破壊

文字数 1,379文字

「笑うな!!」叫んだ勢いそのままに、彼女は紅茶の入ったカップを払い落とす。誠さんは痛みがわからないながらも、精一杯私の身体を気遣ってくれた。陣痛の辛さだって、彼の絶え間ない懸命な声かけと、握りしめてくれる手の温もりがあったから、なんとかのりこえられたのに。それをわかっていながら私は、誠さんのたった一回の失敗に腹をたてて『出ていけ』という言葉一つで全てを台無しにしたのだ。注がれた優しさも、私のことを大切に想う心と寄り添う気持ちも。そしてなにより、妊娠してから今までお互いに築き上げてきた信頼関係を土台から。それなのに伝わらないなんて。誠さんが受けた心の傷の重さが、その程度にしか感じてもらえないなんて……。
悔しさのあまり、百合子は燃えあがる衝動を抑えきれずに、呆然とするリズを突き飛ばしてしまう。
「誠さんが負った傷は、あんたに笑われて吹き飛ぶほど軽いものじゃなかったんだよ!!」床に落ちて砕け散ったカップの耳障りな音が、さらに百合子の神経を逆撫でた。
「それくらい、ちょっと想像すればわかるでしょう!?」傷つけた分際で何を言っているのか。じゃあ感情のままに『出ていけ』と口走った自分はーーー?誠さんがどんなふうに傷つくか、少しでも想像したのか。リズに向けた怒りはブーメランとなり戻ってきて、百合子の柔い部分を深く抉る。キャンプファイヤーの炎が水をかけられて勢いをなくすように、百合子の激情も急速に冷めていく。するとそれまで怒りに遮断されていた声が、鋭さをもって耳に飛び込んできた。
「肩から手をはなせって言ってるだろ!」意味を理解するより早く、グレーの塊が百合子の顔の前を横切り手の甲を引っ掻く。白い筋がみるみる赤く染まり、血がぷっくりと盛り上がるのを見ていると、絞り出すような声がした。
「い……痛い」百合子の目に苦痛に歪むリズの顔が映り、それでようやく状況を理解する。衝動に任せて突き飛ばした後、リズの上に覆い被さるような体勢になり、彼女の華奢な肩を床に押しつけていた。
「ごめんなさい!ついカッとなっ……」言いかけたまま百合子は両手で口を塞ぐと、首を左右に激しく振る。言い訳に使ったら駄目だ。カッとなって誠さんを傷つけた挙げ句に、それがどんな事態を招いたか忘れたわけじゃないのに。どうして繰り返すの?バカなの?もう嫌だ……。消えてしまいたい。
惨めな想いは、リズの頬を伝う涙を見て一層色を濃くし、染みが広がる速度で心を浸蝕していく。百合子はリズから離れると、床に力なく座り込んで項垂れた。彼女の顔を見るのが怖い。突然突き飛ばされて痛い思いをしたのだ。当然怒っているだろう。原因が自分にあるのは明白なのだから、報いとしてその悪感情を受け取らないといけないのに、向き合う勇気がなくて逃げている。弱くて卑怯で、責任もとれない。情けなくて恥ずかしくて泪が滲む。揺れる瞳が、砕け散ったカップを捉えた時、ついに百合子は声をあげて泣き出した。カップはリズの心で、満たされた紅茶は彼女の温かな想いだったのに。壊してしまった。私が癇癪をおこしたせいで、一瞬にして全てが。割れた心は元に戻せないし、床に広がった想いは冷めきっている。倒れているリズは息をしているだろうか。揺すっても動かなかったらどうしよう?百合子は恐怖にガタガタと震え、浅い呼吸を繰り返しながら大粒の涙をこぼした。

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