先ほどの曲を小さくハミングしながら、寝室へ消えて行った。洋之はホッとしたような表情を浮かべ、ふうっと息を吐くと、おもむろにパンを齧った。  

 洋之が出かけた後、ひと眠りした美和子が目を覚ましたのは、既に日がもうすっかり高く昇った昼過ぎだった。カーテン越しに夏の強い日射しが部屋の中を明るく照らし、ムシムシとした空気が漂っている。少し汗ばんだTシャツを胸元でつまんでパタパタと扇ぎながらベッドから起き上がると、カーテンを引き開け、窓を開け放った。途端に、暑いけれどカラリと乾いた風がリビングに向かって通り抜ける。美和子は両腕を上げて大きく伸びをしながら、その風を全身で受け止めて深呼吸をした。
 遅い朝食を済ませると、美和子はベランダの草花や部屋の中の観葉植物に水やりをして、部屋の掃除をし始めた。溜まった新聞や雑誌などを束ねて結んだ紐を切ろうとして、ハサミを探すも、いつも仕舞ってあるはずのリビングの抽斗の中に見当たらず、美和子は洋之の部屋に入って行った。子供のいない夫婦なので、寝室以外に、お互いそれぞれ部屋を持っていて、洋之の部屋は書斎と趣味の写真を現像する暗室を兼ねて北側に位置していた。普段、掃除のときくらいしか入らない部屋だが、几帳面でキレイ好きな洋之の性格ゆえ、いつ入ってもきちんと整理されている。ベランダに向いた窓を開けると、北側のせいか少しヒンヤリとした心地よい風が流れ込んできた。机に歩み寄り、ペン立てにささったハサミを見つけると、ふと傍らに置かれた一冊のファイルに目が留まり、美和子は何気なく手に取ってパラパラとページをめくっていった。
 今年の冬、一緒に旅行した長野で撮った真っ白な雪原の写真や、休みの日にどこか散歩途中で撮ったのであろう、日常のひとコマのような何気ない写真に続いて、色鮮やかな熱帯植物たちの写真が綴られていた。——ヒロ、最近は植物園にでも通っているのかしら……?やけに熱帯植物の写真が多いわね……と思ったものの、それ以上の興味はたいして湧かず、ひと通り見終わってファイルを閉じようとした時だった。裏表紙の扉ポケットに挟まれていた絵画展のチケットが、美和子の目に入った。
——植物園の次は、絵画展なのかしら……?
 それとも、私と行くつもりかしら?まだ誘われてないけど……。ふっと美和子は、チケットから視線を逸らして、考える目になった。ポケットから引き出してみるも、チケットは一枚しかない。開催期間を見ると、まだ始まったばかりだ。——ということは、やはり一人で行くつもりなのかしら……? そんなことを考えながら、チケットを元の場所に戻し、ファイルを閉じて机の上に置こうとした、そのとき——。何やら一枚の紙がファイルからすうっとすり抜けるように床に落ちていった。
 あら……と何の気なしにしゃがみこんで拾い上げた美和子の手が、指先から凍り付いたように固まり、さっと顔色が変わった。手の中にあったのは——見知らぬ女性の横顔を捉えたセピア色の写真だった。途端に、嫌な予感が全身をさぁっと駆け巡り、身体から血の気が失せていくようだった。足からすうっと力が抜け、美和子は糸の切れた操り人形のように床にぺたりと座り込んでしまった。微かに震える手で、再びファイルを開き、中の写真をもう一度隈なく調べてみるも、女性を映した写真はどこにも無かった。美和子はおもむろにファイルを床の上に置くと、再びセピア色の写真を手に取った。同性の目から見ても、ちょっと嫉妬してしまうほど形のいい綺麗な横顔だった。そうして、しばらくその女性を見つめているうちに、ふっと、美和子の頭のどこか片隅を、ある記憶が掠め通った。
——あの雨の日、マンション前で軽く飛び跳ねるようにしていた洋之の後ろ姿と、この写真の女性とは、もしかして何か関係があるのではないだろうか……?
