月光蝶

文字数 1,751文字

濁流が過ぎ去った後の更地に、清涼な風が吹き込む。その清々しい心地よさに百合子が顔を上げると、向き合って座るリズが、歯を食い縛って泣いていた。

ーーーなんて優しい子なのだろう。

他人の胸の内を深く想像し、他人の痛みを自分のそれのように強い共感力でもって受けとめ、共に哀しみ寄り添ってくれる。
彼女の透き通る純粋さに洗われながら、喉を枯らし激しく咳き込む百合子の鼻先を、白い何かが撫でるように飛んでいった。瞬きで輪郭がはっきりする。雪のように白い蝶が羽ばたいていた。キラキラ光るラメのような鱗粉を散らして頭上を飛んでいた蝶は、やがて百合子の中指にとまった。
「この石から生まれたんだ」盛大に鼻をすするリズの傍らで、ラブが机に転がった青白い石をつついて言う。その言葉どおり、石からドライアイスの煙のような白い泡が出てきたかと思うと、瞬く間に蝶の形になって羽ばたいていく。
顔についた泪の跡を、乱暴に手の甲で擦りとったリズが、湿った声で後を引き継いだ。
「この蝶は月の使者です。このムーンストーンという石は、月の光が凝固してできたものなんです」
「それが満月の夜に月光を浴びると、こうして蝶を生み出すというわけさ」ロマンチックだなと、窓からまん丸の月を見上げた百合子は素朴な疑問を口にする。
「使者ってことは、いずれは月に帰るの?」
「はい。役目を終えたら、ですけど」リズは3本指を立てて「泣いている赤ちゃんと傷ついた人、疲れている人……」と言いながら指を折っていく。
「その3人を癒すことが、この蝶の使命なんだ」
それを聞いて百合子の頭に浮かんだのは、誠さんと娘のすみれの顔だった。
「だったら、この蝶々を連れて帰ってもいい?」切実な願いだ。事故をおこして以来、誠さんは度々フラッシュバックに苦しみ、今や感情が抜け落ちてしまったかのように無気力な日々を送っている。娘のすみれも泣いてばかりで、いくらあやしても笑わない。そんな現実が、百合子の中に潜む罪悪感を色濃くし、心を苛んでいる。この蝶々が2人を癒してくれたら、少しだけ何かが

ーーー変わるかもしれない。

そう期待してしまうのは無理からぬこと。だが2人の答えはそれを大きく裏切るものだった。
「ダメ……です」蚊の鳴くような返答に、百合子はすぐさま突っかかる。
「どうして!?」癒す対象にぴったりな人物が2人もいるのに。断られると思っていなかっただけに悔しくて、百合子は眼尻を吊り上げると唇を噛んだ。
「人間界に連れて行っても、すぐに消滅してしまうからです」そう言われても素直に納得できない。
「だって、2人は人間界に遊びに行くって言ったじゃない。それって、向こうでも存在し続けられるってことでしょう」
「誰にでもできるってわけじゃない」百合子の勢いを削ぐように言うと、ラブは前肢でリズを示した。
「こいつみたいに、人間と同じ容姿をしている者や、人の言葉を話せる魔力の強い奴ならできる。でも、植物や虫のような弱い存在には無理なんだ。人間界の空気に触れただけで、たちどころに消えちまう」
「そんな……」呟いた百合子は、塩をかけられて萎びた菜っ葉のように背中を丸めると、両手で顔を覆い指の隙間から盛大にため息を洩らす。だが長くは落ち込んでいられなかった。リズに肩を揺さぶられ、椅子から立つよう急き立てられたからだ。落胆したせいか身体に力が入らず、老婆のようにのろのろと立った百合子は、「こっちへ来てください」と手をひかれ、気がつくと窓とは反対側の、壁にそびえ立つ大きな棚の前にいた。背後にまわったリズに、俯けていた頭を両手で挟まれる。そして強引に顔を上向かせられた百合子は、伏し目がちになっていた両目を大きく見開いた。様々なものが飾られている棚に、一瞬にして心を奪われたのだ。磨かれて艶々した天然石や原石がメインの品物のようだが、他にもカラフルな羽ペンや、色や形の異なる貝殻を集めた標本箱などもある。時間を忘れそうなほど魅力的な品々を前に、百合子はあるものを見つけて前のめりに顔を近づけた。置物のうさぎの尻尾に引っかけるようにして飾られている月と星のモビールを手に取ると、切り抜かれた純白の三日月が、天井からの光を受けて呼吸をするように煌めいた。まるで、部屋の中を飛び交う蝶の鱗粉をふりかけたかのように。
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