第27話 星空が鳴っている

文字数 7,254文字

 チェインスネアが飛び降りたのは明け方の3時だった。

 一番早い報道はネットのニュースサイトで、その数分後にはテレビ番組の最中にテロップが流れたようだ。

 目撃者となった人は複数いて、その誰もが高層ビルの谷間の暗がりに落下してきたものが人だとは思わなかったし、また彼だとは気づいていなかった。


「確認中だが、ほぼ間違いないってことのようだ。___チェインスネアは自分で身投げして即死した」

 砂依田の声を電話越しに聞いていた時、おれは暗がりの中で寝起きのままベッドに腰掛けていた。

 絶大な支持を集めてきたカリスマの死は多くのファン、とりわけティーンエイジャーを道連れにする可能性があった。朝には大々的な報道特番が組まれ、人々はメディアの煽りを受けて、自殺の経緯を口々に推察する光景が目に見えるようだった。

 その死に方にもよるけれど、死んだ人間の影響力は計り知れない。振り回される人々は必ず出てくる。チェインスネアの自害は身近な人々のみならず、多くのファンを傷つけ、後遺症を残すのは明白に思えた。

 おれは暗闇の中で猶予時間を思う。日が昇るまでの時間がせいぜいだろうか、人々は目を覚ました順にデバイスからネット経由で事実を知っていくことだろう。


「聞いたか、アキアス?」ナックルから数分後に電話が来た。
「なぜ彼は自殺なんか___」

「実は思い当たらないこともないんだ。落ち着いたら今度話すよ。それより、micotoが心配だ。おれは今から彼女のところへ行こうと思う」

 高カフェイン飲料を手に部屋から抜け出し、車に乗り込んだ。


 * * *


 おれが到着した時、micotoはこの事実を知ったばかりだったようだった。もともと夜更かしをしていたらしく、事を知るともう完全に眠ることはできなくなっていた。様々な不安要因が重なっている。

「アキアスはチェインのように優しくない」

「彼は私の哀しみをわかってくれた。彼も哀しみを抱えていたから」

「私は心の拠り所を失ったんだよ。もう生きていけない」

「生きていてもいいことなんて起きない。身体も動かないし絶対治らない。私は夢も無くしたし、大切な人も亡くした。ただ死んでいないだけ。この先ずっと苦しむためだけに生きていくなら、死んでしまいたい」

「励ましの言葉とか、見当違いなことは何もしないでアキアス。それ意味ないから。本人にしかわからないよ。アキアスにはわからない。絶対に」

 彼女は泣きじゃくっていて、顔は真っ赤になっている。
 おれは耳を傾け、micotoが話し終えると言った。

「想いを喚き散らすのも必要なパートだ、それでいい。じゃあ次の段階に入ろう、『アクション』だ。君は今日も午後からリハビリをやる。そのために今から寝ておかないといけない」

 micotoは信じられないという表情をして見せた。

「こうなっちまったら、これからは『アクション』の中を生きていこう。悲しみから逃れることはできないんだろ? でも上手くやり過ごす方法はありそうだよ」

「”悲しみの牢獄みたいなものに長く居ると、鍵がかかっちまう”。今のうちに身支度を済ませないとな。そこから抜け出してしまわないと」

 彼女の母親も心配そうに部屋の外から見つめていた。
 おれは話し続ける、

「『アクション』ってのは乗り物に似ている。君は動き続ける。悲しみに絡め取られないよう、動き続ける。そして止まらない。これからの日々、風を感じ、自分の変化を感じ、移りゆく景色を見ていく」

 micotoはセーターの袖で目を覆い、嗚咽を吐いた。本当にひどい状態になる前に、直接会いに来てよかったと思う。

「もう何の希望の火も残っていない人間は、そんなに苦しみを訴えはしない。そんなに喋らないし、黙って死んでいくだけで事足りる。君は自分で気づいている、___この先の困難さを___気づいているから嘆いているんじゃないのか。___その消えかかった灯火が揺らぐから苦しむんだろ。生きるのが困難だと感じるのは、生きるつもりがあるからだってのが万人に共通しているはずだけど、誰しも同じところをふらふら彷徨ったりしている。もしそうではないなら、死のベクトルと君のベクトルは仲良く一致を見て、おとなしく収まりが付いているはず。わざわざ軋むこともなく、スムーズに運ぶ」

