第20話 最後のクライアント
文字数 5,195文字
MCバトルを終えたおれは、裏口から早々と抜け出して路地に飛び出した。すると、思わぬ出来事が起こっている。
裏口はやや混雑。___小さな人だかり。
まず目に入ったのが、折れて跡形もなくなった傘の残骸。次に割られたクラブ店の蛍光看板と、その破片が散乱している惨状だった。
数人が距離をとって見つめる先に、地面にへたれ込んで咽び泣いている女が見えた。近くでよく見ると詞折だ。
「これは彼女が?」とおれが尋ねると、そうだよと目撃者に言われた。
周囲を見回す。MCバトルの会場にいる観客たちが一斉に出てくると、マズい騒ぎになる気配がビシバシしてきた。
おれは詞折に近づいて肩を小突いた、
「何してる。とりあえず、こっち来な」
詞折はおれを見た。泣き顔の中にも敵意が満載されている。
「なに、ニセモノ?」
「本物のアキアスだけどな」
「ちがうでしょ。私には分かるんだよね。アキアスじゃないから」
ビルの間の暗がりまで詞折を引っ張っていく。
「ちょっとここで待ってろ」
急いで近くのパーキングエリアまで突っ走っていき、自分の車に乗り込むと、すぐさま発進させて裏路地に引き返す。
半壊しているクラブの電光看板に目がけて、スカイラインを突っ込ませて全壊させた。
車を降りると、見物していたB系の男らのところまで駆け寄る。
「申し訳ない、彼女の件は見なかったことに」
おれが万札を差し出すと、彼らは『いいぜメーン!』と言って、距離を保ったまま黙って事の成り行きを見守る態勢になった。
詞折はどうせテキパキ動けないだろうから、車に乗せることもできなかった。こうするしかない。折れた傘の残骸を拾ってスカイラインの中に隠しておいた。
おれはクラブの店員を見つけると、”ブレーキを踏み間違えた、すいません”、と説明をし、警察を呼んでもらうことになった。
「踏み違えたのかい! でもこれは弁償してもらわないなあ・・」
「もちろんです、すいません。自分でもビックリしましたよ。つい今しがた隣の会場で韻を踏み倒してきたところで、アクセルペダルも勢い余って踏み倒してしまったようで___」
店の人に運転免許証を預かってもらい、少しの間離れますが戻ってくるので、と断りを入れてから詞折のいる暗がりの隠れ場所に急いだ。
詞折は青いプラのゴミ箱の上に腰を下ろしている。
「気をつけろ。過失より故意の器物破損のほうがタチ悪いからよ」
おれはそう言って、どうすべきか迷った。詞折は泣きやんではいたけれど、大きく肩で息をして過呼吸になっている。
「あんま大きく吸い込むな、それ実はかえって良くない」
詞折はMCバトルの会場にいたようだった。
「どうしてこんな”嫌いな奴ら”のステージを見に来たよ? 自分が一番来るべき所じゃないだろ」
詞折はおれの方を向く。「一昨日、お父さんが亡くなった」
彼女は消耗しきっているように見える。おそらく、たくさん泣いたのだろう。涙を流すと消耗する。おれも時々泣くことがある。
「___そうか、残念だった。それで?」
「前にも言ったよね? わたし暴力的なものがすごく嫌い。そういう言葉も、使う人もほんとに嫌い。”あなた達”みたいな人って、ほんとにどうかしてる」
おれは黙って聞いていた。何も言わない。彼女の話したいように話してもらったほうがいい。
「原因はわかってるの、自分で。一種のトラウマみたいなもの。___小3の頃、夏休みに家族で旅行に行ったの。お父さんが運転する車にみんなで乗って。すごく楽しくて、弟といっぱい遊んだし、いろんな所を周ったから。本当に楽しくて幸せだった。でもその帰り道、変な人たちに遭ってしまって___」
詞折はうつむいて言葉を切った。おれは静かに待つ。
「あまり鮮明に覚えていないんだけど、その人たちって20代ぐらいだったと思う。三人組で、柄の悪い人たち。最初私たちの車を煽ってきて、それから反対車線に出てきて横付けまでしてきてさ、___ぶつかる寸前のスレスレのところまでだよ? お父さんも逃げようと車を止めると、向こうも止まるし。___その後、わたし達の前に停車して三人が車から降りてきた」
詞折のお父さんは男らしい人だったらしい。あの世代の人らしく一家の大黒柱という自覚を持った人で、それが彼のアイデンティティを成していたし、誇りでもあった。優しいけれど、そういう強い人だと娘の詞折は感じ取っていた。
楽しかった家族旅行は一変してしまう。車内には妻と彼の子どもが二人。相手は三人の若い男。場所が悪く、そこは人通りのない郊外の道で、彼ら当事者しかいない状況だった。