 あの日の夫の後ろ姿は、どういうわけか、美和子の脳裏にくっきりと焼き付いていた。度々思い出すわけではないけれど、喉に刺さった小骨みたいに、美和子の頭の中にずっと引っかかっていて、その後も消えることはなかった。それが今また、不意に水面下から浮かび上がってきたようだった。
 洋之が休みのたびに、どこかに出かけてる理由。ついでに外で食事をしようと誘っても、なぜか断ってくる理由。そして、どういうわけか、あえて自分と休みが重ならないようにしているとさえ思える、その理由……。洋之の秘密のすぐ傍まで来ているけど、あと一歩、何かが足りない。手の中の写真を見つめながら、美和子はあの雨の日を思い出していた。傘もささずに雨に濡れて歩いていた夫の後ろ姿に……あの軽く飛び跳ねたようなステップ、風邪を引いた自分を甲斐甲斐しく世話してくれる夫の姿……、そして、そんな夫とソファで交わした会話……、ゆっくりと記憶を辿っていくうちに、はたと気づいて、美和子の目がハッときらめいた……。あの軽く飛び跳ねるようなステップは、ジーン・ケリーの真似なんかじゃなくて、昔見た記憶のある、あのウイスキーのCMみたいだわ……。ふと、あのCMのキャッチコピーが思い浮かんだ。
——夫の恋は、遠い日の花火ではなかった……ということか。
 そう考えると、美和子の中で浮かんでいた疑問の辻褄が色々と合ってくるような気がした。たぶん、いや、間違いなく、と美和子は思った。洋之は、この写真の中の女性に恋している。それも、ちょっとしたよそ見や浮気みたいな浮ついた軽々しいものではない……もっと根の深い、心の奥深くに根ざしたようなものを感じる。洋之がこの写真の女性と会っている現場を見たわけでもなく、証拠と言えるようなものは、この写真以外、何ひとつ無い——。それでも、美和子には、自分のこの直感は、動かしがたいもののように思われた。たかが一枚の写真でそこまで決めつけるのもどうかとも思うけれども、その女性の横顔をレンズ越しに捉えた夫の心、その横顔をセピア色の写真の中に閉じ込めた夫の心の有り様が、美和子には手に取るようにわかるような気がした。わかりすぎて苦しいほどだった。そして、そう気づいた途端、美和子の胸の奥の深いところがギュッと締め付けられるように痛んだ。
 学生時代から含めて二十年近くも一緒に過ごしてきたこともあり、洋之とは、夫婦というより友達の延長みたいな関係だった。無口ではないけれど、おしゃべりでもなく、冗談は通じるし正直だし、何より料理をはじめ家事全般の才能があるのも有難かった。ちょっと、いや、かなりズボラなところのある美和子に対して、几帳面で綺麗好きな洋之だったが、相手にそれを求めることはなく、気が付いた時には自分から率先して掃除もしてくれた。女だから、妻だから、といって肩肘張って気負うこともなかったし、自分でも不思議なくらい洋之といると寛ぐことができた。それでも同性の女友達とはやっぱりどこか違っていて……、そばにいてほしいときに家に帰れば、そこにちゃんといてくれるというのは心強かったし、必要なときには言葉を交わさなくても暖かい毛布のように包み込んでくれる夫の存在は、美和子にとって、船の帰る港のような心の拠り所であったし、そうした安心感は女友達から得られるものではなかった。確かに、情熱的な恋愛にありがちな、胸を焦がすような思いはしなかったけれど、一緒に過ごす時を重ねていくうちに、ゆっくりと静かに互いを求め合う気持ちが醸成されていき、気が付けば、一緒にいるのがごく自然な関係になっていた。また、洋之は器用で、色んな人間と広く付き合うかわりに誰とでも同じだけ距離をおこうとするタイプだったが、美和子自身も同じタイプの人間だったたけに、必要以上に踏み込んでこない、洋之のそうした人との距離感も、美和子にとっては心地良かった。
 とはいえ、こうした付かず離れずのサバサバとした夫婦関係に、美和子は時折、洋之は女にはあまり興味がないのかしら……と思うこともあった。——が、何てことはない……そうした情熱を向けられるだけの女性に、洋之がこれまで出会っていなかった、というだけのことだったのだ……。そして哀しいけれど、自分はそうした情熱を向けられる女ではなかった、ということだったのだ……。
——なぁ~んだ、そういうことだったのか……。