 おれは確信は持てないものの、効力のありそうな言葉を並べているに過ぎない。正解でなくてもいい、”効果”が欲しいだけだ。

「リハビリだっていつかは再開するんだ。だから今日からやってしまったほうがいいよ。”彼が亡くなったあの日だって、私はリハビリをしていたんだ”、という大いなる刻印をしかと残してやれよ。そいつは後々すごいチカラになって自分に跳ね返ってくる。・・そうだろ。____負けるわけにはいかねえからな・・」

 おれは自分のことを思い出して泣きそうになったが、泣かずにいた。

「今日はおれも付き合う。立ち向かう人間を見るのを世間の連中は好きなんだ。闘う種類の人間にはスポットライトが当たる。___どう振る舞うんだ? たった今、micotoには観客がついたぞ。MCとしてどう振る舞ったらいい? 彼らを退屈させてはならないんだ」

 ”MC"はなにも___ラッパーだけではないよ。



 世間の、多くの若い世代が喪に服していた。そういう夜に静かに走り込むランナーをおれは見かけた。街灯の届かない暗がりの寂しい中を走っている。
 おれもよく走っていた。最初は少二郎と二人で走り始め、いつしか一人でも走るようになり、かれこれ何度、夜のロードワークに飛び出していったことか___。

 報道番組ではチェインスネアの悲報の他に、大物政治家の金の不祥事と自然災害の報道が、折り重なって食い込む形になっていた。奇しくもこの国では、ラップ・アーティストの地位はあまり高くはないようだ。一時的なトピックにはなっても、数日経てば報道もされなくなる。

 ___それが亡くなった彼にとっても、良い事なのかもしれない。


 * * *


 おれはレイブン・レコーズの事務所を訪れた。

 駐車場にいつもの車が見当たらず、事務所には人が出払っているのか、誰もいない。残っていたのは警備の人だけだ。この人とは何度か話したことがあった。
 住宅の電気配線技師を引退して、今は警備会社でバイト扱いになっている。顔中に皺の刻まれている年配者。

 誰もいないけど事務所に用事があるのかい、と彼は言った。いつもなら誰かしらいる時間帯のはずだった。

「スタジオ関係者の皆さんは早退したそうだよ。プロデューサーの人が帰らせたらしいね。詳しくは分からないけど、誰か歌手の人が亡くなったんでしょ? それでだって言ってたね」

 おれは用事もあったので、スカウトに連絡を取った。すると「こっちに来てくれ」と言われた。よく分からないままに指定されたススキノにあるバーに行くと、そこにスカウトがいた。そして砂依田も一緒にいる。

 店内にはグランドピアノが置いてある。


「アキアス、悪いんだけどケイシーをタクシーに乗せるのを手伝ってくれないか。俺一人では、どうにもならないんだ」

 砂依田はバーカウンターの上に突っ伏して泥酔していた。こういう姿を見たのは初めてだ。いつもスタジオ内でしか会ったことはなかったから、当然ではあるけども。

「何があった?」

 スカウトに聞くと、彼は頭を振って「分かるだろ?」と言う。「チェインスネアは、ケイシーにとっても大切な友人だった」と。

 おれは知らなかったのだが、二人は単に仕事上だけのドライな付き合いではなかったようだ。一時は砂依田がチェインスネアを担当していたこともあったのは知っていたけれど、それ以上に彼らは”親友”だったらしい。

 この二人に限っては気心が知れ合っているとは思えない、___おそらく互いを静かに認め合っているような、非言語的なもので結びついていたのだろうと察した。


 砂依田の横の席におれは座り、バーテンにグラスビールを頼んだ。

 ほとんど飲めない自分が酒を注文したことに、スカウトが驚いているまま、「外で待っていてくれ。10分以内にタクシーに乗っける」と約束をして離れてもらった。

 おれが隣りにいることに砂依田は気づいた。
「お前か、ここで何してんだ」

「チェインのことは残念だった」とおれは切り出す。

 砂依田は這うような感じでカウンターから上体を起こし、カラのジョッキを握ったままで動かない。
 おれはバーテンに注いでやってほしいと頼んだ。これで最後にさせる、これはそのために必要な一杯だから、と説明して。