怪我人は出なかった。けれど家族を守るために、詞折のお父さんは散々因縁をつけられ、絡まれている間、ひたすら謝り続けた。自分は何も悪くはないのに、自分に非があり、申し訳ありませんと頭を下げ続けた。家族の見ているところで。
男はそういった記憶を忘れられないものだ。根が優しく真面目であると、尚更自身のアイデンティティが揺らぐ出来事として後を引く。
そして、”理解できないことを平然とやる”人間に遭遇すると、ある種の衝撃を受け、なかなか忘れることはできなくなる。
自分一人なら、やり合うことも辞さなかったろう。
彼の誇りは挫かれたようだと詞折は見ている。その出来事を境に、父の快活さは失われたようだったと詞折は言う。
___それは一昨日に彼が亡くなるまで、ずっと続いていたように思うと。
「最近はこういう事件って有罪になったりもする。でも昔からこういう事ってあったの。私たちがそう」
「君のお父さんは負けたわけじゃないと思う」おれは言った。
詞折も、もちろんそうだと思うと言う。
「だけど、お父さんはそうは思っていなかったみたい」
彼女は歯を食いしばった。
「どうして?」詞折は言う、
「どうして、あの人たちはそういうことをしたの?」
「ねえ、アキアス。みんなもう気づいてるよ。___楽しい雰囲気も、幸せな瞬間も、ほんのちょっとの険悪さとか暴力的な雰囲気なんかに、簡単に負けるの。___そんなものが、いとも簡単に、すべてを圧倒して飲み込んでいくよ。ねえどうして!」
詞折は泣いた。涙がこぼれる。
「私たち、楽しかったのに。幸せだったのに。___そのあと家に着くまで誰も、何も話さなかった!」
おれは詞折を立たせた。ここを離れさせないといけない。
「___私が生まれた日に買ってもらったぬいぐるみがあったの。すごく大切にしてて。わたしあの時さ、一度車を降りてお父さんのところまで行っちゃったんだよね。その時にそのクマを落としちゃったんだと思う。家に着いたら無くなってることに、ようやく気づいて。___お父さん、慌てて私を車に戻したから、あの時きっと・・」
騒ぎの場所でヘッドライトが光った。警察の車両が到着するのが見える。詞折はこのまま向こうの通りへ抜けて欲しいと思った。
おれは頷いて、彼女の背中を押して促した。詞折はふらついている。
「おれはもう戻らないと」そう言った。
離れようとした時、詞折がおれの袖を掴んで言った。
「いつから? いつ頃から”自分に違和感”があるの?」
咄嗟に何のことか分からなかったので、言葉に窮してしまった。
詞折は言う、
「前に言ったよね。病む前の自分を見つけるために保育園に行ったんだろ、って私に。それ自己投影だよ。私は子どもが好きなだけ。アキアス、あの保育園に行きなさい。何か思い出すから」
彼女は上着のダークベージュのカーディガンから臨床心理士免許証をスッと取り出して、おれの目の前に押し付けた。赤く泣き腫らした目のなかに高い知性が滲んでいる。
「今日はそれを言いに来たの、本当は」
そして頭を振り、そのカウンセラーのライセンスを青いプラのゴミ箱の中に突っ込んで捨てた。
「これもう要らない__」
詞折はビルの間を抜けて、表通りの明るい方へと姿を消していった。おれはそのライセンスを拾い上げ、ポケットにしまうと”事故”現場に急いだ。
「容疑者です」
「なに、踏み間違えたの?」
「”最後の最後”で踏み違えました。すいません。でも全勝した」
「なんだって?」
警察に立ち会ってもらい、クラブ側と話し合って示談で済むことになった。おれは一応アルコール呼気検査をされると、そのまま署まで連れていかれ、薬物の尿検査も何故かされた。見てくれからチーマーだと思われたようだ。
そして釈放になる。
外は季節外れの大粒の雨が地面を叩きつけている。冬の雨だ。
おれのスカイラインは事故車両として引っ張られてしまったし、家に帰る足が無い。どうしようか、と思いながら署の玄関を出てみると、傘を差したレイジーが立っていた。愛車のランクルも側にある。
「警察から会社に連絡があったんだ、アキアス」
「迎えに来てくれたのか!」
おれは感激した。
「プリケツのように可愛い男だな、レイジー」
雨を逃れてレイジーのランクルの助手席に乗り込むと、濡れた顔を手で拭った。
「ありがとう。助かる」
「いいよ。全勝祝いの送迎だ。マジでバケモンかよ、おまえって」
MCバトルに出場した甲斐もあり、micotoの炎上の件もおれの話題で上塗りされる格好になった。彼らにとって新たなペンキの下に元々何があったかは、結構どうでも良くなったようだ。
micotoからの連絡はなかった。多分今頃、眠っているのだろう。チェインスネアからの連絡も特になかった。あれはそういう男だ。
レイジーと別れてマンションの部屋に帰ってみると、ドアの鍵が開いていた。
一体何だ?
