絶望
文字数 2,232文字
分娩室から病室に移った百合子は、ただひたすらに誠さんが来るのを待ち続けた。母は百合子の家に様子を見に行ってくれている。家電がないから誠さんがいるかどうか確かめる術が他にない。ありえない話ではなかった。病院ではスマホをマナーモードにしていたし、それを解除し忘れた彼が家で寝ていたとしたら、何度電話しても気づかない可能性は十分にある。
ーーーどうか、そうであってくれますように。
祈るように両手を組んで目を閉じると、少しだけ体の緊張が解けた。もう窓の外はすっかり暗いのに、白一色の室内は無駄に明るくて、その不自然さが百合子を落ち着かなくさせていたのだ。何も見えない世界で、微かな音を拾っていると心が凪いだ。雨の音と、廊下を歩く足音や人の声に混じって、讃美歌のように優しい噴水の音色が、閉めきった窓を通り抜けて百合子の耳殻をくすぐる。そうしていくらか落ち着きを取り戻した頃、ふいに控えめなノックの音がした。心臓が小さく跳ねるのを感じながら、百合子はじっとドアを見つめる。母は10分程前にここを出たばかりだ。まだ家にも着いていないだろう。ならば様子を見にきた助産師さんか。そう思って「どうぞ」と応じたのに、なかなか入ってこない。聞こえなかったのかと焦れて、百合子が再び声を出そうとしたその時、ようやくドアが開いた。現れたその人を見て、一瞬虚をつかれたように目を瞪った彼女だったが、すぐにその唇に頬に、安堵の表情が広がっていく。そこにいたのは確かに誠さんだった。
「もうとっくに産まれたわよ。電話も繋がらないし心配したじゃない。今までどこに……」泣き笑いのように少し湿っぽく、けれど最後まで言いきる前に百合子は口をつぐむ。誠さんの様子がおかしいのだ。妙に黒々とした目は百合子を見ていない。何も映さない空っぽな、洞穴のように暗い目。服も色が変わるほどにぐっしょりと濡れていた。車で出かけていたにしては不自然なくらいに。百合子の顔から一瞬にして笑みが消えた。何かあったことは一目瞭然で、心に不穏なすきま風が吹き、指先も冷えていく。それでも百合子は必死に、努めて優しい声色を意識して訊いた。
「どうしたの?誠さん……?」儚く揺れて、消えてしまいそうに小さな声だったけれど、なんとか届いたらしい。百合子の声の柔らかさや温度が、そうさせたのだろう。まるで呼水につられたかのように、誠さんは嗚咽を漏らして泣き出した。しゃくりあげる度に肩が揺れて、手にぶら下げたビニール袋が乾いた音をたてる。小さな子どもが泣いているようで、胸が苦しいほどに締めつけられた。百合子の瞳にも泪が滲む。いてもたってもいられなかった。理由はわからずとも、すぐにでもそばに行って抱きしめたくなるような、それほどまでに今の誠さんは、脆く壊れそうに危うい。百合子は痛む体に鞭を打ち、上半身を起こすと体を覆っていた掛布を捲った。脚をもぞもぞと動かし、ベッドの縁まで移動しようとして彼女は言葉を失う。誠さんが両手両膝を床につけ、額を打ちつけんばかりの勢いで頭を下げたからだ。唐突すぎる展開に百合子は目眩を覚える。霞む視界の中に、ビニールから転がり出たゼリーやプリンのパッケージ。どれも彼女の好きなものばかり。
ーーー私のために買ってきてくれたんだ。
けれど、続く誠さんの告白に、正常な思考は音をたてて崩れていく。
「すまない!事故をおこしてしまったんだ。高校生の女の子を死なせてしまった!……こんな時に、こんな大切な日にっ、僕の、せいで……!」
うっ、あああああああああーーー!!!
言葉にならない絶叫が空気を切り裂いた。誠さんの手が、全身が、ガタガタと震えている。パニック、恐怖、脅え。それら全ての感情に極限まで追い詰められ、壊れてしまったかのように。
ーーーなにか、言葉を。なにか、なにか言わなきゃ。なにを?なんて……?
考えようとすればするほど、頭の中に白い煙が充満していく。やがて、完全に思考停止状態に陥った百合子の耳に、ザアザアと不快な音が流れこんできた。朝から降り続ける雨の音か、病院の噴水の音なのか、はたまた誠さんの胸中に吹き荒れる嵐の音か。たぶんそのどれもだ。それら全ての雑音が混ざり合い膨れ上がって、巨大な怪物と化す。不気味なそれは、誠さんを遥か遠くに投げ飛ばし、抵抗する百合子の腕を食いちぎり、果ては百合子が抱いていた赤ん坊まで取りあげた。泣き喚く我が子が今まさに、怪物の手の中で握り潰されようとしているのを見て、彼女は狂ったように懇願する。
やめて!殺さないで!!返して!!!……いや!いや!!……やああああああーーー!!!
