第11話 ホテイアオイ《布袋葵》〈雅紀〉

文字数 5,911文字

 昨夜、母から聞かされた話のせいで、自分ながら情けないことに、雅紀はベッドに横になってからもひとり悶々として、なかなか寝付かれず、寝返りばかりを打って夜を過ごした。仰向けになれば、薄暗い天井に、なぜか自分が見たわけでもないのに、響子と見知らぬ男が一緒に歩いている姿が映し出され、それはやがて、どういうわけか、顔も知らないその男の身体の下に組み敷かれている妻の姿になり……、雅紀は勝手に湧き上がってくる妄想を頭の中から追い払おうと、ふーっと長い溜め息をついた。隣りのベッドを見やり、薄闇の中で響子が安らかな顔をして寝息を立てているのを見ながら、雅紀は昨夜母から聞いた話を反芻していた。
 正直言って、ショックだった。母の手前、出来る限りのポーカーフェイスを決め込んで、たいしたことのないように装ってはいたものの、内心は思いのほかショックを受けて動揺している自分を認めずにはいられなかった。こんなことを、よりによって母親から知らされるなんて……。響子が自分から言い出すことは無理だとしても、せめて友人知人など、身内でない第三者から知らされた方がマシだった、というのが雅紀の偽らざる気持ちだった。
 それに……と、ふと雅紀は思った。いつもなら、どこそこへ行ったと気軽に何でも話してくれていた響子だっただけに、植物園へ行ったことについては一言も話してくれなかったのは、どうしても不自然さを感じてしまうし、勘ぐらざるを得なかった。——たまたま言い忘れただけなのかもしれない……とも思いたかったが、やはり母の言うように、何か隠さなければならない理由があったとしか思えない。でも——と、そこで雅紀は再び考えた。響子が隠そうとするなら、知らないふりをしている方がいいのかもしれない。夫婦だからといって、何もかも打ち明けてオープンにする必要はない。夫婦ではあっても、心の中に何を隠して生きているかはお互いに判らない。第一、自分だって、一から十まで何もかも妻に話しているわけではない。そんなの、どこの夫婦だって、同じだろう、とも思う。……そうは思っても、響子が植物園へ行ったことすら何も言わないことが、喉に刺さった魚の小骨のように、頭の中に引っかかって、気になって仕方のない雅紀だった。
 母の言うように、何か疚しいこと——もしかして本当に、その男と会うために出かけているのだろうか……。その可能性について十秒くらい考えてみたものの、結局、雅紀はそれを打ち消した。響子がそんな大それたことをするような女ではないことは、自分が一番よくわかっている……つもりだ。
 とするとやっぱり、響子はただ単に熱帯植物とやらを見たくて、そういう場所で寛ぎたくて、出掛けているだけなんだろうか……。それとも——誰にも行き先を言えない理由が、何か他にあるんだろうか……。
 理由——。どんな理由だ?
 響子は、一体何だって植物園なんかに出掛けているんだろう……?
