第19話 葉末の雫〈洋之〉

文字数 5,552文字

No matter what the future brings
As time goes by……
この先どんな未来が訪れようとも
いくら時が流れようとも……

 口笛を吹きながら、洋之は思わず小さく口ずさんだ。
 こうしていつもと変わらぬ朝食作りをしているだけで、こみあげてくる想いに身悶えしそうになるのは、昨日、彼女と逢って、この先も……少なくとも次回は、また逢えることになった嬉しさが、洋之の中でまだしっかりと持続しているからだった。昨日の出来事を思い起こすと、胸の内を突き上げてくる喜びで、つい頬が緩みかけ、顔がにやけてしまいそうになり、誰も見ていないとはいえ、何だかバツの悪い思いですっと引き締める。ようやく名前と電話番号を教えてもらった——ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいことであるとは……。年甲斐もなく心浮かれて、青臭いのは自覚しつつも、恋の始まりの、少し気恥ずかしいような、あの何とも言えない甘酸っぱさが胸の内に広がるのを、洋之はひとり密かに味わっていた。
 あとから思えば、この朝口ずさんでいた曲は、その後の成り行きを何だか暗示しているようだったが、このときはまだそんなことを知る由もなく、呑気に口笛を吹いていた洋之だった。

 そんな朝からどこかふわふわと浮足立った洋之の気持ちが、針で刺された風船のようにパチンと弾けてしまったのは、その日の昼休みのことだった。
 社員食堂で昼の定食を食べ終わり何気なく見たスマホに、響子からの不在着信が表示されていることに気づき、洋之はドキリとして、掛け直すために慌てて屋上のテラスに出た。人気のない場所に立ち、呼び出し音が繰り返される間、息を詰めてじっとスマホの画面を見つめる。もうそろそろ留守電に切り替わるかな……と諦めかけた頃、呼び出し音が途切れ、画面に“通話中”の文字が浮かび上がった。慌てて耳に押し当てた電話の向こうに、一瞬、息詰まるような沈黙が広がる。
『……はい、森村です』
 少しよそ行きの強張ったような彼女の声が、耳元に響く。その声の様子に何だか不穏なものを感じ取って、洋之は携帯を思わずぎゅっと握りしめた。
「佐山です。すみません、先程は電話に出られなくて……」
『いえ、こちらこそお仕事中、すみません……。お昼どきなら大丈夫かな、と思いまして……今、お話しても大丈夫ですか?』
「えぇ、もちろん大丈夫です」思わず勢い込んで応えてしまったことに気づき、洋之はひと呼吸置いてから、何気ない風を装って訊いた。「何かありましたか……?」
 すると、電話の向こう側で、彼女が一瞬、ひゅぅっと息を呑む気配が感じられ、それから躊躇いがちに話しだした。
『——実は……佐山さんと逢っていることを夫が知りまして——』
 心臓がドクンと音を立てる。
「えっ……?!」
 予想外の話の雲行きに、思わず洋之は声に出して響子の話を遮ってしまった。
『それで……夫が一度、佐山さんにお会いしたいと申しておりまして……』
 頭の中を突風が吹き荒れるのを感じながら、何とか言葉を拾い集めるようにして洋之は言った。
「それは、もちろん構いませんが……」思わず携帯を握る手に力が入る。「それより、響子さん、大丈夫なんですか……?何か、ご主人に変に疑われて、困った状況になっているとか……?」
『いえ、そういうわけではないので、ご心配なく……。主人もその点は、信じてくれてるようですので……』
 安堵のあまり、全身でふーっと溜め息をついたものの、最初の衝撃が収まり少し冷静になると、洋之はあることにふと気づき、
「でも、どうして、ご主人が——」僕たちが逢っていることを知ることになったのか……。
 そう訊こうとしたところで、電話の向こう側から子供の賑やかな声が聞こえてきた——きっと娘さんが傍にいるのだろう。
 響子は少し急き立てられるような調子で話を続けた。
『なので、申し訳ないんですけど、来週美術館へ行く予定を変更して頂いて、主人と一度、逢って頂けませんか……?』
「それは、もちろん構いません、大事なことですから。どうせ一日休みですし——」
 と言いかけて、洋之はふと思いなおして言葉を継いだ。
「ご主人は平日、お仕事なんじゃないですか……、もし良ければ、僕の方で休みを土日にずらしますけど……」
『いえ、どうかお気遣いなく……、主人もたまには平日に休みを取って有休消化するって申しておりましたので』
「そうですか……」
『すみません、こんなことになってしまって……。あとでメールでお店の場所と時間をお送りしますので……どうか宜しくお願い致します。あ、でも、もしご都合が悪いようでしたら、遠慮なくご連絡下さいね』
「いや、何があっても行きますよ、必ず行きますから」
 彼女を安心させるよう、洋之は繰り返して言った。
 電話を切る間際、再び申し訳なさそうに謝る彼女をなだめ、洋之は、やっとの思いで、携帯を耳から離した。

