哀雨

文字数 1,124文字

頬を叩く雨は、誰かの引き裂かれた心臓から滴る血のように凍てついていた。狭い道を抜け、市役所のある2車線の道路脇を、蛍はただひたすらに走る。交差する幹線道路を渡り、歩道沿いの寿司屋と100円ショップを過ぎたあたりで緩やかな坂道にさしかかった。傘さえあれば運動不足解消に丁度いい坂なのに、状況が違えばこうもしんどいものかと蛍は早くも泣きたくなる。雨を吸ったコートが重くてたまらない。まるで鎧をつけた武士のようだ。鎧がどれほどの重量か知らないけれど、感覚的には脱ぎ捨ててしまいたくなる程に邪魔くさい。濡れた髪が頬や額に張りつくのを手で払いながら必死で考える。

ーーーどこかにコンビニがなかったっけ?

味気ないビニールでもいいから、切実に傘が欲しかった。色が変わるほどぐっしょり濡れた鞄には、図書館で借りた本が入っている。早くも呼吸が乱れてきて、渋滞をおこしている車列のように、動かす脚も前に進んでいるのかわからない。
「疲れた」思わず息も絶え絶えに呟いた時、並んだ車の中から1台の軽自動車が左にウインカーを出し、脇道に入っていくのが見えた。数十メートル先にあるその脇道は、この道路と並行して伸びる民家に挟まれた道に繋がっている。学校からまっすぐ帰る時に、いつも令奈と歩く道だ。その坂を上りきった所にコンビニがある。

ーーーそこで傘を買って、あとは歩いて帰ろう。

さすがにもう脚が限界だった。それでもあと少しの距離だと思うと不思議と力が沸いてくる。真っ暗闇だった心に火が灯り、温められた血流によって重たかった脚がわずかに軽くなった。力一杯地面を蹴って蛍は全速力で走る。少し遠くに見えていた脇道がぐんぐん近くなり、そこを曲がると更にスピードを上げた。狭い道の奥に背の高いマンションが見えてくる。突き当たる民家の通りに面したベランダの明かり。それを目指して走る蛍の脚が、脇道の角にさしかかろうとしたその時、誰かの叫ぶような大きな声が聞こえた。けれど雨音に紛れてなんと言ったかまでは聞き取れない。彼女がその叫びの意味を理解したのは、左頬に眩しいライトの光を浴びた瞬間で、それが車のヘッドライトだと気づいた時には、左腹に内臓が潰れるような強い衝撃があった。全てがスローモーションになっていく世界の中で、驚愕に目を見開く運転席の男の顔と、ライトに照らしだされた雨粒の形。濡れた地面に身体と頭を叩きつけられ、遠のく意識の最中に見たものは、薄ぼんやりとした外灯のあかりだった。それはじわじわと蛍の脳内を侵蝕していき、やがて彼女の全てを奪い去った。仰向けに倒れたその顔と身体に、容赦なく刺さるような雨が降り注ぐ。見開かれたままの瞳には、もう僅かな命の灯火すら感じられなくなっていた。
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