 妻の秘め事に、目をつぶりたいという気持ちと、やっぱり見たい、知りたいという気持ちがせめぎ合って、雅紀は思わずベッドの上で低く唸ってしまった。

 そんなことを苛々と一人思い惑いながら夜を過ごし、ようやく明け方になってから、うとうと眠りについた雅紀だった。サイドテーブルに置いた目覚まし時計がピピッ、ピピッと鳴り出し、浅い眠りから目を覚ますと、傍らに既に妻の姿はなく、カーテンを透かして仄白い空が窓の向こうに広がっている。雅紀はすぐに手を伸ばしてアラームを止めると、寝不足で気怠い身体を再びベッドの上にゴロンと横たえた。そうしていれば、きっと響子が起こしに来てくれるだろうと踏んだからだ。案の定、しばらくすると、一階から階段を上ってくる足音が聞こえてきて、雅紀は慌てて夏掛け布団を胸まで引っ張りあげると、目を閉じて眠っているふりをした。
 やがて、ドアがガチャ、と開き、響子が扉からそっと顔を覗かせた。雅紀は薄目を開けて、寝室にやってきたのが響子であることを確認すると、瞼をしっかり閉じた。
「雅紀さん、六時半を過ぎたわよ~」
 響子は唄うような柔らかな声で雅紀に呼びかけながら窓辺へ行くと、カーテンをさぁっと引き開け、窓を開けた。そして、お日様に向かって両手を斜め上に伸ばしながら深呼吸をすると、ベッドの方へゆっくりと振り向いた。雅紀が目を覚ます気配はまだない……。そこで、響子はベッドの傍まで歩み寄り、夫の身体をポンポンと軽く叩きながら、再び声をかけた。
「雅紀さん……」
 すると、雅紀はパッと目を開けると、響子の手を取って引っ張りグイッと引き寄せた。響子が小さくキャッと言いながら、雅紀の胸に倒れ込むと、あっという間に、そのまま身体を反転させて上にのしかかる。響子の両肩の脇に腕をつくと、雅紀は真上から妻の顔を見つめた。
「どうしたの、急に……?!」
 今までにない雅紀の目の色に、響子は訝しげに夫の顔を見上げた。が、雅紀は何も言わずに黙ったまま、響子の目の中を探るようにまじまじとのぞき込むだけだった。
——昨日、どこへ行ってたんだ?
——昨日、誰と会っていたんだ?
 そんな言葉が舌の先まで出かかっていたが、どうしても声にならない。今はまだ訊かなくていい、まだその時ではない、と雅紀の中で何か押し留めるものがあった。
 そうしているうち、こんなに間近で互いの存在を感じるのは久しぶりであることに気づいた。雅紀は、不意に響子を誰の目にも触れさせたくないと思った。響子と並んで歩いていたという男に雅紀は嫉妬していた。
 雅紀が響子を見つめる。
 響子が雅紀を見つめる。
 雅紀は自分の体重をあまりかけないように、しっかり両腕をついたまま、そうっと響子に顔を近づけていき、彼女の瞳の奥をのぞき込んだ。すると、やがて観念したのか、響子は恥じらうように頬を少し染めながら、ゆっくり瞼を閉じた。……だが、互いの息がかかるくらいにまで近づいたところで、
——疚しいところがあるから、きっと話せないのよ。
 不意に、昨夜母に言われた言葉が耳の奥で甦り、雅紀は突然水を浴びせられたかのように、胸の奥がすうっと醒めるのを感じた。その途端に、急に力が抜けてしまい腕をカクンと曲げると、響子の横にゴロンと身を投げ出し、その弾みを利用するようにしてベッドの端にむくっと起き上がった。
「雅紀さん、どうしたの……?」
 響子は驚いて目を開けると、片肘をついて上半身を起こしながら、ベッドの端に背中を向けて座っている雅紀に声をかけた。
「いや、別に……」
 素っ気なく背中でそう答えると、雅紀は立ち上がり、響子の方を振り向きもせずに、寝室からそそくさと出て行ってしまった。スリッパの音がパタパタパタ……と遠ざかる。何か心に引っ掛かる足音だった。
「…………」
 ひとりベッドに取り残された響子は、再び仰向けになって、大きく息を吐いた。今しがた、雅紀の中で起こった変化に戸惑いつつ、しばらくぼうっと天井を見つめていた。