 その後しばらくしてから、待ち合わせする店の場所と時間を知らせるメールが彼女から届いた。本当は彼女にもう一度電話をして、どうして夫に知れるところになったのか、夫に何をどう言われたのか、もう少し詳しく状況を知りたい思いもあったけれど、下手に彼女に連絡をして、それをまた彼女の夫が知るところとなれば、ますます変に疑われることになってしまうだろうし、これ以上、彼女の立場を悪くするようなことがあってはならないと思うと、電話をすることも、メールを送ることも、洋之はできなかった。後ろめたいことをしたわけではない。別に隠さなければならないようなことをしたわけでもない——そうは思っていても、いざ、彼女の夫から会いたいなどと言われると、途端に胸の内がざわつき始める……。彼女の気持ちはともかく、自分が本当はどういう気持ちでいるかなんてことは、決して彼女の夫に知られるわけにはいかない。とにかく、彼女との間には誤解されるようなことは何も無いことをわかってもらい、彼女の夫が抱いているであろう不信感を少しでも払拭しなければならない。何としても、彼女がこの先、夫との間に気まずい気持ちを抱えながら毎日を過ごすことになるのだけは避けたかった。いや、既にそうした状況にあるのかもしれない……そう考えると、居ても立っても居られない洋之だったが、差し当たり自分にできることは何ひとつ無く、悶々とした日々を過ごした。

 彼女の夫と逢う約束の日、いつものように珈琲を淹れて朝食を作っていると、遅い出勤のはずの美和子が珍しく起きてきた。久しぶりに、朝からテーブルで顔を合わせつつ食べたものの、美和子に何を話しかけられても、どこかうわの空で答え、珈琲は何だか黒くて苦い液体をただ流し込んでいるようだったし、何を食べても味気なかった。気もそぞろに食事を終えると、急き立てられるような思いで出掛ける支度をして、洋之は家をあとにした。
 響子たちと落ち合うことになっていた店は、降りた駅から歩いて五分くらいのところだった。案内された窓際の席に腰を下ろして珈琲を頼むと、洋之はちらりと腕時計をのぞいた。十時半を少し回ったところだった。待ち合わせは十一時の予定だから、約束の時間までは、まだ少しある。ふうっと肩で大きく息をつきながら、背凭れに背中を預け、窓の外を見るともなしに見やった。気が重い……。彼女から電話があって以来ずっと、彼女の夫を前にして、何をどう言えばいいのか、あれこれシミュレーションして思い巡らしてきたものの、彼女の夫に一体、何を言われるのだろう……と、今日これから彼女の夫との話がどこへ行き着くかを考えると、胃の中で蝶がバタバタと飛び回っているようで落ち着かなかった。もしかしたら、会うなり怒り出すかもしれない……まさか人前で殴られるようなことまではないと思うものの、いずれにしても、にこやかに迎えてもらえるわけはないんだよな……と溜め息をつく。でも、どんなに気が重かろうと、今日ばかりは無理にでも踏ん張るより他はないのだ。とにかく彼女がこれから先、これ以上、夫と気まずく過ごすことのないよう、できる限りのことをするしかない、と自分に言い聞かせる。
 胸の内にどんよりと広がる鈍色の空気を身体から吐き出すように大きく深呼吸をすると、洋之は窓の外からテーブルに目を戻した。と、芳ばしい香りを漂わせるブレンドが運ばれてきて、早速口に運ぶ。彼女の夫が現れるときが刻一刻と近づいてくるにつれ、ドクドクと鳴り止まない心臓を落ち着かせるため、いつもより時間をかけて飲んでみたものの、ゆっくり味わう余裕などなく、緊張のあまり、泥水でも飲んでいるような感じだった。
 洋之は再び腕時計を覗いた。もう少しで十一時になる頃だ……。ふと顔を上げると、店の入り口から店員に案内されて、こちらへ近づいてくる響子とその夫の姿が目に入り、洋之は慌ててさっと立ち上がり、緊張した面持ちで二人に向かって会釈をした。

