再出発

文字数 2,395文字

翌日の昼過ぎ、百合子は駅の改札を抜けると階段を駆け下りた。エスカレーターでゆっくり下りる時間すら勿体ない。ロータリーに沿って歩いていると眼前に広い道路が見えてきた。逸る気持ちのままに走り出す。この道の先にビジネスホテルがあり、その角を右に曲がって少し行ったところに、誠さんの実家がある。昨夜のすみれの笑顔がエネルギー源となり、百合子の脚は羽が生えたかのように軽い。車と競うように走っていると、あっという間に彼の家の前に着いた。玄関チャイムを鳴らすと、無造作に髪を束ねた中年女性が現れた。近所のスーパーで働いている誠さんの母親で、今は静養中の息子のために長期休みをとっている。事前に連絡をいれていたにも関わらず、彼女は百合子の顔を見ると、困ったように微笑んだ。
「遠いところをごめんなさいね、百合子さん」申し訳なさそうな口調の裏には、百合子一人に育児の負担をかけている罪悪感があるのだろう。謝られる度に心がずんと重くなる。自分に原因があるとわかっているから尚更だ。しかし今日は違った。すみれの笑顔を思い出すことで、心に絡みつく鎖の重みが消える。
洗面所で手を洗い、お義母さんの後に続いてリビングに入ると、食卓の椅子に誠さんが座っていた。
「誠、百合子さんが来てくれたわよ」呼びかけに応じず、ぼうっと旨い眼で窓の外を眺めているのはいつものことだ。気にせず百合子が向かいの席に座ると、察したようにお義母さんが部屋から出ていく。例え返事がなくても、百合子が息子に話しかけることを知っているから、こうして気を遣ってくれるのだ。でも今日の目的は違う。

ーーーごめんなさい、お義母さん。

遠ざかる足音を聞きながら、百合子は膝におろしたバッグの中を探る。引っ張り出したクリアファイルの中には、紺色の細いリボンと、昨夜切り抜いた星が6個入っている。いつもは誠さんに、すみれのことや近況を話して聞かせるのだが、今日はモビールを完成させることが目的だった。まずは自分が楽しめることをして、心のカップを満たすことから始めてみることにしたのだ。百合子は持参したスティック糊を、切り抜いた星の裏側に塗っていく。
「ねぇ誠さん、信じられないかもしれないけれど、私昨日マンホールの中に吸い込まれて、妖精の世界の雑貨屋さんに行ってきたのよ」糊が乾かないうちに、リボンを挟んで2枚の星を貼り合わせた。
「そのお店にはね、月の光を凝縮させた石があってね」百合子は喋りながら、自然と口角が上がるのを感じる。学校帰りにランドセルを置くのももどかしく、母にその日の出来事を無邪気に話していたことを思い出したからだ。やがてかつての自分の姿が、成長したすみれに変わり、若かりし頃の母の姿は、仕事帰りの誠さんになっていく。彼は夢中で話すすみれの顔を見て、目尻に優しい皺を刻んだ。ただの想像なのに、胸の奥から広がった熱い波が全身に広がり、百合子の涙腺を刺激する。
「その石が満月の光を浴びて、キラキラ光る真っ白な蝶々を沢山生んだのよ」泪を堪えようと無理に明るく言って、百合子はまた星の裏側に糊を塗る。これが最後の星だと思うと緊張で手が震えた。呼吸をとめて慎重に貼りあわせた瞬間太いため息が出たけれど、心は達成感で満たされている。紺色のリボンに3つの星が連なったモビールの端を、百合子はカーテンレールに結びつけた。細く窓を開けると、風に揺れて一層美しく煌めくそれは、さながら蝶の羽ばたきのような。百合子がそれを満足気に見ていると、背後に人の気配を感じた。座っていたはずの誠さんが、体温を感じられるほどの距離にいる。突然のことに驚いた百合子が、忙しない鼓動を手のひらで宥めていると、彼がぎこちなく両手を上げて星に触れた。紙の表面を撫でる指先をたどって、誠さんの顔を盗み見た百合子の口から、空気が抜けるような言葉が漏れる。「嘘……」百合子は彼の顔を穴があくほどに見つめ、微かに唇を震わせた。真っ暗闇だった瞳の中に、砂金一粒ほどの輝きを見つけた時、心臓が金槌で叩かれたかのように拍動し、頬が細かく蠕動する。うっかり声を出して泣きそうになるのを、歯を食い縛って堪えているのに、みるみるうちに誠さんの顔がぼやけていく。湯水のように熱く激しい感情に突き動かされて、百合子は無防備な誠さんの体に、体当たりするみたいに抱きついた。もうあの時の二の舞は懲り懲りだった。

ーーー状況がなんだ。その場に相応しい言葉を探す暇があるならぶつけろ。下手でもいい。上手く伝わらなくても構わない。大切なのは伝えたいという強い想い。

「誠さんっ、あの時『出ていけ』なんて言ってごめんなさい!それと、ゼリーを買ってきてくれてありがとう!お礼を言うのがこんなに遅くなっちゃったけど、とても嬉しかったの。すごく、すごく嬉しかったよ、ありがとう誠さん!」鼻をひくひくさせながら、こんな低レベルな語彙力で、胸に渦巻く感情のどれほどを伝えられただろう。わからないから、せめてと百合子は誠さんの体をきつく抱き締めた。これまでも今も、これから先もずっと、自分とすみれには貴方が必要なのだという気持ちをこめて。
静かな室内に時計の秒針が響く。判決を言い渡される被告人の気分で、百合子が緊張に押し潰されそうになっていると、ふいに回した腕に細かな振動が伝わってきた。それが誠さんの感情の現れだと気づいたのと、頭上から氷解するような嗚咽が降ってきたのは同時だった。その声を聞きながら、百合子は一緒になって泣いた。今度は我慢なんてしない。これで全てが許されたわけではないし、全く動かなくなった歯車が、軋み音をたてた程度の変化にすぎない。だがそれでもう十分だった。この瞬間に与えられた奇跡のような希望を、今はただ誠さんと喜びあいたくて、百合子はキラキラ光る星に見守られながら、幸せな泪を流し続けた。


ーーー 百合子の章「完」ーーー
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