おれは警戒しながら部屋に入り、明かりをつける。すでに賊の姿はなかった。部屋はものの見事に荒らされていた。テレビは割られ、食器類は床の上に割れて散乱し、部屋をひっくり返したような惨状___。見て回ると、衣類はバスタブの中で水没させられている。
これは物取りではなく、何者かが”仕返し”にやって来たことを暗示していた。
おれはズレたソファを元の定位置に直しつつ座り、買ってきた菓子パンを食べる。___しばし考え、それからこの前喧嘩になっていたナックルに電話をかけた。
ナックルが今回のMCバトルにレイブン・レコーズの代表として出場しなかったのも、活動を休止していることも、実はおれとの諸事情があってのことだった。
「おれだけど、この前は言いすぎた。悪かったな。それよりそっちは大丈夫か?」
ナックルにおれの部屋が荒らされていることを伝える。
「多分、ヤクの売人の仲間が仕返しにやって来たっぽい。そっちにも行くかもしれないから、気をつけた方がいい」
「俺んとこは今のところ大丈夫だよ。わかった、気をつける。___ああ、それよりアキアス、おめでとう。いいマイクだったな。観戦しているだけの俺も嬉しかった」
「あれ以来、どうしてたんだ? ナックル」
「彼女と息子の三人で一緒に暮らしているよ。ずっと仕事してんだ。お前のことは怒っていない。むしろ良いアドバイスだったと思ってる。本当だ」
おれは電話をしながら散らかった部屋を横切り、砂依田のビートの入ったUSBメモリを見つけて拾った。足の裏で何かの破片を踏んでしまい、それを跳ね除けながらナックルと話す。
「___まあ、普段の喋り言葉でラップしたら上手くいった。ナックルの読みが正しかったな。言う通りにしたんだ。ところで、いつラップに戻るんだ?」
ナックルはしばらく考えている、
「いや、今はまだそういう段階じゃないな。でも復帰は大いに有り得ると思ってる」
「その時になったら連絡してくれ。砂依田にもおれから話すから」
電話を切ると部屋を改めて見渡した。
「ワヤだな・・」
ささやかな我が城と秩序ある生活を壊されてしまった。仕方ない、また立て直すまでだ。
ライムを書き殴っているリーガルパッドは持ち歩いていたため、無事で何よりだった。おれは砂依田のビートの入ったUSBメモリと、ライムのリーガルパッドを両手で抱え込む。
実際のところ、財産はこれだけのような気がした。
鍵屋を呼び、マンションのドア鍵を新しいものに取り替えてもらった。その作業が終わると、砂依田からメールが入ってくる。
* * *
発信:砂依田 圭史
今年のMCバトルでお前が勝ったことで、
新譜の注目が増すことになる。
まだレコーディング段階ではないが、準備は怠るな。
返信:akiasu
了解。すでに4曲も暗記している。
* * *
ポケットから詞折の臨床心理士免許を取り出して、しばらくそれを眺めていた。___彼女に言われたことを思い起こす。
『アキアス、あの保育園に行きなさい。何か思い出すから』
そうは言われても、大人になったおれが今更、保育園を再訪するわけにもいかない。そんな口実も見つけられないだろう。
そして散らかり放題にやられちまった部屋を、少しずつ片付け始めた。
裏口はやや混雑。___小さな人だかり。
まず目に入ったのが、折れて跡形もなくなった傘の残骸。次に割られたクラブ店の蛍光看板と、その破片が散乱している惨状だった。
数人が距離をとって見つめる先に、地面にへたれ込んで咽び泣いている女が見えた。近くでよく見ると詞折だ。
「これは彼女が?」とおれが尋ねると、そうだよと目撃者に言われた。
周囲を見回す。MCバトルの会場にいる観客たちが一斉に出てくると、マズい騒ぎになる気配がビシバシしてきた。
おれは詞折に近づいて肩を小突いた、
「何してる。とりあえず、こっち来な」
詞折はおれを見た。泣き顔の中にも敵意が満載されている。
「なに、ニセモノ?」
「本物のアキアスだけどな」
「ちがうでしょ。私には分かるんだよね。アキアスじゃないから」
ビルの間の暗がりまで詞折を引っ張っていく。
「ちょっとここで待ってろ」
