泪の色

文字数 1,668文字

そして事故の影響は、令奈にも確実に及んでいた。卒業式を終えて、大学の入学式を待つまでとなった春休みのある朝のこと。両親と食卓を囲む令奈は、不自然に俯いてご飯を食べていた。居間のテレビが満開の桜並木を映しているというのに、それを見ようともせずもくもくと箸を動かしている。やがてニュース番組が朝の星座占いのコーナーに切り替わると、ようやく令奈は顔をあげた。だが、

ーーー今日の獅子座のラッキーアクションは「散歩」だよ!

という陽気な声を聞くなり、これみよがしなため息をつく。しかし令奈の父親はそういった些細なことに鈍いタチで、あろうことか娘の神経を逆撫でするようなことを口にした。
「散歩か、公園にでも行ってきたらどうだ。桜が綺麗だぞ」
「ちょっと!」対面に座る妻が天井を指差しているのを見て、彼は自分の失言に気づいたものの、時すでに遅しだ。令奈は持っていたお茶碗と箸を乱暴に置くと、椅子を蹴るようにして立ち上がりヒステリックに叫ぶ。
「何度も言ってるじゃん!潔く散る花は嫌いだって!あんな花、大っ嫌い!!」朝だというのに天井の明かりが煌々とついているのは、カーテンを閉めきっているからだ。庭には立派な桜の樹があるのに、もったいないと蛍は思う。けれど今にも泣き出しそうな、張りつめた表情で立っている令奈を見ると、そんな気持ちも急速に冷えていく。足音荒く居間を出て、階段を上っていく彼女の後を蛍は追いかけた。「ごめんね」と言いたいのに言えないことが、こんなにも辛いことだなんて生きている時は想像もしなかった。自室に駆け込んだ令奈の口から、グラスの中の氷と氷が擦れあうような、悲鳴にも似た声が洩れる。くしゃくしゃに歪んだ泪に濡れた顔で、令奈が見つめる先には沢山の絵があった。蛍が空想した世界観を描いた思い出の数々。白いキャンバスに絵具を重ねるように、共有してきた時間と温もりの詰まったそれら全てが、今の令奈にとっては凶器だ。向かいくる沢山の鋭い切先が、彼女の膚を切り刻み抉っていく。耐え難い痛みと恐怖はやがて、怒りと憎しみにすり変わり、体内に烈火の火種を生んだ。火種はあっという間に燃え広がり、煙が令奈の正常な思考をかき消していく。考えることを放棄した彼女は、衝動的に狂ったように壁に貼られた絵を引き剥がす。乱暴な手つきで紙が破れようがお構いなしだ。

ーーー思い出ごと私との出会いも、共に過ごしてきた日々も全部葬り去ろうとしてるーーー!?

嫌だ!!!腕があったらしがみついてとめるのに。声が出せたらあらんかぎりに「やめて」と
叫ぶのに。蛍は何もできない無力な自分を本気で呪い、声にならない声で叫び続けた。

ーーーやめて!!なかったことにしないで!!!

それでも令奈の暴走はとまらない。壁の絵だけにとどまらず、彼女は机の上の画材道具さえも床に叩きつけた。もう絵なんか描きたくないとでも言うように。ぎっしり絵筆の入った瓶が粉々に砕け散り、令奈はその破片を手にすると鋭利な部分で思いっきり紙を引っ掻く。2人で作り上げた作品がぼろぼろになっていくのを、蛍が気が狂いそうな想いで見ていると階下から足音が近づいてきた。部屋のドアを開けて入ってきたのは令奈の母親で、彼女は娘の頬を叩くとガラスの破片をもぎとる。
「やめなさい」僅かに怒気のこもった口調の中に、強い優しさがあった。そのまま華奢な娘の身体を包み込むように抱き締めて、彼女は言葉を紡いでいく。
「わかったから……もう大丈夫だから。そんなふうにしないの。辛いなら思いっきり泣けばいいのよ、ね?」背中をあやすように優しく撫でられて、令奈の瞳から大粒の泪が溢れ出た。その泪に色があるとすれば、絵具のついた筆を何度も洗った後の、汚れた水の色をしているだろう。苦しい想いや辛い気持ちや寂しさの詰まった泪は、紙を穿つほどに重そうだ。蛍はしゃくりあげながら、声をあげて泣く令奈を見て、何度も何度も「ごめんね」と謝る。言葉にできないから今は伝わらないかもしれないけれど、いつか感じとってくれる日がくるかもしれないことを、信じたいと思った。
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