兎貝

文字数 1,224文字

蛍が悔しい想いを抱えていると、女性は棚から掌サイズの貝殻と白い羽ペンを取り出して得意気に胸を反らす。
「声をもたなくても、この2つがあれば大丈夫」朗らかに言ってにっこりと笑うその笑顔は日だまりのように暖かく、もやもやとした感情を一瞬にして吹き飛ばすほどの力強さがあった。その笑顔に励まされ蛍が机の上の貝殻を観察していると、窓辺で日向ぼっこをしていた猫がよってきて、あろうことか前肢で貝殻をつつきだす。机の中央にあった貝があっという間に端に追いやられ、今にも落ちそうになっているのを蛍がひやひやしながら見守っていると、奥のカウンターから小さな水差しを持って女性が戻ってきた。
「ラブ、それ以上いたずらするなら水かけるわよ?」頭上で水差しを傾けて脅す女性に、ラブはぶるりと身体を震わせると、軽い身のこなしで床に飛び下り怒りをぶちまける。
「なんだよリズ、お前が悪いんだぞ。毎度寝てる俺の顔のそばにその貝殻置いて、寝息から夢の内容を盗み聞きさせるとか悪趣味かよ。嫌いなんだよその貝殻。壊れちまえばいいのに」猫が人の言葉を喋ったという事実よりも、夢の内容を『見る』ではなく『聞く』という違和感に蛍が戸惑っていると、法螺貝のような形状の貝殻に水を注ぎながらリズが説明してくれた。ラブの抗議など、どこ吹く風といった涼やかな顔で。
「この貝はね、声なき者の想いを拾うことができるのよ。花の根本に置いておけば、茎が水を吸う音から想いを聞くことができるし、貴女のような存在なら、光の強弱の波動から同じことが可能なの」説明を聞き改めて貝殻を見た蛍は、ぼんやりとではあるけれど、リズの言わんとすることを理解した。それに貝殻の外側は白いけれど、内側は聴覚に優れたうさぎの耳と同じ、優しいピンク色をしている。確かに『聞く』ことが好きそうな貝だ。寝息にも温度や湿度があるから、そういったものから夢の内容を聞きとれるのだろう。

ーーーだから盗み聞き、か。

ふとラブを見やれば、諦めたように床で丸くなっている。
「その貝殻は想いや内容を全部聞き終えると、内側の色が全て抜けるんだ。水を入れておけばピンク色のインクになる」
「そうしたらこれの出番よ」とリズは白い羽ペンを持って、タクトを振るように手首を動かしてみせた。
「お喋りなオウムの羽をこうして……」と彼女は水を入れた貝殻の中にペン先の軸をつけこむと、悪戯っぽく唇の端を吊り上げる。
「インクを吸って白い羽がすっかりピンクに染まったら、紙の上に絵を描いて夢の内容や想いを教えてくれるというわけ」ラブが怒る理由がわかった気がした。夢の内容によっては秘密にしておきたいことだってあるだろうに。蛍が密かに同情をよせていると、リズが水の入った貝殻を近づけてきた。
「さて、じゃあそろそろ貴女の話を聞こうかしらね。絵を描くのが好きだったのかどうかも知りたいし」そう言って机の上で両手を組んだ彼女の顔に、もう悪戯な気配は微塵もない。ただ真摯な瞳が蛍を見ていた。
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