誕生

文字数 1,500文字

怒って中断してしまった話の続きをしよう。温度差は理解してもらうことで近づくはずだと信じて。再開させた記憶の中で、百合子は分娩室の中にいた。陣痛室を出て母に付き添ってもらいながらここまで来る間に、誠さんの姿はどこにも見当たらなかった。本当は出産に立ち会ってもらいたかったのだが、血が苦手な彼が分娩室の中で倒れたりしたら厄介なことになる。だから、いよいよ本番となったら、産まれるまで廊下にあるソファで待つと、待ってると約束したのに。

ーーー『出ていけ』とは言ったけど、いなくなれとまでは言ってないじゃない。なによ嘘つき!

最初の頃こそ、裏切られたという怒りのエネルギーを糧に順調にいきんでいた百合子も、一時間経つ頃には泣き言を洩らしはじめた。
「本当に産まれるんですか?痛すぎ。もうヤダぁ……」と泣きつくも
「初産なんてこんなもんよ。ほら頑張って!もうすぐだから」といなされるだけだ。

ーーー嘘だ。さっきからもうすぐ、もうすぐってそればっかり。なのに全然出てきやしないじゃない。

なかなか進まないお産に対する苛立ちに加え、赤ちゃんが出てこないのは、まだ自分が母親になるには未熟すぎることを赤ちゃんが察して、だからまだ産まれたくないと踏ん張っているのではないか、などと情けなさが顕になり自己肯定感がみるみる下がっていく。それでも助産師さん達の激励を頼りに、陣痛がくるたびいきみ続けた百合子だったが、ずっとかさついて気になっていた唇が切れた時、ついに激しい惨めさに襲われてキレた。
「もういいからお腹に戻れぇ!」産道にはまったまま、出てこない赤ちゃんへ八つ当たる百合子の頬がぴしゃりと鳴る。
「痛いのはお母さんだけじゃないの!赤ちゃんはもっと痛いのよ!狭い産道に挟まれて、苦しい苦しいって叫んでるのよっ、しっかりなさい!」ベテラン助産師さんの厳しい渇に

ーーーわかってるわよ、そんなこと!でも痛いもんは痛いんだっつうの!!

と心中で言い返しながら、それでもその瞬間、百合子は自分の中でスイッチが切り替わるような何かを感じた。『叫んでる』とは熱のことだ。この下半身を焼きつくさんばかりのエネルギーの塊。それは命の輝きだ。ここから早く出たい!怖い!苦しい痛い!助けて!ーーーママ!!暗いトンネルの中に座り込み、必死に手を伸ばして叫ぶ我が子に呼ばれた気がして、百合子は再び渾身の力でいきむ。決意も覚悟も足りていなかった。自分ばかり痛い痛いと叫び散らかして、この子は声すらあげられないのに。恥ずかしい!泣き言を言っててどうする。この子の手を引いて背中を押して、明るい場所に導けるのはっ、世界を見せてやれるのは!私しかいないだろ!!

ーーーそうだ。誰が産むでもなく、産ませてもらうでもなく、私が産むんだ!!!

迷いの消えた心からマグマが噴き出す。自分の皮膚も骨もドロドロに溶けてくれていいから、まだ見ぬ我が子に光を見せてあげたい。その一心で文字通り百合子は死ぬ気でいきみ続けた。
「もう頭出るよー!あとちょっと!頑張れ!!」分娩台に上がってから、もうどのくらい経ったかわからないが、百合子は霞む視界の中で白いテープを見た気がした。ゴールが間近だとわかった途端、腹の底から力が湧いてくる。地鳴りのような唸り声をあげて、百合子は力の限りにいきむ。掴んでいる分娩台のバーを折ってやるくらいの気概で。頭の血管はブチ切れそうだし、顔は焼けるように熱く、目は飛び出てしまいそうなほどだ。直火で熱したボウリングの球を出しているような痛みに続き、ドゥルンと何かが出る感覚がして
「産まれましたよ~!」という助産師さんの言葉を、朦朧とする意識の中で百合子はきいた。
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