第23話 病室、再び

文字数 7,291文字

「調子はどうだ、ブラザー」

 目が覚めると雲みたいな真っ白の上にいた。
 たなびくカーテン。室内は明るく、外が穏やかな日和で風が入り込んできた。

 ___だが、ここが病室であることは誰にでもすぐに気がつく。

 おれは長い夢を見ていて、『あの日』から実は一歩も動いていなかったのではないか、という考えに襲われた。これまで思い描くままに立て直してきた自分そのものが、ただの夢だったのではないかという、恐ろしい考えに・・。

 そう、あまりにも良くできていると思えるほどに、おれは自分を作り変えてしまっていたから___。

 現に少二郎だって傍で木椅子に座って本を読んでいる。それはオリバー・サックスの著書であるようだ。

「出会った頃を思い出すよな。あの時もお前は病室で転がっていて、俺が見舞いに来ていた。___だが今やお前自身、大きく変わっているけどな」

 おれはベッドから身を起こす、
「状況がわからない」

「そうだろうな、まず俺は死んでいなかった。続きを聞きたいか?」

 少二郎がおれのスマートフォンをベッドの上に置く。
「いくらか着信があったぞ、あとで見ておくといい」

 彼は立ち上がってサックスの本を椅子の上に落とし、いつもの議論するような体勢になった。おれにとっては懐かしい。

「俺はお前の親戚でもないし血縁上の誰かでもない。いわば赤の他人。まあ、お前と俺とが互いにどう思うかは別の話だが」

 おれは静かに聞いていた。彼は話す、

「当時、身寄りのない私生児として施設に預けられていたお前は18歳になり、あの場所を出て自立することを求められていた。だがお前には大きな問題があったんだ。___自分でもわかっていたと思うが、その違和感。___ひいてはお前自身が感じていたあの、”生きにくさ”」

「少二郎、あんた誰なんだ」

「施設はお前を放ってはおけないが手にも負えない。あの心療内科の連中はお前を全く捉えきれていない。お前は心を開かない。みたいな三点セットだった。アキアスを社会に出して自立させる日取りは迫っていた」

 おれは尚も”わからない”、とジェスチャーした。
 少二郎は頷く。

「施設は当時退職していた俺を呼び戻したんだ。つまり俺はあの児童養護施設の非常勤職員。お前が忌み嫌っていた”血の繋がりのない大人たち”の一人だ」

 少二郎は微笑む、

「アキアス、俺たちはお前を把握なんざしていなかった。まったく訳がわからない状態のまま、様子を見守っていたんだ。一体お前がなんなのか、誰一人わかっていなかった」

 おれは黙って頷いた。

「早い段階から気づいていたこともあった。お前にはアセットがある、言葉のアセット。それが生きる上で武器になる。自分を肯定する上でも、世の中を渡る上でも。そいつを伸ばしてやる必要があると、俺は施設の人間に告げた」

「まあ一応、他にもいろいろ探りを入れた。絵画を無名画家から買ってきてアトリエに置いてみた。俺はそれの表面に少し絵の具を足したりもしたが、俺が描いたうちには入らないよな。お前との議論に備えてある程度の論文にも目を通したが、喋るとなると結局は俺の私見を話してしまう。___自分より劣っていると舐められちまったら、お前が俺の言うことを聞かないかもしれないという、施設側の憂慮があった」

 少二郎は笑う、
「あとは仕事だの実生活の知恵だのは、俺の自前のもので乗り切ってみた」

「詩は?」おれは聞いた。

「ライムに関してはお前の方がもともと上手かっただろ。俺は教えてない」

「あんたも書いていた」
「あれぐらいなら俺にも書ける」
「あのアトリエは?」
「あんなプレハブみたいなものは、自分で建てれるさ」

 おれは笑ってしまった、
「結局、油絵以外はほぼあんたじゃないか。だから騙されたんだな」

「まあ、そういうスキルは”子供たち”を指導する上では役に立つんだ。いろいろ知っておいて損はないのさ」

「とりあえず」おれは言った。
「あんたにまた会えてうれしい。死んじまってると思ってたから」

「正直に打ち明けて”卒業”してもらうことも考えてはみた。10年が経ち、お前自身、成長して申し分ないように見える。安心してもいいだろうと。___だが肝心の『アキアスが有した問題』は依然そのままだ。タイマーの設定は『再開は10年後に』だったが、それでは短くなってしまった」