急いで近くのパーキングエリアまで突っ走っていき、自分の車に乗り込むと、すぐさま発進させて裏路地に引き返す。
半壊しているクラブの電光看板に目がけて、スカイラインを突っ込ませて全壊させた。
車を降りると、見物していたB系の男らのところまで駆け寄る。
「申し訳ない、彼女の件は見なかったことに」
おれが万札を差し出すと、彼らは『いいぜメーン!』と言って、距離を保ったまま黙って事の成り行きを見守る態勢になった。
詞折はどうせテキパキ動けないだろうから、車に乗せることもできなかった。こうするしかない。折れた傘の残骸を拾ってスカイラインの中に隠しておいた。
おれはクラブの店員を見つけると、”ブレーキを踏み間違えた、すいません”、と説明をし、警察を呼んでもらうことになった。
「踏み違えたのかい! でもこれは弁償してもらわないなあ・・」
「もちろんです、すいません。自分でもビックリしましたよ。つい今しがた隣の会場で韻を踏み倒してきたところで、アクセルペダルも勢い余って踏み倒してしまったようで___」
店の人に運転免許証を預かってもらい、少しの間離れますが戻ってくるので、と断りを入れてから詞折のいる暗がりの隠れ場所に急いだ。
詞折は青いプラのゴミ箱の上に腰を下ろしている。
「気をつけろ。過失より故意の器物破損のほうがタチ悪いからよ」
おれはそう言って、どうすべきか迷った。詞折は泣きやんではいたけれど、大きく肩で息をして過呼吸になっている。
「あんま大きく吸い込むな、それ実はかえって良くない」
詞折はMCバトルの会場にいたようだった。
「どうしてこんな”嫌いな奴ら”のステージを見に来たよ? 自分が一番来るべき所じゃないだろ」
詞折はおれの方を向く。「一昨日、お父さんが亡くなった」
彼女は消耗しきっているように見える。おそらく、たくさん泣いたのだろう。涙を流すと消耗する。おれも時々泣くことがある。
「___そうか、残念だった。それで?」
「前にも言ったよね? わたし暴力的なものがすごく嫌い。そういう言葉も、使う人もほんとに嫌い。”あなた達”みたいな人って、ほんとにどうかしてる」
おれは黙って聞いていた。何も言わない。彼女の話したいように話してもらったほうがいい。
「原因はわかってるの、自分で。一種のトラウマみたいなもの。___小3の頃、夏休みに家族で旅行に行ったの。お父さんが運転する車にみんなで乗って。すごく楽しくて、弟といっぱい遊んだし、いろんな所を周ったから。本当に楽しくて幸せだった。でもその帰り道、変な人たちに遭ってしまって___」
詞折はうつむいて言葉を切った。おれは静かに待つ。
「あまり鮮明に覚えていないんだけど、その人たちって20代ぐらいだったと思う。三人組で、柄の悪い人たち。最初私たちの車を煽ってきて、それから反対車線に出てきて横付けまでしてきてさ、___ぶつかる寸前のスレスレのところまでだよ? お父さんも逃げようと車を止めると、向こうも止まるし。___その後、わたし達の前に停車して三人が車から降りてきた」
詞折のお父さんは男らしい人だったらしい。あの世代の人らしく一家の大黒柱という自覚を持った人で、それが彼のアイデンティティを成していたし、誇りでもあった。優しいけれど、そういう強い人だと娘の詞折は感じ取っていた。
楽しかった家族旅行は一変してしまう。車内には妻と彼の子どもが二人。相手は三人の若い男。場所が悪く、そこは人通りのない郊外の道で、彼ら当事者しかいない状況だった。
怪我人は出なかった。けれど家族を守るために、詞折のお父さんは散々因縁をつけられ、絡まれている間、ひたすら謝り続けた。自分は何も悪くはないのに、自分に非があり、申し訳ありませんと頭を下げ続けた。家族の見ているところで。
男はそういった記憶を忘れられないものだ。根が優しく真面目であると、尚更自身のアイデンティティが揺らぐ出来事として後を引く。
そして、”理解できないことを平然とやる”人間に遭遇すると、ある種の衝撃を受け、なかなか忘れることはできなくなる。
自分一人なら、やり合うことも辞さなかったろう。
彼の誇りは挫かれたようだと詞折は見ている。その出来事を境に、父の快活さは失われたようだったと詞折は言う。
