第1話 ボイスレコーダー

文字数 8,952文字

 早い時間帯に自然と目が覚めた。カーテンの外は直に明るくなるだろう。今日は大切な用事が二つも控えている。

 昨夜のうちに四日分の着替えと荷造りを済ませて、すでにスカイラインの車内に押し込んであった。それに自分で散髪もしておいたので、顔を洗う序でに短くなった頭も洗う。タオルで拭き取ると自然とすぐに乾いてくれる。

 確かにいつも朝は早い。だけど今日は格段に早かった。仕事に行く前の創作活動も時間が取れる。晩に書いていたライムの書き殴りは、ソファの上に置かれていた。果物を入れたオートミールに蜂蜜をかけてソファの方へ向かい、昨日のライティングの成果を点検。書けば書くほど、直せば直すほどに良くなるのが楽しい。

『言葉』が自分にとっての宿命だと感じられた。

 真新しい紙を広げてペンを取り、ライミング・パートを再開する。ゲルペンの黒インクがリーガルパッドの黄色い紙上に吸われて軌跡を描いていく。ひらがな、カタカナ、アルファベット、数字___。その一つ一つは、ただののたくりでしかない。だがその配列と組み合わせによっては、誰かの心を動かしたり、金を生んだりする。そしてそれはあらゆる種類のアートを産み落としていく。

 おれは帯広の詩人で、名前はアキアス。ライムと呼ばれるヒップホップの韻文詩を書いている。けれどラップはしたことがなく、今回録った試作の出来も素人。ところがデモテープを送りつけた音楽レーベルから、数日後にコンタクトがあった。

 今日がその待ち合わせの日。二つある用事のひとつ。30歳をむかえても尚、おれは自身の創作を世に羽ばたかせるフォーマットが定まっていなかった。世間に認知されなければ何を作り出そうとも、ゼロ・クリエイトになる。このマグマのような熱量を発散させ、作品に昇華させたい。
 まるでトリガーの付いていないマグナムのような身の置き場のなさ、そいつをいつも感じてきた。

「辞めてしまえば、それはそれで楽になる」と誰かが言うとしても辞めなかった。創作を辞めた後に残された人生は、目的地へ向かわないただの日常のループと化す。届くか届かないかの夢を追いたいわけではなく、”どこかへ向かっている感覚”、それが自分には必要だった。

 下手くそなデモテープを録り終えた後も、これが本当に自分がすべき生業かどうか、確信を持ってはいない。自分にはどの形式の創作が合っているか。何がおれを夢中にさせてくれるのか___?

 ライティング作業には夢中になるものの、作詩されただけの文字列を売ることは、近頃は困難になっている。今やライム・リリック(韻詩)は、音楽に乗せて吐き出される時代となった。
 おれにも出来るのだろうかと先週挑戦してみたデモテープ。そいつを送りつけたのは、札幌のインディーズ・レーベルである『レイブン・レコーズ』。あの大鴉のエンブレムで知られているレコード会社だ。


 この日の仕事を終えると、人々の波を縫ってカフェに入った。待ち合わせていたのは『レイブン・レコーズ』のスカウト。札幌からわざわざ、おれの地元まで会いに行きてくれた。彼はタイ無しのスーツ姿で、眼鏡のレンズは薄型の高品、控えめな色でブリーチした頭髪。あとブリーフケースを持っている。だが今日は書類を交えた話はできない。それには訳があった。

「初めまして。仕事帰りだった?」

 彼はおれの着ている縞柄のツナギを見て察してきた。今日はあまり時間が取れない事情を説明しないと。奇しくも大事な用事が二件同時に重なってしまうとは___。

「遅れてきて、すいません。明日から数日の間、休暇を取って人に会いに行く約束になっていて残業をしていました。実はもう一件大切な用事があって、こう言っては失礼ですが、向こうのほうを優先したいんです」

 スカウトは意外そうな顔をした。アーティストにとって、このようなチャンスよりも大切な用事などないはずだから。おれが席に着くと、カフェの店員がオーダーを取りに来た。だけど断って彼と話す。

「直にここを立って街を出ないと。かなり久しぶりに世話になっていた恩人に会う予定になっていて。だから今日は長々と話せないんです。突っ込んだ内容は次回にまわせないだろうかと___」
 おれは肩をすくめた。「電話で断ろうかとも思ったんですが、誠実さに欠けるだろうから直接言いに来ました。そこをポイントとして加算しておいてもらえればと」