 テーブルのそばまで来ると、響子の夫が少し前に出て「森村と申します」と言って洋之と簡単に挨拶を済ませた。そして、少しぎこちない空気が漂うなか、二人の男は名刺交換をした。洋之の前に森村が座る形で三人が椅子に腰を下ろすと、程なくして店員がテーブルの上に水の入ったグラスを置いて、注文を訊いて去って行った。
 ひとしきり注文が終わると、テーブルの上に誰も何も言わない真っ白な間がぽっかりと空いてしまい、森村は咳払いをして口を開いた。  
「今日はお忙しいところ、わざわざお越し頂いてすみません」
 森村は緊張気味に四角張った挨拶をすると、洋之に向って軽く頭を下げた。
「いえ、こちらこそ……この度はご心配をお掛けして申し訳ございません」
 洋之も畏まって詫びの言葉を返した。ちらりと響子を見やると、テーブルに目を落としていた彼女もちょうど顏を上げたところで、洋之と一瞬、目を合わせた。
「でも、響子さん——」と言いかけて、洋之は慌てて言い直した。「いえ奥様とは、本当に何もございませんので……」
 森村は真意を確かめるかのように、洋之の表情を探りながら、じっと見つめた。
「ええ。それは妻からも聞いていますし、私もそう思っています——ただ、会って話しているだけの関係だと……」
 淡々と、どこか感情を押し殺すような低い声でそう言いながら、森村はちらりと響子を見た。そして、再び洋之に視線を戻すと、じぃっと少し睨むような目で洋之を見据えて、言葉を継いだ。
「でも、だからといって、妻に『はい、そうですか』というわけにもいかない」
 動悸が、勝手に速くなり始める。洋之はごくりと唾を飲み下すと、神妙な面持ちで頷いた。
「——それで、一度あなたに会って話をしてみようと思ったわけです」
 そう言うと、森村は口を噤んで、おもむろにグラスに手を伸ばし水を飲んだ。テーブルの上に漂う空気が、鉛のように重く三人の肩にのしかかかってくる。少しして、その重い空気を振り払うかのように、森村は咳払いをすると、
「何か変な感じですね……」
 と、黒縁の眼鏡を人差し指で押し上げながら、呟くように言った。自嘲気味に微かに笑みを浮かべてはいたが、口許は笑っていても、目許は少しも微笑んではいないようだった。そばを通りかかった店員が、グラスに水を注ごうと一瞬立ち止まったが、テーブルの上に漂う空気の硬さを敏感に感じ取ったのか、そのまま通り過ぎて行ってしまったのが、洋之の視界の端に見えた。森村も、それを横目で見届けてから、ふうっと大きく息を吐くと、テーブルの上に目を落としたまま、重い口を開いた。
「いっそのこと、男と女の関係になってくれていれば話はしやすいのかもしれませんね……」そこで一旦、口を噤むと、目を上げて洋之を見た。再び口を開いた時には、声が一段と低くなっていた。「でも、そうじゃないから始末が悪い」
 洋之がギクリとしたのと同時に、響子もハッと顔を上げ、洋之と目が合うなり、微かに赤くなって視線を逸らした。そんな妻の様子を森村は横目でちらりと見てから、ひとつひとつの言葉を確かめるようにゆっくりと話し始めた。
「私は今まで自分のことを、そんなに古くさい人間じゃないと思ってきました。結婚しても妻が夫以外の男性と出かけることは別に構わないと思っていたし、男と女の間に友情が成立することもあるかもしれない、と思うこともありました。……でも、いざ自分の妻にそういう存在の男性が現れたと知ると、思いのほか動揺してしまいました」
「すみません……」
 居たたまれず、洋之はただ謝るしかなかった。それより他に、何も言えなかった。
 しばらく躊躇っていたあとで、森村はようやく決心したかのように顔を上げると、洋之の目を見据えて言った。
「正直に言います。妻とあなたとの関係を認めたくない」
「——」
「——」
「でも、そういう関係があってもいいんじゃないかと思う自分もいる」
 洋之は森村の思いがけない告白に、言葉が出なかった。ちらりと響子の方を見ると、ハッとしたような表情を浮かべて、黙ったまま隣の夫の横顔を見つめている。平静を装いながらも、洋之を見ないようにしているのがわかる。
 森村は、静かな水面に葉先から落ちた雫が波紋を広げるように、自分の投げかけた言葉によって二人の間にみるみる驚きと戸惑いの波紋が広がるのを見届けると、
「——だから、少し時間をくれませんか?」
 と言って、最後は視線を洋之に戻してじっと見つめた。
 思いもよらぬ提案に、洋之は何と答えていいかわからず、森村の視線の強さを受け止めつつ、黙ったままゆっくりと頷いた。すると、森村は、何かひとつ大仕事を終えたような、さっぱりとした表情になって、ふうっと大きく息をついたのだった。
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