文字数 1,427文字

ーーー話してみよう。

気軽に話せる内容ではないし、ここで死んだという男の話を完全に信じたわけでもない。けれど、それが嘘でなかったとしたら、何も打ち明けずに帰るという選択は、男の二の舞になるということだ。それは嫌だし、絶対に避けなければならない。恐怖以外に、死にたくない理由が百合子にはあった。

ーーーそれを、これから話す。

決意を右手に握りしめて、百合子がレースのカーテンを開けると、それが合図だと察したらしいリズが、『どうぞ』と促すように頷いた。百合子は窓から月を見上げて、1年以上前の記憶を掘り起こしていく。忘れもしない、あれはクリスマスイブの前日のことだった。
その日の夕刻、百合子はリビングの椅子に座って、大きく迫り出したお腹を撫でていた。キッチンからは、誠さんが野菜を刻む音がきこえてくる。野菜とウインナーをコンソメで煮込む、簡単なスープをリクエストしたのは百合子だ。臨月が近づきお腹の張りがきつく、キッチンに立つのも辛くなってきたため、最近はずっとスーパーのお惣菜に助けられている。今日と明日の2日間は誠さんの仕事が休みなので、簡単でかつ栄養があり、体が温まる料理をお願いしたというわけだ。刻む音が鍋に食材を入れるそれに変わり、コンソメの香りが漂ってきた頃、エプロンで濡れた手を拭きながら、誠さんがキッチンから出てきた。
「あとは煮込むだけだから、少しの間だけ」そう言って彼はいそいそと百合子の隣に椅子を持ってきて座り、体を傾けて彼女の膨らんだお腹に顔を近づけた。
「すみれちゃん、パパですよ~。パパは今スープを作ってるよ。お腹を空かせたすみれちゃんとママのためにね。だからもうちょっと待っててくれるかな?」誠さんが話しかけると、百合子のお腹が内側からぼこっと反応する。
「今の返事だよね」
「早く食べたいって言ってるわ。きっと食いしん坊なのね。ママはそんなすみれちゃんに早く会いたいです。もういつ生まれてきてくれてもいいのよ~」今度は撫でても、軽く叩いてみても反応はなかった。百合子は食卓に置いたスマートフォンをとって、画面に来月のカレンダーを表示させる。月の半ば近くに赤く『予定日』と記されていた。
「さすがにまだ無理か」
「予定日は3週間後だからなあ。気長に待つよりほかないさ」気の早い百合子を宥めるように言って、誠さんはキッチンに戻っていく。後は『テレビでも見てゆっくりしてなよ』という彼の言葉に甘えて、百合子は録画しておいた動物の番組を見て過ごした。脇の下を冷や汗が伝う緊張感に襲われたのは、それからしばらく経ってのことだった。食卓を整えだした誠さんを見て、少しくらい手伝おうと椅子から立ち上がった瞬間、股の間に不快感を感じて、百合子は食卓に両手をついたまま固まる。生理の時の、血が出てくるような生温い感覚がしたのだ。突然動かなくなった百合子を心配したのだろう
「どうした?大丈夫か?」とキッチンから誠さんが出てくる。彼に支えられるようにして食卓から離れた百合子は
「……トイレに行ってくる」と硬い声で宣言した。股の間の不快感は絶えず続き、便座に座った百合子は、試しに膀胱を締めるようにお腹に力を入れてみたが、ちょろちょろと流れ出るそれは、意思の力でとめられるものではないようだ。ドクドクと脈打つ心臓を落ち着かせようと
「尿漏れかな……」などと呟いてみるものの、百合子の脳内ではすでに、2文字の漢字が警告するように点滅していた。

ーーー破水、したかもしれない。
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