妖精

文字数 1,635文字

あちらの空にも満月が出ていたのかしら。ふとそう思い、ここに来るまで空を見上げる心の余裕すら失っていたことに気づく。窓を閉めて椅子に腰かけた百合子は、机の上のガラス皿に目をとめた。いくつも盛られた白い石の一つをつまみあげ、ビーズランプの明かりに透かすようにかざすと、石の中心が青く煌めく。その神秘的な青は、マンホールを包んでいた炎を彷彿とさせ、今更ながら忘れていた存在を思い出させた。

ーーーこのお店に入っていった光の玉はどこにいったのかしら?

キョロキョロと室内を見回していると
「どうかしました?」と軽やかな声が降ってくる。木製のトレーを持った女性は、琥珀色に満たされたカップを2つ机に置くと、もう一つの椅子に座り、百合子と向かい合うように体の向きを変えた。
「カモミールティーです。よかったらどうぞ」勧められるがままに一口飲むと、爽やかな林檎の香りが鼻に抜けていく。カラカラに渇いていた喉が潤うと、体のこわばりが解けて心が落ち着いた。
「光の玉を探していたのよ。私と一緒にこの部屋に入ったはずなんだけど」言ってから百合子は補足するようにここに来るまでの経緯を説明した。自分が人間だということ、目の前に突然現れた光の玉を追ううちに、不思議な穴を見つけ、その穴に光の玉とともに吸い込まれてここにたどり着いたということを。
「あなたが探してる光の玉というのは、妖精のことですよ」女性の答えを聞いても、百合子にはいまいちピンとこない。頭にある妖精のイメージが光の玉とかけ離れているからだ。納得できないという表情の百合子に構うことなく、女性の膝の上にのった猫が後を引き継ぐ。
「妖精は人界に遊びに行くからな。お前がついていったっていう光の玉は、人界からこっちに帰る妖精だったんだろ。で、さっきお前が閉めた窓から出ていったんだよ」確かに矛盾のない解答だ。でもイメージの問題は解決されないまま燻っている。
「ちょっと待って、妖精妖精っていうけれど、じゃあなんで羽が生えてないの?」百合子は机の上に飾ってある絵をとって、女性の方へ向けた。波打ち際で遊ぶ少女の背中には、虹色に輝く羽がしっかりと描かれている。
「妖精ときいてイメージするのはこういう羽のある姿なんだけど。本当に私が見たのは妖精なの?あの光の玉は虫なんじゃない?人界にもあれによく似た蛍……」言いかけて百合子は中途半端に言葉を切った。絵に視線をおとしていた女性が、「蛍」という単語を口にした途端、勢いよく顔を上げたからだ。
「ど、どうしたの?」と訊くとあからさまな反応だったにも関わらず、女性は「いえ、なんでもないですよ」と両手を振り笑ってごまかす。微妙にギクシャクした空気を破ったのは、女性の膝の上で寛ぐ猫だった。
「イメージの違いだかなんだか知らんが、要は光の玉とその絵の妖精が同じものだってことを証明すりゃいいんだろ。」百合子が頷いてみせると
「だったら説明するより見た方が早いな」と言ってひょいと床に降り立った。そして後肢だけで立つと、前肢の肉球と肉球をポンと打ち合わせる。人間で言えば柏手を打つイメージか。すると猫の体が淡い光に包まれて、体の輪郭がたなびく曇のように曖昧にぼやけ始めたかと思うと、霧が蒸発するように消えた。驚いて百合子が2、3度瞬きをした直後、窓を閉めきって無風なはずの室内に、風が生じる。見覚えのある光の玉が現れたのは、その風がおさまってすぐのことだった。

ーーー菊の花を投げ捨てたことを、後悔してた時に現れたのと同じ光だわ。

光の玉は百合子をからかうように、顔の周りを飛び交うと、ビーズランプのある天井まで上昇する。そして細かく震えながら玉のサイズを大きくし、入道雲のように輪郭をはっきりさせると、徐々に形を取り戻していく。そうしてグレーの猫が再び姿を現した時、百合子は「あ!」と叫んで大きく目をみはった。猫は床に降り立つことなくふわふわと翔んでいる。その背中には絵の中の妖精と同じ、虹色に煌めく羽が生えていたーーー。
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