「見切りをつけてもいいのでは、と施設側からの打診も入ってきてはいたんだが、俺自身はやり終えたとは言えそうにない。考えた末、”偽装死”のような突飛なやり方を展開して先延ばした。俺の年齢の場合、失踪よりは病死の方が現実味のある姿の眩まし方だろう。___まあ考えている時間もなかったしな。もう少しアキアスを外から経過観察する必要があると___」

 少二郎はあの頃と同じように、快活な足取りで部屋を横切る。病気の類いは完全に偽装だったようだ。もともと身体ばかり使って仕事をしてきた男だ、どうせ今でも夜間にロードワークでもしている。

「お前がそこにいた当時から勤務していた職員は、まだ何人か残っているんだ。誰も覚えていないだろう?」

「もしかして、保育園の前で倒れた時に集まってきた人達のことか?」

「お前は自分で何やら答えを手繰り寄せるように動き出している頃でもあった。俺たちが外側からいくら探っていても見つけらない真相を、心の内側に出入りできる本人がその気になって動けば、一気に解決をみる可能性が出てくる。あのCEO___実の父親にも会いに行っていたようだしな。答えが見つかる頃合いは近いと踏んでいた」

 彼の話すこれらは急展開で、不意打ち極まりない物事の数々だった。

 それを受け止めて整理する間、心がどこか遠くへ行っていた。少二郎は黙って待っていてくれたし、我に返ったおれの質問にも応えてくれた。

「孤高のアマチュア・アーティストではなかった」
 おれは頷く、
「実際はおれとの血縁関係もない職員の一人だった。___けど、その説明だけでは、おれとしては困るんだ少二郎。おれの中であんたの利かせている幅が結構な大きさだからだ。___家族は、子供なんかはいるのか?」

 彼は椅子に腰掛ける、

「既婚者で妻と二人暮らしだ。子供はいない。___本当なら”いる”と言うべきだろうが、いないと言うようになってからのほうが、時間が経っている」

 おれは何も言わないで聞いた。少し間が開いてから彼は話し出す、

「稀に起きるケースだ。子供の取り違いをされたようだった。生まれてきたのは男の子で、早産だったせいもあり小さな未熟児だったのだが、俺の目に映る彼はとても輝いていたよ。だが俺たちは取り違えられたことを知らず、赤の他人の子を2年間育てていたようだ」

「ある日、実の親がその子を前触れもなく連れ去って行くということが起きた。その時になって自分たちの実子が他の場所にいるということが判明したんだ。俺たちの実子のほうは、こちら側には戻してくれなかったようだ。その子本人もそれを拒否していたようだしな。___手は尽くした、だが居場所に関しても病院側の情報は開示されないまま、事実上の収束をみた。俺たちの本当の子は彼らのことを実親だと思っているのか、それとも他に親がいることを知っているのか・・。それすらも分からないままになっている。その状態が変わることはなく、俺たち二人の人生は最期までいき、そして終えることが決定された」

 淡々と話しているのでは決してない。だが少二郎から哀しみは感じられなかった。耐え凌いだ日々、それを乗り越えた歳月は、彼を別の何かに仕立てたということだけは確かだった。

 彼の発する言葉からは感情の、大きな揺らぎのような波動は感じ取れない。けれど、彼が紛れもなくその”震源地”だということだけは分かる、というように。

「___まあ、息子だったということもあり、俺はいろいろと教えてやりたいという大きな展望があった。そういったエネルギーを注ぎ込む相手がもはや、どこにもいないのにだ。ただ胸の中で塊として残り、事ある度にそれはゴロゴロと転がって内側でぶつかる。___それはなかなか辛い日々だったさ。そして遂に俺は爆発したようになった。当時やっていた仕事を昼頃に途中で放り投げ、その場で勝手に退職する格好で飛び出した。もう心が心ではないような有様だ。ただでさえ毎日苦しいのに、日々の仕事も、様々な出来事も、諸問題も、何もかもが容赦無く進行していく日常___。それでわずかに気が紛れるような瞬間もあったことはあったが、根本的な解決はもちろん見ないままだ」

「心は麻痺し、俺は別の何かに姿を変えつつあった。あの退職劇はまるで、”高い所”から飛び降りようとする衝動というか。___俺が全てを放り投げたその足で向かったのが、あの児童養護施設だ。親のいない彼らを、仲間だと感じてもいた。そしてお互いを充てがうようなことが起こるのではないかと、当時は安易な期待心もあった。だが実際は傷を癒すどころか、もっと難しいことの連続なんだぜ?」