 おどけて許してもらおうとした。その約束というのは、あの男との『10年後の再会』。今夜には釧路に着いていたかった。

「いいよ。何か事情があるのなら」
 スカウトは意外にも笑って承諾してくれた。彼の今日の目的は、デモテープの送り主本人とのファースト・コンタクトだったらしい。

「でも少しぐらいの雑談は可能?」
「10分なら」おれは応える。
「でも10分で、重要な内容は扱わないほうがお互いに良いはず」
「まあ、そうだね」彼も頷いた。

 カフェの店内から表の通りが見渡せる。往来する人々の服装は秋の装い。雪が降る頃にはまた一段厚着にシフトする。今はまだその前段階にあった。
 秋の強い風。それは割と軽装の防寒対策に留まっている人々の体温を奪う。雪が降ってしまった頃のほうが厚着であるため、体感的には暖かい気がする。なぜか今時期が特に季節の中で一番寒いなと、おれはいつも感じてきた。
 本格的な冬が始まれば、秋風のような強い風も然程ない。日没後には雪の月光反射で夜間の見通しも利くようになっていく。

「君の活動名はアキアス、本名も明快(あきあす)だと思うんだけど、SNSはやってないの? 全然見つからなくてさ」彼は検索をかけていたようだ。

「やってないですよ、その理由?」

 スカウトは頷く。彼はアマチュア・アーティストが便利なSNSを活用していない理由を知りたがっている。だから手短に話すことにした。

「___何と言えばいいのかな。創作のメイン出力に影響する、そういった問題が生じてくるから。日々思いついたことや、そのアイディアなどを自分の作品に昇華せずに、SNSにボンボコ垂れ流す人たちで最近は溢れ返っている。見方によっては勿体ない。自身の言いたいこと、自己表現のアイディアなどは磨く前の部品だよ。咲く前の蕾そのもの」

 スカウトも頷く。
「それを片っ端からそのまんま吐き出してしまうのは、自制を欠いた状態に見えると?」

「せっかくの着想も作品としてパッケージに仕立て上げなければ、ネット上の”3分娯楽”で終わってしまう。ポッキーを一本ずつ配ってるような感じだ。あまり嬉しくはない」

 おれは椅子に座り直し、スカウトは宙を仰ぐ。

「でもさ、そこを足がかりにして作品が知れ渡っていく表現者もいるよね。勿論それらは、ある程度の形まで作り込まれた状態だけれど___」

 腕を組んで、そうそう、とおれは頷いた。

「おれもきちんと作ったほうがいいと思う。発明家が可能性を口走ったところで現物を組み立てて見せなければ、何も起きはしない。近頃は判断力とセルフ・コントロールのある人間には、有利な時代になったんじゃないか。おれだって”気の利いたテキスト”をアップするだけなら、毎日数本は思いつく。これでもどっちかと言うと得意なほうだよ。得意だという事は、つまり”危険”なんだ。気づいたらやりがちになる。それに気づいてからSNSのその手の使い方はやらないことにした」

 スカウトはウンウンと頷いて、面白いね、と言う。まだ何か話したほうが良さそうなので、この話題を続ける。

「袋に開いている穴は一つのほうが出力が良くなる。創作者がツイートにブログ、その他諸々いくつも出力穴が開いていると、結局自分が一番出力したい主力部位の圧が必然的に下がってくるよ。おれは表現圧を穴だらけでスカスカにはしておきたくない」

 おれは時計を見た。___あと6分ぐらいだな。それを察してスカウトも質問を急ぐ。

「他に譲れないこと、君が創作する上での指標のようなものがあれば知りたいんだけど、話してみてくれる?」

 スカウトは身を乗り出すようにしてきた。値踏みしているのかもしれない。おれも考えを手繰り寄せていく。

「例えば得意不得意は関係なく、自分のしたいことをすべきだと思う。と言うのはつまり___」

 説明には比喩が必要だった。

「自分の本当にやりたいことが”現実的とは思えない困難な夢”かもしれない時、人は躊躇する。だから手の届きやすい仕事、そんなに好きじゃないけれど得意なことをするべきじゃないかと思い直したりする」

「あるね」スカウトは頷く。

「そんな時はコイントスで決めてしまうといい。オモテが出れば、”本当はやりたい困難な夢”を。ウラが出れば、”現実的な妥協”をすることにしてしまう。いったん、コインに任せてしまうんだよ」