___それは一昨日に彼が亡くなるまで、ずっと続いていたように思うと。
「最近はこういう事件って有罪になったりもする。でも昔からこういう事ってあったの。私たちがそう」
「君のお父さんは負けたわけじゃないと思う」おれは言った。
詞折も、もちろんそうだと思うと言う。
「だけど、お父さんはそうは思っていなかったみたい」
彼女は歯を食いしばった。
「どうして?」詞折は言う、
「どうして、あの人たちはそういうことをしたの?」
「ねえ、アキアス。みんなもう気づいてるよ。___楽しい雰囲気も、幸せな瞬間も、ほんのちょっとの険悪さとか暴力的な雰囲気なんかに、簡単に負けるの。___そんなものが、いとも簡単に、すべてを圧倒して飲み込んでいくよ。ねえどうして!」
詞折は泣いた。涙がこぼれる。
「私たち、楽しかったのに。幸せだったのに。___そのあと家に着くまで誰も、何も話さなかった!」
おれは詞折を立たせた。ここを離れさせないといけない。
「___私が生まれた日に買ってもらったぬいぐるみがあったの。すごく大切にしてて。わたしあの時さ、一度車を降りてお父さんのところまで行っちゃったんだよね。その時にそのクマを落としちゃったんだと思う。家に着いたら無くなってることに、ようやく気づいて。___お父さん、慌てて私を車に戻したから、あの時きっと・・」
騒ぎの場所でヘッドライトが光った。警察の車両が到着するのが見える。詞折はこのまま向こうの通りへ抜けて欲しいと思った。
おれは頷いて、彼女の背中を押して促した。詞折はふらついている。
「おれはもう戻らないと」そう言った。
離れようとした時、詞折がおれの袖を掴んで言った。
「いつから? いつ頃から”自分に違和感”があるの?」
咄嗟に何のことか分からなかったので、言葉に窮してしまった。
詞折は言う、
「前に言ったよね。病む前の自分を見つけるために保育園に行ったんだろ、って私に。それ自己投影だよ。私は子どもが好きなだけ。アキアス、あの保育園に行きなさい。何か思い出すから」
彼女は上着のダークベージュのカーディガンから臨床心理士免許証をスッと取り出して、おれの目の前に押し付けた。赤く泣き腫らした目のなかに高い知性が滲んでいる。
「今日はそれを言いに来たの、本当は」
そして頭を振り、そのカウンセラーのライセンスを青いプラのゴミ箱の中に突っ込んで捨てた。
「これもう要らない__」
詞折はビルの間を抜けて、表通りの明るい方へと姿を消していった。おれはそのライセンスを拾い上げ、ポケットにしまうと”事故”現場に急いだ。
「容疑者です」
「なに、踏み間違えたの?」
「”最後の最後”で踏み違えました。すいません。でも全勝した」
「なんだって?」
警察に立ち会ってもらい、クラブ側と話し合って示談で済むことになった。おれは一応アルコール呼気検査をされると、そのまま署まで連れていかれ、薬物の尿検査も何故かされた。見てくれからチーマーだと思われたようだ。
そして釈放になる。
外は季節外れの大粒の雨が地面を叩きつけている。冬の雨だ。
おれのスカイラインは事故車両として引っ張られてしまったし、家に帰る足が無い。どうしようか、と思いながら署の玄関を出てみると、傘を差したレイジーが立っていた。愛車のランクルも側にある。
「警察から会社に連絡があったんだ、アキアス」
「迎えに来てくれたのか!」
おれは感激した。
「プリケツのように可愛い男だな、レイジー」
雨を逃れてレイジーのランクルの助手席に乗り込むと、濡れた顔を手で拭った。
「ありがとう。助かる」
「いいよ。全勝祝いの送迎だ。マジでバケモンかよ、おまえって」
MCバトルに出場した甲斐もあり、micotoの炎上の件もおれの話題で上塗りされる格好になった。彼らにとって新たなペンキの下に元々何があったかは、結構どうでも良くなったようだ。
micotoからの連絡はなかった。多分今頃、眠っているのだろう。チェインスネアからの連絡も特になかった。あれはそういう男だ。
レイジーと別れてマンションの部屋に帰ってみると、ドアの鍵が開いていた。
一体何だ?
