奇跡

文字数 1,365文字

その日の夜、百合子は早速モビール作りにとりかかった。眠って明日の朝を迎えたら、この情熱が消えてしまうかもしれない。それだけは嫌だと思ったのだ。テーブルに向かい、百合子は用意しておいた星のクッキー型を取ると、工作用マットの上に敷いた煌めく紙に押し当てる。クッキー型はいつかすみれと、お菓子作りをする時のために購入したものだ。目を閉じた百合子の眼裏で、のし棒で広げた生地から、すみれが楽しそうに星を型抜いている。型から取り出した星を、手のひらにのせて見せるその先には、カメラを構えた誠さんがいてーーー。
思わず微笑んでしまうくらいに幸せな未来を思い描くと、百合子は型に沿って鉛筆で線を引いていく。開け放してある居間の扉から、シャワーの音が聞こえてきた。母がすみれをお風呂に入れてくれている。いつもは百合子がやるのだが、今日は時間を作るために交代してもらった。仕事の間育児をカバーしてもらっているため、お願いするのは気がひけたけれど、母は思いのほか喜んで引き受けてくれた。そのことに感謝しながら、百合子は線に定規を当てると、カッターで慎重に紙を切っていく。かなり久しぶりの工作だからか、定規を押さえる手にもカッターを持つ手にも、無駄に力が入ってしまってやりにくい。緊張しながら星を3つ切り終えた時、座っている椅子の脚に軽い衝撃を感じた。すみれが椅子にしがみつくようにして立っている。濡れた髪から水が滴り落ちているところを見ると、どうやら髪を拭かれるのが嫌で逃げてきたらしい。
「すみちゃん、風邪ひいちゃうよ」追いかけてきた母からタオルを受け取り、百合子はすみれを膝の上に抱き上げると髪を拭いてやる。そうして乱れたのを手櫛で直していると、すみれが切り抜いた星に手を伸ばした。紙をうまく拾えずもどかしそうな様子に、百合子はつまんだ星をすみれの手のひらにのせた。天井の明かりを反射してキラキラ光る星が、すみれの瞳の中で瞬いている。それを綺麗だなと思って見ていると、不意にすみれが笑った。花の蕾が綻ぶように優しくふんわりと。息を詰めてその笑顔に釘付けになっていた百合子は、唐突に手で口を押さえた。油断したら湿った声が漏れてしまいそうなほどの感情の揺れ。陽射しが当たっているかのように心がほかほかとして、目頭がじんわりと熱くなる。すみれが初めて笑ってくれた。たったそれだけのことでこんなにも胸が震え、細胞が喜びに沸き立つなんて。百合子はすみれを抱きしめながら、ぼろぼろと泪を溢した。泪は心の砂地にしとしとと降り注ぐ雨のように優しい。湿った土を陽が温め、やがてそこに一つの芽が出ると、それは百合子の体内を飛び出して地に根を張った。目をみはる速度で成長した大樹は、天井を突き破り枝を伸ばすと、青葉を繁らせる。不思議だった。窓の外は暗いのに、天井から見える空は青くて、葉と葉の隙間から宝石のような木漏れ日が降ってくる。

ーーー奇跡だ。まぐれのような奇跡がおきた。

百合子は泪を拭うと照れくさそうに笑う。
「お母さん私、明日誠さんに会いに行ってくる」本当は今すぐそうしたいけれど、今日はもう遅い。でもこの奇跡と喜びの余韻が残っているうちに、行動したいと思った。吹っ切れたように迷いのない百合子の顔を、すみれがじっと見つめている。その瞳には希望の一番星が輝いていた。
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