 おれは目には見えない想像上のコインと、自分の手振りを交えて話す。

「コインを弾いて、捕まえる。___ここで自問する。手を開いた時、コインはどちらの面が出ていると自分は嬉しいと思ったか? 瞬間的に頭を過ったのは、オモテなのか? ウラなのか?」

 一種の心理テストだ。スカウトも意味が分かると、ニヤリとした。

「そいつが自分の答えに違いない。だからそれをやる。そういう感覚を常に大切にしたい」

「人の意見には、流されるべきではない?」

「自分で深く熟考し終えてその方針を定めたなら、あとは他人の言う事を聞く必要はほぼない。いや、全くないだろうな」

 おれは自身の中の不良性を自覚する、

「とにかく飛距離を伸ばしていく事が大切。いちいち周りの意見に振り回されて方向転換をかましてみたり躊躇していては、いつまで経っても遠くまでは行けない。”人の言うことを聞かない時期”に人は大きく成長して跳躍していくものだと思う。それはどの分野でもそうなんじゃないかな。結局、雲間を突き抜けてしまったものってのはそれが何であれ、人々は評価するものだよ」

 おれは具体例を思い巡らす、

「日本のカルチャーで世界に通用するものはみんなそうだ。外野の意見に耳を貸さず、閉鎖的に取り組まれ、改良されてきたものばかりに思える。___武芸、民芸品、漫画から、”カワイイ”文化まで。この国独自の習慣である”弁当”もそうだし」

 レイブン・レコーズから来た男は笑った。けれど否定的な意味ではなく、面白がっているように。___おれの喋っている内容は少々風変わりに聞こえるのかもしれない。

「日本のアニメーションは全体の動きが少なく、人物の口だけが動いていて、宜しくないとアニメーションの世界で貶されていたけれど、日本のクリエーター達はそのまま前進して行った。結果は見て分かるとおり、今では評価を受けるメディアになってしまっている。そういうもんだよ。おれも誰かの余計な意見よりも自分の感覚を信じたい、という側面は勿論あるわけで。でも、どういったフォーマットで世に創作を羽ばたかせるべきか。それが未だ見つからなくて。かなりもどかしいのも事実___」

 店の壁掛け時計を見た。あと2分。カフェの壁掛け時計の小さな扉からハトが飛び出す前に、おれはこの店を飛び出したい。そしてこれが最後とばかりに、彼は質問を繰り出してきた。
 それは「ライミングに興味を持ったきっかけって、何かあったりするの?」という、”仕事上”の問いかけだった。だからこれにも真剣に答えた。

「ルールの制約の上で作り出されるものに形式美を感じる。それは常にそう感じる」

 おれは宙を仰いで言った。

「韻詩(ライム)に関してなら、織りなされる言葉の配列に美しさを強く感じる。___散文詩のように好きな言葉を配置できるわけでもない。一定の間隔で音感を合わせた言葉でないと組み立ててはならないという、韻の制約だ。これは表現を、自由にする」

 スカウトは眉をひそめた。
「制約があると表現幅は狭まって不自由にならない?」

 おれはこの日最後の自論を展開する。

「例えば映画の脚本は英語で書くと2時間尺で大体120ページほどの長さだと言われている。セリフと簡素なト書き、それだけで120ページの物語を描くんだ」

 自分の大好きな映画を思い起こす。

「世の中に出回っている映画を見ても分かるけれど、この形式によって表現が限定されるどころか、むしろ作品が多様化されている節すらあるよ。___昔のゲームソフトは容量が小さかったがために、データ容量の取り捨てや表現上の工夫がなされて、なんとか収まる大きさまで削られてパッケージされていた。その結果、磨かれた表現がとても多い。今みたいな大容量ディスクにいくらでもブチ込める時代では、当時のような職人芸は大してしないで済む。___ここで話を戻すけれど、ライムの制約ルールもまた同様に作用していると思う。つまり形式という外枠があることで、その内側で大いに乱反射を起こすことができる。外枠が特になくて曖昧であると、物事は大してぶつかり合わないで済む。それはあまり面白味がない。創作の素材、その要素要素がぶつかり合うほうが好きなので」

 時計を見ると時間を少々オーバーしている。まとめに入った。

「フォーマットが定まっていることで余計なことを考えずに、その定型内で思う存分にクリエイティビティを暴れさせることができる。文字数や季語のルールのない短文詩が俳句であった場合、昔の人々はこんなに書いてなかったと思う。控えめに見ても書いてて面白くないから。”工夫する”という頭をひねる工程を、制約や形式はおれたちに投げてかけてくれる」