 彼はおれを指差してニヤリとする。

「___施設に着くと正面玄関の前に車を乱暴に停車して、そのまま職員のいるところを目指して直行した。ここで働くには、どういった資格や条件が必要なのか、知りたかったからだ。長々と話を聞かせてもらい、俺のほうも多くを打ち明けた瞬間だった。妻以外の誰かに正面切ってこの話をしたのは初めてだったからな。車に戻ると日は暮れていたよ。キーが回ったままだった俺の車は、その間ずっとアイドリング状態だったわけだ。___そして俺もアイドリングを止めることにした」


 この世界は哀しみでできている、と以前思い巡らせたことがあった。
 大小は様々だけれど、人が生きていれば、必ずや何かしらの哀しみにぶつかることになる。

 生まれたばかりの自分の子や、あるいは関係がなくとも幼い子たちを見て、おれたちがしばしば感じる『哀しみ』の正体はこれだと思う。

 この先の人生で幼い彼らに降りかかる何かを、おれたちは予感する。

 そして無邪気な視線をあちこちに走らせている彼らは、まだそのことを知らないで目の前にいる。この世界に放り込まれた彼らの中の何人かには、必ず振り下ろされる大きな回転刃のようなものが、この世界にはあるからだ。

 願わくばそれに当たらないで欲しいと___。


「次は俺のほうから質問だ、アキアス。あのCEOに会ってみてどう感じたのか? お前は父親に初めて会ったんだ。実の親子が再会した心境の変化を話してくれ。ただでさえ人ってのは、”実際に相手に会ってみると印象が全然違う”、ってのが常だろ?」

 おれは少し吹き出してかぶりを振った、

「何を期待しているのか知らないけど、おれらのケースに限っては感動的なことは特にないよ。強いて言えば奴に、サイコパスの傾向を感じ取ったぐらいなもんで」

「お前自身については、どう思うんだ?」
「おれ?」 

 少二郎は頷く、おれは考える。

「・・正直あまり分からない。けど今思えば、おれの中に分断されたものがあったのは確かだと思う。それがこれまで、おれを悩ませてきた得体の知れない”生きづらさ”の原因かもしれない」

 おれは手振りで伝えた、「___つまり”二人のおれ”、だ」

「4歳の時___」

 少二郎は椅子の上で腕を組み、目を瞑る。

「お前は医学用語でいうところの”サバイバー”としての選択を迫られた。だが診療所も言っていたことだが、お前自身に乖離現象は起きていない。解離性人格障害、つまり多重人格者の乖離には記憶の欠如が頻繁に伴うはずだ。いま表出していない他の人格には一切の記憶が残らない。アキアス、お前の記憶は生まれてからこれまでの全てが一本に繋がっているんだろ? 幼い頃の記憶は誰しも曖昧だ、それは別にいいんだ。___つまり不可解だった。だが最近、お前の父親のパーソナル傾向を洗う過程で、一つの仮説が導き出されたと思う。つまり・・」

「おれがサイコパスだとは思えない」

「そうだな。だがその性質がねじ曲がった状態になっていたら、どうだ?」

「サイコパスの奴らは、初めからひん曲がってるだろ」

 少二郎は続ける、
「サイコパスの虚偽性や罪悪感のなさ、大胆不敵な行動力は通常、外界に向けられているものだ。他人を欺き、利用し、社会を上手く渡る身勝手なアクロバットさながらにな。だがアキアスはそれが、外ではなく内側に向いているのかもしれない。つまりお前のサイコパス傾向は、”自分自身に向けられた刃”なんだな。お前は”直面した何かの出来事”によって枝分かれした際、その弱いほうの自分を言葉巧みにねじ伏せてきたんだろう。___この部分がサイコパス特有のそれだ、自分自身に容赦なく厳しく当たる、その歪み、そして時折、顔を出す”幼い頃のお前”が、その躍進的な現実に対処できない。それを自分で感じていたんだ。俺はそう見てる」

「2番目のお前が突き進んでいく過酷な現実。それに対処できない”幼いお前”。だからもっと2番目の出番が必然的に多くなり、対処する。そして状況はさらに過酷になる。その繰り返し___」

「今のおれは”2nd”なのか?」

「お前は俺が見ていた期間だけでも幾度も成長していたが、その節目節目では、まるで中身が入れ替わっているかのような瞬間があった。その”2nd”ってのには、柔軟な可塑性質があるのかもしれない。容易に変形できる”何か”が。そもそも本来のお前ではない、補強のために生じた”何か”だろうからな。そいつは」

