文字数 2,002文字

百合子が中指にとまっている蝶とモビールの月を見比べていると「実は」と言ってリズが蝶の羽に指をそっと当てた。そうして指先についたアイシャドウのような粉を見せて微笑む。
「この紙には、集めた蝶の鱗粉が入っているんですよ」彼女が言うには、本物の蝶ほどではないが、微力なパワーを内包しているという。百合子がつるつるした紙の表面を撫でていると、一旦カウンターに引っ込んだリズが、レース素材の巾着を持って戻ってきた。
「言い忘れていましたけど、私達の役目はここにいらっしゃった方の話を聞いて、心を軽くするお手伝いだけではないんですよ」リズはウサギの尻尾からモビールをはずす。
「と、言うと?」
「話を聞いた上で、その人の助けになりそうな商品を選んで処方する。ちなみにお代はとらないぞ。ここに来た思い出、みたいな感じで渡しているからな」胸の毛をふくらませ、どこか得意気な表情のラブを見て百合子は笑った。
「処方って、まるでお医者様みたいなこと言うのね」そうしてもう一度棚を見上げた彼女に、リズが口をリボン結びにした巾着を差し出す。「どうぞ」レースの布越しに、中に納められた月と星がキラリと光る。それは一瞬の閃きとなって、百合子の心を弾いた。
「ちょっと待って。だったら私、モビールよりこの紙が欲しいわ」病にかかった人の回復を願い、心を込めて鶴を折るように、自分も夫や娘のことを想いながら手作りしたいのだと言うと、リズは嬉しそうに瞳を輝かせた。
「素敵なアイデアですね」そう言うと彼女は棚から2枚の絵をとり百合子に見せた。1枚は大きなカップから水が溢れ、そのそばで動物達が寛いでいる明るい感じの絵。もう1枚はヘラジカの角に蝋燭が立っている絵で、蝋燭には火が灯り、心なしかヘラジカの目つきが険しい。まるで怒っているようだ。百合子がヘラジカに先程の自分を重ねていると、リズがそれをカップの絵の後ろに隠した。
「タロットカードでは、水は『愛』の象徴で火は『怒り』を表します」確かにカップの周りには豊かさがあり、幸せに満ちている。
「今の百合子さんに必要なのは愛です。傘を持たずに飛び出してきた女の子を、その子の両親を許せないのはわかります。許さなくていいです。でも、そこに向ける怒りを愛に変えてほしい。そしてできる限りその愛を、百合子さんの大切な家族に注いであげて下さい」
「愛に変える……」呟きながら、百合子は振り返ってみた。すみれのお世話をすることで、実家で静養中の誠さんに会いに行くことで、2人に愛を注いでいるつもりになっていただけかもしれない。自らも実家の両親の助けを借りて育児をしているが、誠さんが側にいないことへの不安や、先の見えないしんどさに加え、重なる疲労。いつの間にか、沸き上がる怒りをエネルギーに変えるような、そんな日々を送るだけになっていた。そうか、だからすみれは……

ーーー笑わないんじゃない。笑えないのだ。

どんなにあやしても、その根本に怒りがあったのでは嬉しくないに決まってる。愛を感じられるから、幸せな気持ちになるのに。どうして今まで気づかなかったのだろう。百合子はリズが持つカップの絵を手にとり、そっと胸に押し当てた。水が溢れ幸せそうな動物達の絵柄を、心に映しとりたくなったのだ。目を閉じて眼裏に記憶していると
「水で消えない火はありません」リズの声が優しくしっとりと染み込んでくる。そうだ。大規模な火災も、戦争で日本を焼け野原にした猛火も、水の力には、人が持つ愛には抗えなかった。

ーーーならば、私にだってできるはず。

「百合子さんも、心のカップから水を注ぎ続けて下さい。そうしていれば、いつか怒りの炎は埋み火くらいになりますから。そうしたらきっとーーー」リズの言葉が途切れて、百合子は目を開けた。夜空に星を散りばめたような瞳とぶつかり、吸い込まれそうになる。「きっと」と彼女は繰り返し、柔らかく微笑んでから言った。
「百合子さんの未来は、変わっていくと思います。百合子さんの望む方向へ」
「望む方向ーーー」その言葉の意味と希望を噛みしめていると、リズが棚の下の引き出しから大判の白い紙を取り出し、汚れないよう紙袋へ入れてくれた。
「なので、沢山イメージして下さい。誠さんとすみれちゃんと、どんな家庭を築いていきたいか、どうか幸せな未来を」紙袋を渡された時に触れたリズの指の温もりに励まされ、百合子は誓いを立てるように宣言する。
「わかったわ、精一杯やってみる。私、時間がかかってもいいから絶対に幸せになってみせる。2人と一緒に」言葉にすると、なんだか本当に叶いそうな気がしてくるから不思議だ。指にとまっていた蝶が飛び立っていく。それを見た彼女は、ラブのいる長机まで行くと、窓を押し開けた。ムーンストーンから生まれた沢山の蝶が、闇を彩るように一斉に羽ばたいていく。それを見送る百合子の横顔は、清々しいほど凛としていて美しく見えた。
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