 おれは立ち上がって肩をすくめる。
「___それに答える。だからライムが好きなんです」

 スカウトはニヤリとしていた。興味のある話であったらしく、おれは退散することを許してもらった。次の約束の場所は札幌に決まった。

「今日は君の実際の姿の確認と、事務所に来てもらうアポが取れれば別によかったんだ。じゃあ次はうちの上層部の人間を交えて話そう。ではまた、アキアス」


* * *


 釧路に到着し、レンタルコンテナの内に入った頃には日が暮れていた。

「これが少二郎っていう高齢者の持ち物です。なるべく急いでください」ここの職員が落ち着かない様子で言う、

「誰かにバレたら、かなりマズイ」

 おれは今、”少二郎”が生前に長期契約していた借りコンテナの中にいる。契約期限はまだ切れておらず、中の遺品は処分されずに残されている。整然と積まれた彼の私物を見た。なんとも言えない感情が込み上げてくる。___少二郎は死んだ。あの思い出のトタン屋根のアトリエから運び込まれた生活の品々。彼の私物の全てが10年前の記憶と共に、目の前に乱雑に置き遺されている。

「少二郎が黙って死んでいくはずがない___」

 おれは独語が口をつく。それらをざっと見渡してみる。彼の描いていた油絵やお馴染みの調理器具の数々。おれが普段好んで座っていたパイプ椅子。彼のリクライニングチェア。そして彼の書き溜めていた韻文詩のノートの山。

 コンテナ会社の職員が暗がりの中、辺りを心配そうに警戒している。おれは何をどう探すべきか、まだ分かっていない。

「何か欲しいものがあるんですか?」

 おれは返事をしなかった。何かあるはず。あの男が人生に敗北することはない。何かを書き残すか___? いや、むしろ声を吹き込んでいる気がした。

「これで全部?」
「ええ」

 職員は頷く。そのあと数分間に渡り、ダンボール箱をしらみつぶしに開けてみた。持ち物がミニマム傾向にあることが幸いしているものの、それでも短時間では手に負えない数だ。人ひとりの人間が遺す物の量を思い知らされる。

「もういいですか。そろそろ本当にマズいっす」

 少二郎が詩をリーディングする際にいつも使っていた、あのボイスレコーダーが見当たらない。

「ここまでです。さあ出て行ってください!」

 ジャケット。___おれが彼の誕生日に贈った唯一のプレゼント。革のジャケットはどこだ?

「電気を消しますよ! いいですね?」
「もういい、行こう。用は済んだ」

 おれは木椅子の背に掛けてあったジャケットの左ポケットからボイスレコーダーを掴むと、職員に折りたたんだ万札を握らせ、少二郎のコンテナから抜け出した。それぞれが夜の闇の中へと紛れ込んでいく。

 ここは釧路の住宅密集地から外れた人通りのない海岸沿い。興津(おこつ)の車道。月明かりのみが辺りを照らしている。ボイスレコーダーにイヤホンを差し込むと、おれは最後の記録を再生させて歩いた。

 季節はすでに秋めいた10月の深夜。

プツッ。
ザザッ・・。

「______これが最後だ。_____アキアス」

ザザザ・・。

「書き溜めてあった詩はすべてリーディングしちまったし、もうやることがない。だからこうしてお前にメッセージを残すことにした。もしお前が約束どおりに10年の間、ここには戻らずに自分の力で生きて再び俺に会いに来たのであれば、アキアスは今30歳の男になっているんだな」

ザザッ・・。

「謝るつもりはない。だがお前が驚くのは本意ではなかった。そうだ、俺はシリアスな病に侵されていたんだ。それがここにきて急変し出したわけだ。まあ皮肉なもんだ。人生の幕ってのは、降りては欲しくない時に突然降りるものなんだな」

「アキアス、お前がアトリエに来てからの日々はなかなか充実極まるものだった。俺は子供の世話はできない。だが男になら手は貸せる。お前はもう大人になったんだ。____まあいい。なんだ。あれだ。言わなけりゃならない事が二、三ある」

ザザザザ・・。

「お前の両親についての話だ。親戚連中がお前に何を言ったのかは、俺も知っている。父ちゃんは酒飲みがたたって肝臓を病んで死に、母ちゃんはどこかに消えた。それが4歳の頃に起こったことだと言われた、そうだな?___アキアス、あれは作り話だ。いわゆるカヴァー・ストーリーってやつだ。本当のことを教えておく。おそらく俺が今ここで言わなければ、もう誰もお前に話す機会はないだろうからな」