「響子さ~ん」
 少しして、階下から雪江の声が聞こえてきて、響子はハッと我に返ると、ベッドから降り立ち、エプロンの紐を縛り直した。そして、鏡台の前に立って急いで髪の乱れを直すと、「は~い」と返事をしながら、慌てて階下へ降りて行った。

「今夜は響子と外で食事をしたいから、葵の面倒をお願いしてもいいかな……?」
 朝食をそろそろ食べ終わろうとする頃、おもむろに雅紀が口を開いて、涼介と雪江に向かって言った。思わず、二人はあうんの呼吸でさっと目を合わせた。台所から切り分けたばかりの西瓜をお皿に載せて戻ってきた響子は、一瞬、手を宙に浮かせたまま目を見開き、ビックリしたような顔で雅紀を見ながら、葵の隣に腰を下ろした。
「今夜の会食が流れたんだ。たまにはいいだろ?」
 響子を見ながらそう言うと、雅紀は食後の珈琲をひとくち口に含んだ。
「えぇ、もちろん……」
 躊躇いがちに頷きながら、響子は葵の皿に西瓜を取り分けた。
「そうよ」
 雪江は雅紀に素早く目配せを送り、いい考えだわ…とでも言うように微かに頷くと、
「たまには夫婦水入らずで食事くらいしなくちゃね。ねぇ、あなた」
 と、涼介に水を向けた。雪江と雅紀の間で交わされる無言のやり取りに気を取られていた涼介は、突然、雪江に話を振られ、飲みかけた緑茶の湯呑を宙に止めたまま、慌てて頷いた。
「葵の面倒なら、もちろん私たちが見るから大丈夫よ」
 と、雪江はもうひと押し響子の背中を押すように言葉を重ねると、再び夫を目顔で促した。
「そうだよ。気兼ねなんかしないで、行っておいで」
 涼介が優しく声をかけると、ようやく響子の目から躊躇いの色が消え、
「有難うございます。じゃ、お言葉に甘えて」
 と言いながら、涼介と雪江に向かって軽く頭を下げた。
 雪江は、雅紀をちらりと見ると、エールを送るように微かに頷いた。
 テーブルの上で飛び交う大人たちの会話をじっと見ながら、おとなしく西瓜を齧っていた葵が、ひとしきり話がついたのを見計らったように、
「じゃ、私はおじいちゃんとおばあちゃんと、お留守番ね」
 と結論が出たように言うと、大人たち四人は、急に張りつめていた糸が緩んだように、思わず顔を見合わせて笑った。
「ありがとう、葵。じゃ、今夜はお留守番、頼んだよ」
 雅紀は父親の顔になって娘に微笑んだ。

「開けてみて」
 結婚以来、久しぶりに慣れないことをして、何でもない言葉までが、へんに照れ臭く、雅紀は声が掠れてしまったのを、思わず咳払いをしてごまかした。響子と落ち合うことになっていたこのレストランへ来る道すがら、雅紀は妻に内緒である物を買ってきていた。それをテーブルに置くと、おもむろに響子の前に差し出した。
 響子は手にしていた食前酒のグラスを脇に置くと、驚いた顔で雅紀を見た。
「何のお祝い……?誕生日はもうとっくに過ぎたし、結婚記念日なら、まだ2ヶ月も先よ」
「記念日以外にプレゼントしちゃいけない決まりはないだろ。たまにはサプライズプレゼントもいいかな、と思ってさ。いいから、開けてみて」
 きょとんとしている響子を目顔で促すと、彼女はようやく箱の包みを丁寧に開け始め、やがて箱の中身を見た彼女の口から、あ……、と小さく驚きの声が洩れた。
「どうして、これを……?!」
 響子は、驚いたような、でも少し不思議そうな表情を浮かべて雅紀を見た。箱の中には、向日葵のような花形のペンダントが納められている。雅紀は満更でもない表情を浮かべて言った。
「欲しかったのは、それだった?」
「そうだけど……、でも、どうして知っているの……?」
「テレパシーかな……なんて言ってみたいところだけど」
 雅紀はふっと苦笑いをしながら付け加えた。