叫びも虚しく血の雨が降ってくる。赤ん坊の体内を駆け巡っていたはずなのに、その血は絶望的に冷たかった。まるで、氷柱のように残酷な絶対零度でもって、百合子の心臓を串刺しにする。やがて水溜まりのようになった血は、池となり底なし沼となって彼女を引きずりこんだ。抗う術も力もなく沈んでいきながら、百合子はふと理科室のホルマリン漬けを思い出す。死んでいるのか、生きているのかわからない不気味な昏さ。
ーーーああ、これは、言葉で繋ぎとめられなかった、自分への罰なんだ。
だから思い描いていた未来を奪われて、粉々に砕かれても、文句を言う権利もなければ、死んで楽になることすら許されない。このまま永遠に、この冷たい血の海の中で、死んだように生きるしかないのだろう。
「ごめんなさい」と呟いて、百合子は諦めたように目を閉じた。
ーーーどうか、そうであってくれますように。
祈るように両手を組んで目を閉じると、少しだけ体の緊張が解けた。もう窓の外はすっかり暗いのに、白一色の室内は無駄に明るくて、その不自然さが百合子を落ち着かなくさせていたのだ。何も見えない世界で、微かな音を拾っていると心が凪いだ。雨の音と、廊下を歩く足音や人の声に混じって、讃美歌のように優しい噴水の音色が、閉めきった窓を通り抜けて百合子の耳殻をくすぐる。そうしていくらか落ち着きを取り戻した頃、ふいに控えめなノックの音がした。心臓が小さく跳ねるのを感じながら、百合子はじっとドアを見つめる。母は10分程前にここを出たばかりだ。まだ家にも着いていないだろう。ならば様子を見にきた助産師さんか。そう思って「どうぞ」と応じたのに、なかなか入ってこない。聞こえなかったのかと焦れて、百合子が再び声を出そうとしたその時、ようやくドアが開いた。現れたその人を見て、一瞬虚をつかれたように目を瞪った彼女だったが、すぐにその唇に頬に、安堵の表情が広がっていく。そこにいたのは確かに誠さんだった。
「もうとっくに産まれたわよ。電話も繋がらないし心配したじゃない。今までどこに……」泣き笑いのように少し湿っぽく、けれど最後まで言いきる前に百合子は口をつぐむ。誠さんの様子がおかしいのだ。妙に黒々とした目は百合子を見ていない。何も映さない空っぽな、洞穴のように暗い目。服も色が変わるほどにぐっしょりと濡れていた。車で出かけていたにしては不自然なくらいに。百合子の顔から一瞬にして笑みが消えた。何かあったことは一目瞭然で、心に不穏なすきま風が吹き、指先も冷えていく。それでも百合子は必死に、努めて優しい声色を意識して訊いた。
「どうしたの?誠さん……?」儚く揺れて、消えてしまいそうに小さな声だったけれど、なんとか届いたらしい。百合子の声の柔らかさや温度が、そうさせたのだろう。まるで呼水につられたかのように、誠さんは嗚咽を漏らして泣き出した。しゃくりあげる度に肩が揺れて、手にぶら下げたビニール袋が乾いた音をたてる。小さな子どもが泣いているようで、胸が苦しいほどに締めつけられた。百合子の瞳にも泪が滲む。いてもたってもいられなかった。理由はわからずとも、すぐにでもそばに行って抱きしめたくなるような、それほどまでに今の誠さんは、脆く壊れそうに危うい。百合子は痛む体に鞭を打ち、上半身を起こすと体を覆っていた掛布を捲った。脚をもぞもぞと動かし、ベッドの縁まで移動しようとして彼女は言葉を失う。誠さんが両手両膝を床につけ、額を打ちつけんばかりの勢いで頭を下げたからだ。唐突すぎる展開に百合子は目眩を覚える。霞む視界の中に、ビニールから転がり出たゼリーやプリンのパッケージ。どれも彼女の好きなものばかり。
ーーー私のために買ってきてくれたんだ。
けれど、続く誠さんの告白に、正常な思考は音をたてて崩れていく。
「すまない!事故をおこしてしまったんだ。高校生の女の子を死なせてしまった!……こんな時に、こんな大切な日にっ、僕の、せいで……!」
うっ、あああああああああーーー!!!
言葉にならない絶叫が空気を切り裂いた。誠さんの手が、全身が、ガタガタと震えている。パニック、恐怖、脅え。それら全ての感情に極限まで追い詰められ、壊れてしまったかのように。
ーーーなにか、言葉を。なにか、なにか言わなきゃ。なにを?なんて……?
考えようとすればするほど、頭の中に白い煙が充満していく。やがて、完全に思考停止状態に陥った百合子の耳に、ザアザアと不快な音が流れこんできた。朝から降り続ける雨の音か、病院の噴水の音なのか、はたまた誠さんの胸中に吹き荒れる嵐の音か。たぶんそのどれもだ。それら全ての雑音が混ざり合い膨れ上がって、巨大な怪物と化す。不気味なそれは、誠さんを遥か遠くに投げ飛ばし、抵抗する百合子の腕を食いちぎり、果ては百合子が抱いていた赤ん坊まで取りあげた。泣き喚く我が子が今まさに、怪物の手の中で握り潰されようとしているのを見て、彼女は狂ったように懇願する。
やめて!殺さないで!!返して!!!……いや!いや!!……やああああああーーー!!!
叫びも虚しく血の雨が降ってくる。赤ん坊の体内を駆け巡っていたはずなのに、その血は絶望的に冷たかった。まるで、氷柱のように残酷な絶対零度でもって、百合子の心臓を串刺しにする。やがて水溜まりのようになった血は、池となり底なし沼となって彼女を引きずりこんだ。抗う術も力もなく沈んでいきながら、百合子はふと理科室のホルマリン漬けを思い出す。死んでいるのか、生きているのかわからない不気味な昏さ。
ーーーああ、これは、言葉で繋ぎとめられなかった、自分への罰なんだ。
だから思い描いていた未来を奪われて、粉々に砕かれても、文句を言う権利もなければ、死んで楽になることすら許されない。このまま永遠に、この冷たい血の海の中で、死んだように生きるしかないのだろう。
「ごめんなさい」と呟いて、百合子は諦めたように目を閉じた。