不安

文字数 1,267文字

続いて天井を突き破らんばかりの産声があがる。

ーーーちゃんと息をしてる。

それを確認できただけで、もう十分だった。心が震えるくらい嬉しくて、勝手に涙が溢れてくるのをとめられない。綺麗にしてもらった赤ちゃんを胸に抱かせてもらうと、産まれてきてくれてありがとうという感謝の気持ちでいっぱいになった。温かくて小さくて、柔らかくて壊れそうなこの宝物を、守りきれる力と逞しさが自分にあるかどうか、母親が務まるか怖くてとても不安になる。けれど胸に抱いた赤ちゃんの、息づかいと重みを感じて、同時に強い責任感も芽生えた。

ーーーこれからは剣と盾を両手に、迫り来る敵全てと闘わなくちゃいけない。この子を守るために。

こういう感情を抱くこと、それこそが強くなるということなのだろう。自分の命を賭してでも守るべきものができたという誇りが、百合子の胸を熱くさせ、そう思わせてくれた我が子の存在が、言葉では言い表せないほどに愛おしかった。疲れも痛みも忘れて、まるで生まれ変わったかのように、目に映るもの全てが新鮮でキラキラと輝いて見える。だからだろうか、産まれたことを知って、廊下から分娩室に入ってきた母親の姿を見たとたん百合子は言った。自然に、こみあげてくる気持ちのままに。
「お母さん、私を産んでくれてありがとう」と。「よく頑張ったね、お疲れ様」母は涙ぐみながら百合子を労い頭を撫でてくれた。今まで生きてきた人生の中で、一番幸せなかけがえのない時間。ふわふわの毛布にくるまれて、柔らかな陽射しをさんさんと浴びているかのような。心地よくて、永遠にこの場所にいたいと思っていたからだろうか、百合子はすっかり誠さんのことを忘れていた。そのことに気づいたのは、スマホの画面を見て、首をひねっている母の顔を見た時だ。彼女は百合子と目が合うと、眉間に皺を寄せてため息をついた。
「さっきからずっと誠さんにかけてるんだけど、出ないのよ……」母いわく、百合子が分娩室に入ってからずっと、間をあけて電話をかけ続けているという。ということはもう、2時間以上繋がらないということだ。なんで出ないのよ、という怒りよりも不安の方が首をもたげる。『出ていけ』と言われ、腹をたてて拗ねていたとしても、こんなに長時間出ないなんてどう考えてもおかしい。 
「車がないから外に出てるんだろうけど」スマホを見つめながら言う母の声は、独り言のように小さな呟きだったけれど、百合子は聞き逃さなかった。おそらく母は、産まれるのを待つ間に駐車場まで探しにいったのだろう。そこで誠さんの車がないことに気づいたのだ。
「い、家で寝てるんじゃない?」そうであってほしいと願いながら口にしたけれど、不自然にどもってしまう。

ーーーだってそうでなければ、車で病院を出て電話が繋がらない、戻ってもこないなんて。あと考えられる可能性はーーー。

胸が不快にざわついた。息苦しい。頭に浮かんだ最悪な2文字は、打ち消そうとする百合子の意思とは反対に、大きく育っていく。もはや胸に抱いた赤ちゃんの重みを、幸せに感じる心の余裕すら失いかけていた。
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