亀裂

文字数 1,267文字

そのことを、トイレのドアの前で待っていた誠さんに告げると、彼はわずかな動揺すらみせたものの、すぐに百合子のスマートフォンから病院に連絡をしてくれた。その行動力を頼もしく感じて涙が滲みそうになるが、ぐっと堪えて百合子は寝室に向かう。ベッドの脚下に用意しておいた、大きめのバッグを持ってリビングに戻ると、誠さんは冷蔵庫に貼ってあったメモをはがして通話を切った。
「内診の結果次第では入院になるかもって言われたよ」不安が顔に出ているだろう自分に、努めて穏やかに話してくれている。その気遣いに心が震えて堪えていた涙が噴き出してしまった。誠さんが持っているメモには、入院の際に必要になる物のリストが書かれている。それとバッグの中身を2人でチェックし、身支度を整えて家を出た。百合子がアパートの階段を下りる時も車に乗り込む時も、誠さんは率先して手をとり背中を支えてくれる。それはまるで、知らない夜道を歩く百合子の足下を、懐中電灯の明かりで照らし出すように心強く、病院に着く頃には百合子の気持ちも落ち着いていた。
内診の結果改めて破水と診断され、入院することになったものの、なかなか陣痛がこない。変化があったのは翌日の早朝、空が白々と明けはじめた頃。下腹部に生理痛のような重だるさを感じ、不規則な痛みが出てきた。それでも朝の内診で診てもらうと、子宮口の開きにあまり変化はないという。そこで促進剤を点滴で入れることになったのだが、それで劇的に痛みが増すなんてことはなく、その後に出された朝食も完食できたほどだ。こんな状態で本当に生まれてくるのだろうか。不安が拭えない百合子だったが、昼前には規則的な陣痛がきて、あれよあれよという間にお産に向けて激しくなる痛みに、百合子は汗をぶん流し「痛い痛い」と叫び散らかしながら、何度も何度もナースコールボタンを押した。すでに昼に来てくれた母の献身的なサポートを受け、誠さんに手を握り続けてもらっていたにも関わらず、それだけでは耐えきれないほどの激痛の波。駆けつけてきてくれた助産師さんに、テニスボールで肛門を押さえてもらうと痛みがほんの少し和らいだ。そこで助産師さんの代わりに、レクチャーを受けた誠さんが続けてやってくれることになったのだが、これが超絶下手すぎた。力加減なのか押す角度の違いなのか、誠さんが押した途端腰に突き刺すような激痛が走り、百合子は力一杯彼の手を振り払ってしまう。
「痛っ!もういい触らないで!!」決して傷つけようとして言ったわけではないけれど、すでに骨盤が砕けそうな痛みの最中に生じた新たな刺激は、言葉を選ぶ余裕すら奪う。百合子は誠さんに背中を向けた姿勢だから、彼の顔は見えなかったけれど、沈んだ表情をしているだろうことは容易に想像がついた。情けなかった。叫ぶことしかできず、やつ当たってそのフォローすらできない。百合子は悔しくて泣いた。

ーーー違うの誠さん。わかってるのちゃんと……そばにいてくれるだけで、本当はどんなにか……

想いは溢れてくるのに、痛すぎて大切なことは何一つ言葉にできなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み