 と、思わず天を仰ぐように、美和子は顔を上げた。どこか他人事のように冷めた目でそう思うと、裏切られたというよりも、長年の謎が解けたようで、何だか急におかしくなってきて、美和子はふふっ……ふふふっ……と小さく声に出して笑い出した。でも、その笑みは、どこか物悲しく、瞳にはうっすらと透き通った膜が張りつめていた。二十年近くも一緒に過ごしてきたけれど、自分は一体、夫の何を見てきたのだろうか……。お互い必要以上踏み込まない関係が心地良かったのは確かだけれど、それは裏を返せば、それだけお互い腹の底は見せない、わからないことにもなる……。
 不意に開け放った窓から、湿り気を帯びた風と共に、雨の匂いがさぁっと流れ込んできて、美和子は思わず窓の外に目をやった。いつの間にか雨がしとしと降り出していた。ベランダで真夏の間ひと休みして、秋に向けてだんだんと色づき始めたダリアの蕾が、雨に静かに包まれ佇んでいた。小さな雨だれの音が部屋の中にまで静かに響き、何も物音がしない時よりも、かえって静かに感じられる。雨だれの音にじっと耳を澄ませているうちに、美和子は言いようのない、身に沁みる寂しさが四方からひたひたとさざ波のように押し寄せてくるのを感じて、指先からぽとりとセピア色の写真を床に落とすと、膝を立て自分の身体を抱くように腕を回した。そのまま、頭が突然麻痺したように、何を考えることも、何を思うことも止まってしまった。

 どのくらい時間が経ったのだろうか……。ふと気が付くと、部屋の中にはいつの間にか薄闇が忍び寄りはじめていた。夕闇で薄暗くなった部屋の中で目を凝らすと、時計は午後四時を回っていた。だが、美和子は立って電気をつける気力もなく、床に座り込んだままだった。雨だれの音に耳を澄ませながら、じっと息を潜めて身動き一つせず、乾いた目でぼんやりと雨の織りなす白糸を見つめた。
——「七つ下がりの雨と四十過ぎての道楽はなかなか止まぬ」とは、よく言ったものね……。
 美和子は胸の内でそう呟くと、ふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。止みそうで止まない七つ下がりの雨と、やめたくてもやめられない四十過ぎの道楽か——。人当たりもよく、要領が悪いところはあるものの仕事はそこそこ出来、生真面目で誠実な人柄ゆえか、上司にも引き立てられ出世も早かった洋之だったが、学生時代から付き合ってきてみて、女道楽だけは大丈夫だと思っていた。だが、こうしてみると、女道楽の方が、まだ良かったかもしれない。女道楽なら、熱を上げて入れ込んだ分、冷めるのも早い。でも、夫のは、単なる女道楽なんかじゃない。今まで、生真面目で堅物で通ってきた男だけに、きっと、一度付いた心の炎はそう簡単には消えないだろう……。床からセピア色の写真を手に取ると、美和子は見納めするかのように彼女の横顔をしばし見つめていたが、やがて、ファイルの間に挟むと膝の上でパタンと閉じた。

 翌週、美和子の休みはまた洋之と一日違い——のはずだったが、美和子は思い切って休みを洋之と同じ日にずらした。でも、もちろんそのことは夫には伝えていない。おそらく洋之は休みの日、再び出掛けるだろう。絵画展のチケットが一枚だったことを考えれば、既にもう一枚はあのセピア色の写真の彼女に渡していると思われ、そうだとすれば、洋之が休みの今日、彼女とその絵画展に行くのではないか……というのが美和子の推測だった。
 セピア色の写真の女性を見て以来、美和子はできるだけ今まで通りに過ごした。洋之にそれとなく鎌を掛けて話を振ってみることもやろうと思えばできたが、あえてしなかったし、洋之がお風呂に入っている間にスマホが鳴ったときも、着信画面を見ようと思えば見れたけれども、美和子はそれもしなかった。お互い今まで必要以上に踏み込まない関係を続けてきたこともあり、美和子の中でそうしたことをするのに抵抗があったし、そんなことはしたくない、するものか、という意地になっている部分もあった。そうは言っても、白黒ハッキリさせないと済まない性分ゆえ、とにかく、まずは自分の目で確かめよう——それが、あの日以来、ここしばらく考えた末に出した美和子の結論だった。
 洋之が起き出して、朝食の準備を始める頃、美和子もついでに目が覚めたふりをして、一緒に起きた。仕事はいつもより遅い出勤であることにして、怪しまれないよう出掛ける準備だけはしておいて、洋之が出掛けたのを見届けて、自分もすぐに後を追う算段だった。
——まさか自分がこんなことをする日が来ようとは……。
 鏡台の前に静かに座ると、鏡の中の自分を見据えるようにしながら、美和子はいつもより念入りに化粧を始めた。自分でもドキリとするような、身も心も冷たくなったような蒼ざめた顔の女が、色の無い冷めた目でこちらを見つめてくる。美和子はその目をのぞき込むようにして、いつもより濃いめにアイラインを引き、口紅もいつもより丁寧に塗った。そうやって化粧をしているうちに、今日これから目にするであろうことへの心づもりを整えた。