 ___そんなことってあるのだろうか?

「人体に含まれた脳というものをハードドライブだとすると、その内に生じる自我はOSに例えられることが多い。個体が生きる上で好ましいのはもちろん統一された一つのOS、___一つの人格に違いない。だが場合によっては、OSが複数混在する症例もあるわけだろう。脳を含む人体には基本、どのようなケースも生み出す可能性はある。『普通』だと思われている状態というのは、単に頭数が多いから『普通』でしかない。外観で言えば臓器が二つある人や、頭部が二つある人、多指症のみならず手足が一組以上ある人も存在する。個体に生じる人格は、一つであることが一般的というだけだ。複数出現する場合もあれば、アキアスのように不可思議に変形を繰り返す”2nd”のようなものが発現していたとしても、有り得ないとは言えない。まだ現行の脳生理学では、そこまでのサーチが及んでいないしな」

「二人のおれがいるなら、『半分になって一人になる』ということなのか? そもそも元のおれって一体誰なんだ・・?」

 少二郎は沈黙した。そう。その部分こそ、おれ本人でなければ他の誰も知るはずのないことに違いない。
 おれがずっと2ndだったとしたら、それはいつからだったのか。2ndが優勢のままで生きていく、それがこれからも続いていく___。

 それはいいことなのか?

 外を眺めていた少二郎が、おれに向き直る。
「さっき目を覚ますまで、お前はずいぶん長い間眠っていた。どのような形であれ、自分の中に折り合いがついたということじゃないのか?」


『今度は”自分の半分”を失っても、立て直すアキアスを見せて』


「micotoの言ったとおりに、成れるのか___」

「あの車椅子の女の子にも、お前の近況を教えてもらった。事情も知っている。いろいろと”裏工作”が過ぎると思うかもしれんが、必要なことだったんだ。お互いに深い事情を知り合った良い友達ができたな、アキアス」

「おれなんざ関わるだけロクなもんじゃない」

 おれは窓の外を見た。
 昨日まで雨だったような風が部屋を吹き抜け、今日の空は澄んでいた。

 おれは自分の半分を失ったような喪失感を感じていて、それはおそらくこれまで大切なものだった何かだろう・・。___本当の、子供の頃に存在していた本来のおれ自身を完全に失った。

 欠損していたものの形が、元に戻ることはないということ。

 何かに変形したまま生きていくしかない、という哀しみ。


 外は清々しく、今日も世界はそこにあった。
 その中を生きている連中の都合など関係ないような振る舞いで。
 世界はいつも、そこに在るだけ。


「___チャーリー・スティールのように成りたいと思ったか、俺はあまりお奨めしないが」

 少二郎が出し抜けに妙なことを口走る。
「当時、お前の病室にあの本が混じっていたもんな」

「あれは九死に一生の話だよ。あの状態で島から出られた」
 おれは適当に言う。

「九死に一生ではないだろ」と彼は言うので、おれは眉をひそめた。

「島から出れていないからだよ」

 少二郎は言う、
「そもそも何故一人称で書かれているんだ。妙な古典だ。島から生還して島に戻ったって? 目が見えないのにな」

 彼はおれを見つめながら、愉快そうに話している。

「オカシなところは沢山ある。一番有り得る解釈は、皇帝の心だけが島を出て復讐劇を果たしたという本人の空想話だろ、ちがうか? だから最後も結局は島にいるんじゃないのか? これは先天性の病によって不幸にも島流しに遭い、島でそのまま死んでしまった男の物語だ」

 少二郎がニヤリとする、

「これは可哀想な物語であっても、お前が好みそうなストーリーではないんじゃないのか?」


 我のこの漆黒の甲冑は、
 まさに夜の闇をそのまま身に纏った装いである。
 その様まさに頭のてっぺんから爪先まで。
 我に白きところなど見当たらずである。
 剣の握り手を握りて____


 あれは皇帝が生み出した本人の幻想だったのか___?


 おれが押し黙ってしまっていると、彼は素早く椅子から立ち上がった。

「よし!」

 そう言って、おれのメンターは手を叩く。
「そこから起きろ、アキアス。やることがあるだろ」

 少二郎は嬉しそうに手をこすり合わせる、
「聞いたぞ? ラップのアルバムを制作しているらしいな」

 いつもライミングに使っている黄色いリーガルパッドとゲルペンを、こちらに投げて寄越してくる。

「世の中の奴らを驚かせてやれ」

 そう言って、少二郎は満面の笑みをたたえた。
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