冷たい瞳

文字数 1,564文字

傘を叩く雨音はさながら打楽器奏者で、リズムに合わせて鼻歌を刻みながら歩いていると、あっという間に図書館に着いた。玄関口で傘の滴を払い傘立てに納めると、蛍は鞄の中から図書カードを出して自動ドアの前に立つ。期待で心がトクトクとスキップし、その軽やかさで絨毯敷きの館内を進むと、蛍は受付カウンターにカードを出した。
「予約してた本を取りにきたんですけど」嬉しさのあまり声が音符のように弾んでしまう。カード情報を機械で読み取った司書の女性が、奥から一冊の本を手に戻ってきた瞬間、蛍は宝物を見つけた子どもみたいに満面の笑みを湛えた。貸出手続きの済んだ本を胸に抱き、ついでのように彼女は本棚の方へ向かう。目的を持たずただふらふらと、本の森をさ迷い歩くのが好きなのだ。次にどんな本を読みたいか、森の中で蝶を追いかけ花を愛でたり、鳥のさえずりを楽しむみたいに、気になった本を抜き取りぱらぱらとページを捲る。
『園芸』の棚の前で綺麗な薔薇の写真に見入っていると、反対側から大きなくしゃみが聞こえてきて、蛍は本棚の隙間から覗き見た。ランドセルを背負った少年が、盛大に鼻をすすっている。前髪がしっとり濡れているところからして、雨の中友達と傘でチャンバラごっこでもしたのかもしれない。蛍が微笑ましくそんなことを思っていると、顔を上げた少年と目が合った。こっそり見ていたことがバレてごまかすように瞬きをした蛍を、彼は睨み付ける。グッと寄った眉根の下で、黒い双眸が冷たく燃えていた。謝ろうとして口を開きかけた蛍を無視して、少年は棚の間をすり抜けると走って館内を出て行ってしまう。結局その後もいくつかの棚を見て回ったものの、あの冷たい瞳が脳裏にちらついて集中できず、蛍はいつもより早々と本の森を出た。

ーーー別に追い出したかったわけじゃないのに。

とぼとぼと受付に続く通路を歩き、もやもやとした気持ちを抱えたまま自動ドアをくぐると、雨の匂いが不快にまとわりつく。雨脚はさっきと変わりないのに、ついつい物憂げなため息が漏れてしまった。蛍は胸に抱いたままの本を鞄にしまい、せめて少しでも気分を明るくしようと傘立てに近づいて、泣きそうな声で呟く。「ウソ……」
きた時確かに入れたはずの傘がなくなっていたのだ。血の気がひくのを感じ、蛍はしゃがみこむ。身体の一部を切り取られたような、大きな喪失感と寂しさに泪が溢れた。目眩が治まってから、残っている傘をもう一度一本一本改めていると、中に一つぼろぼろの傘があった。骨が折れていて、青い布地が雨避けの役割を果たせないほどに派手に破れている。小ぶりな傘だから、子どものものかもしれない。ふと浮かんだのはあの子の濡れた前髪だった。

ーーーもしかして彼は誰かに……。

まさか自分で自分の傘をあんなにはしないだろう。とするとこの傘が物語る背景には……。想像して蛍は心底嫌そうに顔をしかめた。唐突に沸き上がってきた少年への同情心に、こみあげてきていた怒りも静かに消えた。

ーーー貸してあげたと思えばいいじゃないか。

そう心に言い聞かせると、傘も返ってくるような気がして、ざわついていた胸が少しだけ落ち着いた。しかし困るのはこの雨だ。鞄には借りた本が入っているから濡らすわけにはいかない。しばらく考えて蛍はスマホを取り出した。幼稚園で働く母は、大抵4時過ぎには家に帰っている。電話をすれば車で迎えに来てくれるだろう。そう思ったのに、側面のボタンを押してもスマホの画面は暗いままだ。電源ボタンを長押ししても変わらない。教室を出る時赤色だった充電が切れてしまっのだ。そのことに気づいたとたん、脚が鉛を詰められたかのように重くなり、耳奥で激しさを増す雨音に怖じ気づいて動けなくなってしまう。色を失った顔で立ち尽くす蛍の横で、無情にも傘を開く音が続いたーーー。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み