 美和子の予想通り、洋之は朝食を済ませると、出掛けて行った。美和子は慌てて部屋の戸締りをして、あらかじめ用意しておいた変装用の眼鏡と帽子を手に取ると、洋之の後を追った。家を出てすぐにタクシーを拾われては、尾行計画もあえなく終わってしまうところだったが、マンションの玄関を出て駅に向かう道を小走りでゆくと、幸い洋之の背中が人波に紛れて見え隠れして、美和子はホッと安堵の溜め息をつきながら、夫との距離を保ちつつ慎重に後を追った。
 やがて駅に着いて同じ電車に乗り込むと、隣の車両からそれとなく夫の様子を観察していた美和子だったが、しばらくして、下調べしていた絵画展の美術館へ行く経路から外れていることに気づき、訝しげな表情で路線図を見上げた。どこへ行くのだろう……。美術館でないとすると——。
 そんなことを考えながら、ふと洋之のもとに視線を戻すと、立ち上がって電車から降りていくのが見え、美和子は慌てて電車を降りた。見知らぬ駅の改札を出てゆく夫の背中を見失わないように付いてゆくと、やがて、ふとある店の前で洋之が立ち止まった。手にしたスマホを見ながら、店の場所を確認しているようだ。美和子は少し離れた所から見守っていると、この店で間違いないと確認できたのか、洋之は店の中へ入って行った。どうやら、彼女との待ち合わせは、この店らしい……。歩道に面した店の窓から、洋之が店員に案内されているのが見える。窓際の席に座りながら、洋之が窓の外に顔を向けている。美和子は慌てて首を引っ込めた。大きな街路樹に身を隠しつつ、おそるおそる再び店内を覗いてみると、洋之は美和子の姿に気づいた様子もなく、メニューに手を伸ばしていた。洋之がメニューに目を落としたのを見届けると、美和子は帽子を少し目深に被り直して、神妙な面持ちで洋之のいる店のドアを押し開けて入って行った。
 店内に入ると、思いのほか天井が高く広い空間で、歩道に面したガラス張りの窓から差し込んだ日射しが、白い漆喰塗りの壁に程よく反射して、店の中を穏やかに照らし、ゆったりと落ち着いたカフェのようなレストランだった。まだランチの時間には早いせいか、客もちらほらいる程度で、時折、談笑する話し声が聴こえてくる。店員に洋之のいる席の近くに案内されそうになって、美和子は慌てて断り、少し奥まった席に腰を下ろした。ここからなら、洋之のいるテーブルの様子がよく見える……美和子は少し緊張を緩めると、被っていた帽子を脱いで隣の椅子に置いた。
 しばらくして、注文した珈琲がテーブルに運ばれ、美和子は視線を洋之に置いたまま、カップに口をつけた。——と、洋之が突然さっと立ち上がって、緊張した面持ちで前方に向かって、どうも……と挨拶するように軽く会釈をした。洋之の視線の先をたどると——やはり、あの写真の女性がいた。写真の通り、綺麗な女性(ひと)だった。写真ではセピア色に染められていたからわからなかったけれど、楚々とした感じでありながら、どこか(つや)めいたところのある女性(ひと)だった。露草色のブラウスのせいか、彼女の立っているところだけが、ひんやりと涼しげに見える。ヒロの好みって、本当はああいう女性だったんだぁ……と本当はもっとゆっくり観察していたかったけれど、彼女の隣にもう一人現れて、それどころではなくなってしまった。夫だろうか……、少し気難しそうな背の高い男性が立っている。美男とまではいかないが、好男子という感じではある。涼しげな萌黄色の麻のジャケットに、生成りのスラックス。がっしりした肩に、厚い胸板の持ち主であることは服の上からでも見てとれた。黒縁の眼鏡をしている分だけ、少し分別くさく見える。美和子は、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
——いったい、どういうこと……?!
 夫と相手の女性との密会現場を抑えるつもりが、思いがけずもう一人現れて、想定外の事態に美和子の頭は混乱した。三人で一体、何を話すというのだろうか……。ふと、宙に浮いたままの珈琲カップに気づくと、美和子は胸の鼓動を鎮めるように、ゆっくりとお皿の上に戻した。そして、再び目を上げると、話の内容なんか聴こえるはずもないのに、息を詰めて、全身を耳にするようにそばだてた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み