「実は、この前、家でパソコンを見ていたら、そこのブランドのアクセサリーの広告がやけに挙がってきていたから、もしや……と思って、検索履歴を見ちゃったんだ……ごめん」
 決まり悪そうに雅紀がそう言うと、響子は慌てて首を振った。
「そうだったの……でも、嬉しいわ、有難う。ネットの広告で見かけて、うわぁ~素敵だな~と思って、思わずお店のホームページで調べちゃったの。でも、まさか検索履歴を見られちゃうなんて思っていなかったわ……」
 と、気まずそうに小さく微笑んだ。妻の笑顔を見ると、雅紀は心のしこりがフッと宙に浮いたようになって薄まっていくのを感じた。
 すると、響子はふと何かを思い出すような表情を浮かべ、
「でも、これ、高かったんじゃない?ホームページでは値段が出ていなかったもの」
「そういうことは言わないの。これくらいの甲斐性は俺にだってあるさ……」
 そう言うと、雅紀は少し居心地が悪そうに、食前酒に口を付けた。雅紀の言葉から何かを敏感に感じ取ったのか、響子もそれ以上は何も言わなかった。
「早速、着けてみてもいい?」
「もちろん」
 響子は身に着けていたネックレスを外すと、箱から取り出したペンダントを首に回した。
「綺麗だ……よく似合うよ」
 よせばよかった。慣れないことを言った途端に顔から火が出そうで、雅紀は照れ隠しに、響子から慌てて目を逸らした。でも、お世辞ではなく、本当に心からそう思った。響子の抜けるように白く滑らかな首元に、向日葵のようなダイヤのペンダントが光を反射してキラキラと輝いていた。雅紀は思わずごくりと息を呑んだ。何だか、妻は近頃、とても綺麗になった……というか、ぐっと女っぽくなったように思えるのは気のせいだろうか……。慎ましやかで気品があるけれど、決して冷たいというわけではなく、何とも言えない(つや)やかなヴェールを身に纏っているようだった。響子とこうして外で二人きりで会うのが久しぶりのせいだろうか……。昨夜、母から響子が男と二人で歩いていたことを聞かされたせいだろうか……。店内の少し暗めの落ち着いた温かみのある照明のせいもあって、普段見ている、よく知っているはずの妻が、どこか妖しく謎めいた女に見えた。
 響子がプレゼントしたペンダントを思いのほか喜んでくれたことは、もちろん素直に嬉しかったけれど、だからと言って、それですべての問題が解決されたわけではない。妻の顔を見つめながら、雅紀の思いは複雑だった。
——疚しいところがあるから、きっと話せないのよ。
 昨夜、母に言われた言葉が、耳の底にこびりついている。
 本当は二人きりで食事でもすれば、何かのきっかけで響子から話してくれるのではないか……と心のどこかで密かに待つ思いもあった。或いは自分から「昨日はどこへ行ったんだ?」と、話のついでにさりげなく訊いてみたい思いもあった。でも結局最後まで、そのどちらも無かったし出来なかった。自分に関して言えば、訊こうと思えば出来たはずなのだが、雅紀は敢えてそれをしなかった。情けない話だけれど、妻を信じてはいるものの、訊いたところで響子が何と答えるかと思うと、少し怖いような気もして訊けなかったのだ。それに……と、もう一人の自分が冷めた目で言っていた。たかが一度これしきりのことで、ガタガタと騒ぐなんて、男として、何だかみっともないし、情けないではないか……。
 食後の珈琲を飲みながら、そんなモヤモヤと定まらぬ思いを抱えつつ、雅紀がふと窓の方へ目をやると、出窓に置かれた水鉢に、濃く鮮やかな赤色の金魚が2匹、気持ち良さそうに泳いでいた。葉柄がぷっくらと丸く膨らみ浮き袋のようになっている布袋葵(ホテイアオイ)が、水面から卵形をしたツヤのある緑色の葉を立ち上げ、薄紫色の可憐な花を咲かせて、ゆらゆらと揺れているのを眺めながら、雅紀は波立ちやすい自分の心を思った。
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