おれは警戒しながら部屋に入り、明かりをつける。すでに賊の姿はなかった。部屋はものの見事に荒らされていた。テレビは割られ、食器類は床の上に割れて散乱し、部屋をひっくり返したような惨状___。見て回ると、衣類はバスタブの中で水没させられている。
これは物取りではなく、何者かが”仕返し”にやって来たことを暗示していた。
おれはズレたソファを元の定位置に直しつつ座り、買ってきた菓子パンを食べる。___しばし考え、それからこの前喧嘩になっていたナックルに電話をかけた。
ナックルが今回のMCバトルにレイブン・レコーズの代表として出場しなかったのも、活動を休止していることも、実はおれとの諸事情があってのことだった。
「おれだけど、この前は言いすぎた。悪かったな。それよりそっちは大丈夫か?」
ナックルにおれの部屋が荒らされていることを伝える。
「多分、ヤクの売人の仲間が仕返しにやって来たっぽい。そっちにも行くかもしれないから、気をつけた方がいい」
「俺んとこは今のところ大丈夫だよ。わかった、気をつける。___ああ、それよりアキアス、おめでとう。いいマイクだったな。観戦しているだけの俺も嬉しかった」
「あれ以来、どうしてたんだ? ナックル」
「彼女と息子の三人で一緒に暮らしているよ。ずっと仕事してんだ。お前のことは怒っていない。むしろ良いアドバイスだったと思ってる。本当だ」
おれは電話をしながら散らかった部屋を横切り、砂依田のビートの入ったUSBメモリを見つけて拾った。足の裏で何かの破片を踏んでしまい、それを跳ね除けながらナックルと話す。
「___まあ、普段の喋り言葉でラップしたら上手くいった。ナックルの読みが正しかったな。言う通りにしたんだ。ところで、いつラップに戻るんだ?」
ナックルはしばらく考えている、
「いや、今はまだそういう段階じゃないな。でも復帰は大いに有り得ると思ってる」
「その時になったら連絡してくれ。砂依田にもおれから話すから」
電話を切ると部屋を改めて見渡した。
「ワヤだな・・」
ささやかな我が城と秩序ある生活を壊されてしまった。仕方ない、また立て直すまでだ。
ライムを書き殴っているリーガルパッドは持ち歩いていたため、無事で何よりだった。おれは砂依田のビートの入ったUSBメモリと、ライムのリーガルパッドを両手で抱え込む。
実際のところ、財産はこれだけのような気がした。
鍵屋を呼び、マンションのドア鍵を新しいものに取り替えてもらった。その作業が終わると、砂依田からメールが入ってくる。
* * *
発信:砂依田 圭史
今年のMCバトルでお前が勝ったことで、
新譜の注目が増すことになる。
まだレコーディング段階ではないが、準備は怠るな。
返信:akiasu
了解。すでに4曲も暗記している。
* * *
ポケットから詞折の臨床心理士免許を取り出して、しばらくそれを眺めていた。___彼女に言われたことを思い起こす。
『アキアス、あの保育園に行きなさい。何か思い出すから』
そうは言われても、大人になったおれが今更、保育園を再訪するわけにもいかない。そんな口実も見つけられないだろう。
そして散らかり放題にやられちまった部屋を、少しずつ片付け始めた。