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なんとかしてこの中に入りたい。

炎に包まれていた時点で普通のマンホールでないことは確かだ。ならば通常あるはずの下水管もないのだろう。四つん這いの姿勢で首をひねり、穴に耳を近づけてみるも微かな水音すらしない。逆にそんな音がしていたら、あの不思議な光の玉が入っていくはずもないだろう。

この穴はこちらの世界と、どこか他の世界を繋いでいるのかもしれないわーーー。

確信しているわけではないが、奇妙な出来事が立て続けにおきれば、あり得ない仮説もたつというもの。検証するには穴の中に入って確かめるしかないけれど、いかんせん足場となるものがないのだ。もどかしさから、知らず知らずのうちに願望が口から駄々漏れる。
「願えば穴に梯子がかかるとか、下に続く階段が現れるとか、そういう都合のいい展開はないわけ?」ないと半ばわかっていながら呟くと、まるでその想いに応えようとするかのような風がおきた。マンホールの中から生じたそれは、百合子の前髪を下方に引っ張るように揺らす。砂利を吸い込みどんどん強くなる風は唸るほどに凶暴化し、民家の樹の枝を大きくしならせた。体勢を戻した百合子は、地面にしがみつくように爪をたてていたが、抵抗も虚しく脚はズルズルと引きずられる。やがてその爪先が穴の縁にさしかかった瞬間、牙を剥くようにマンホールの口が大きく広がり、足場を失った百合子は悲鳴を残して落ちていった。
凄まじい落下の中で、必死に手足をばたつかせるも、身体の傾きに逆らうことはできず、百合子の瞳から泪が吹き出す。内臓の浮く感覚が気持ち悪いのだ。加えて髪は上方に痛いほど引っ張られるし、唇と鼻は風圧で捩れた。

唯一の救いは、真っ暗闇で景色が見えないことくらいだわーーー。

きつく歯をくいしばり、いつくるかもわからない衝撃に怯え続け、あまりの恐怖に意識を失いかけた頃、にわかに落下のスピードが緩んだ。徐々に減速していくのを感じ取った百合子は、死に物狂いで腕を動かし、脚で空気を蹴るようにして身体の向きを変えていく。なんとか逆さまの状態から脱し、寝る時の体勢で地面に着地できた。
最悪の事態は免れたらしい。そう実感するや否や、全身の汗腺という汗腺から汗が吹き出し、強張っていた筋肉が弛緩する。百合子が軟体動物にでもなった心地で、両腕両脚を投げ出し呼吸を整えていると、頭上に光の玉が現れた。百合子がここにきたことを喜んでいるのか、上下に弾むように飛ぶそれに、本当なら文句の一つも言いたいところだが、なにせ気力が根こそぎ奪われている。諦めて、頭上に描かれる光の軌跡をぼんやり眺めていると、再びゴリゴリと地面を削るような、不吉な音が闇を揺らした。鉛が詰まったように重い上半身をおこすと、投げ出した脚の先で、丸い穴がぽっかりと口を開けているのが見えた。だが不思議と恐怖は感じない。穴の中から漏れる明かりが、百合子のいる暗闇を淡く照らし出しているからだ。

これは、異世界への入口かしら?

穴に近づき身体を丸めて中を覗きこむと、木目調の床らしきものが見える。穴の縁から下におりる梯子もちゃんとかかっていて、入っておいでと言わんばかりだ。中は誰かの家かお店か知らないけれど、たぶん室内なのだろう。ということは自分は今、天井裏にいるということになる。
「不法侵入」そんな言葉が脳裏にちらつくが、百合子は首をゆるゆると振ってすぐに打ち消した。躊躇いもなく入っていく光の玉を追いかけるためにーーー。
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