「お前の父ちゃんは生きている。それも大した身分の人間なんだ。自動車メーカーのCEO。信じられないだろう? だが本当だ。___この男は妻以外の女、つまり公にはできない関係上の女に子供を産ませた。それがアキアス、お前なんだ。この女性は水商売関係の何かだということ以外には、俺も詳細は知らない。だが女はお前を施設送りにしたってのも事実だ。ある意味、作り話は半分本当だな」

「___父親のほうはお前を私生児にした。”知らない”を決め込んだようだ。施設暮らしになって親戚から孤立無援で生きてきたのは、こいつのせいだった。いつだったかお前を見に行ったことがあったらしいのだが、当時16歳でお前がちょうど荒れていた頃だ。記録にも残ってるだろう。それを見て奴は結局そのまま、お前を放り投げる事に決めたらしい。まあ、いずれにせよ、お前はお前で奴を好きにはなれなかっただろうよ。お前のことだ、今更支援してもらうはおろか、一緒に生活なんざできたわけがない。そうだよな?」

ザ・・ザザ。

「おかしなもんだ。実際は裕福層の血筋なのだが、労働者階級で奮闘することになった。それがお前の人生。アキアス、お前はそこで磨かれると俺は信じている。お前はアーティストでもある。芸術は、___お前のスキルは必ず武器になる。お前を助け、道を切り開いてくれる。そこは保証する。いつだったか、お前は俺のことを『冬に咲こうとした花』だと言ったな。あれを思い出す。ハハ・・。上手いことを言ったもんだよな。俺が韻文詩を書いていた頃、俺たちの界隈にはヒップホップも何もなかった。周りは散文使いばかりだ。日本語で韻文はできないと言われていた。お前は俺を『ライムの先駆者』とも言ってくれたが、お世辞が本当なら冬にでも開花していたはずだろ。俺はやはり無名詩人で詩集を3冊、それから最近録り始めたリーディングの音源ぐらいを残してせいぜいだ。___俺の存在は歴史には残らない。そういう男として堂々と幕を閉じる。それもいい。身分相応___」

ザザ・・。

「だがひとつ頼みがある。アキアス。俺は『気配』を残していく。そのあとの脚韻をお前が見つけて欲しい。ライムと同じだ。俺がいたという気配、その次に来る韻をお前が見つける、そして繋がれば詩になる。俺という存在は、重要な一節となって残ることが許される気がするんだ。お前の持つチカラを開花させ、自身が何者であるのかを見つけるんだ。社会的な意味合いでなくてもいい。お前自身が感じる己の正体、役割という意味でだ。俺は今それを強く望んでいる。___消えていく人間は妙なことを言うもんだろ? そうだな・・それが俺の最後の願いかな____」


 ボイスレコーダーの再生が止まる。おれはそのRECの日付を見た。2008年12月10日。この日付は、おれが彼のもとを離れた10年前から数えて、たかだか2ヶ月後であることを意味している。

 パーキングエリアに戻ってスカイラインのシートに座った。おれはしばらく動く事ができなかった。そして滞在するつもりだった四日分の荷物を積んだまま、自分の街に帰る事にした。


 深夜の峠を引き返す道すがら、強風が吹き荒れていた。貨物トレーラーが一台停まっているだけの道の駅のトイレに入り、蛍光管の現実的な白い光の下、鏡に映る自分を見た。
 
 誰もいない。
 風の唸り声だけがする。

 床から底冷えがしてきて上着の前を閉めてフードを被った。
 疲れていた。___目を瞑ると眠ってしまいそうだ。


 ___いつものドアが見える。

 ドアは鍵がかかっていて、ここから出られないと強く感じる。
 そして急にこの現実が過酷すぎると思い始め、高くて不安定な足場に立っているかのように足がすくんだ。呼吸が浅くなって、子供のようにひどく感傷的になった。

 するとどういうわけか、すぐにスイッチが切り替わる。ドアの向こうに何かを閉じ込めたと感じて、おれは笑いがこみ上げてくる。

「上等だ、もっとやろう___」

 おれはスカイラインのシートに戻ると、再び闇夜の峠を走り出す。そこに不安の心は微塵もなく、あるのは胸いっぱいの高揚感だけだった。
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