 並々に注がれた中ジョッキを砂依田は半分一気に飲み干した。

「お前、迎えに来たのか? こいつはプライベートだぞ。今日の俺の営業は終わっている」

「最終的にはタクシーに乗せることになるが、その前におれも横で飲むことにした」

 砂依田は鼻を鳴らした、
「飲めねえとか言ってなかったか?」

 おれは琥珀色のグラスビールを受け取った。___小さな気泡が上っていく。

「話したいことがあるなら話せよ、おれ自身めったにそういう気は起きない」

 細身のグラスビールをちびちびと傾けた。今夜は彼の死で普段とは違う夜になっている。___おそらく日本の各地で。

「チェインに関して何か言いたいんだろ。今考えていることを言葉に変えたほうがいい。いずれは自分でも取り出せなくなる」とおれは促した。

 砂依田は完全に泥酔していた。おそらく明日には何も覚えていないだろう。そして奴は話し出す、

「もう一回セッションを交わす予定があった。俺のプロデュースであいつの曲をやるっていう。その頃には俺はもっとマシになり、あいつ自身も違うものに化けているはずだった。___そういう時期が来たらまた一緒にやろうってなニュアンスだった・・はずだ」

「約束した訳ではないんだな」

「なんでも言葉に置き換えてる訳じゃねえし、そうすべきじゃねえだろ。お前はこの辺のことを知ってるはずだ」

「そうだな」

「奴は連絡なしに飛び降りたぞ、昨夜。___いや今日の早朝か? クソ野郎め」

「だからといって”通じていなかった”とは言い切れない、片約束だったという証明にはならない」

 砂依田は黙り込む。おれなど横にいないみたいに、考えに入れていない。


 口に___言葉にしなかった約束や想いを共有しているつもりでいても、相手は実はそうではなかった、なんてことはザラにあるだろう。
 でも、チェインスネアがセッションの”続き”があると感じている相手の想いに気づかず、汲み取れなかったということは無いと感じている。

 切羽詰まった渦中に思い巡らすのは自分自身についてと、せいぜい大切な誰か一人ぐらいなものじゃないだろうか。その飛び降りた早朝の屋上の淵にいたのは、鎖罠___『チェインスネア』と名乗っていた優しい男と、彼の妹だけだったに違いない。

 彼らは早くに親を二人とも失い、残された二人で生きてきた。そして妹を失い、曲作りに明け暮れた最後の一人は、ターミナルに差し掛かっていた。
 ___いや、限界はとうに通り過ぎていたのかもしれない。この世界にはたくさんの人がいても、彼は”世界に残された最後の一人”だった。


 おれはグラスを空けてしまい、頭がパヤり出す前に結論してしまいたいので話す、

「___置いていかれただの、無視されただの、残された奴は好きに想うよな? それは彼らに対して失礼だ。四六時中、誰かの頭の中に自分がいるなんざ思うなよ。そんなことは有り得っこない話だ。水を浴びてれば水に、闇の中にいれば闇に気を取られてる」

 おれは砂依田の腕を取って肩に担ぐ、

「彼もケイシーとかいう気難しい奴と、また一緒にやるつもりだった。だがそういう成り行きにはならなかっただけだ。仕方ねえだろ。今日はもう帰らないとだめだ」

 おれのプロデューサーは目を瞑ったまま首を傾げている。金髪の頭を振り乱すに任せて、おれに引っ張られながら少しずつ自分で歩いた。
 バーの店内を横切って出口に向かっていくその途中で、グランドピアノの前を通り過ぎる。


「あいつはその辺に生えていただけの野草だったのに、大輪を咲かせた叩き上げだったが、俺は違う。___俺はクラシック系のサラブレットだとチヤホヤされていた。俺についていた教師も、親の顔色を常に伺うような、そういう腐った環境下にあったことにガキの頃は全く気づかねえままだった。___だが『実際はどうか?』ってのはステージでは必ず裁かれる。その時になってようやく俺は、自分が囲いの中で温ついていただけの真性のボケだったと知ることになる。___マジでふざけた話だ。どいつも『お前は別段、上手いわけじゃない』とかなんとか、絶対言おうとしなかった。泳がなきゃならん奴を一番ダメにする、タチの悪い金魚鉢みてえなところで多感な頃を浪費しちまってた訳だ」

「ピアノは受けたコンクール全て、当たり前のように落とされた。予選は一度も通過しねえっていう見事な成績で、ジャズピアニストとしてのキャリアを終えたわけだ。___俺は頭にきて、高校を卒業する間近の頃だったが、半ば縁を切るみてえな格好で家を出ることにした。それ以来、誰かが死んだ時ぐらいしか帰ることもない。帰ったところで音楽の話なんざ全然しねえ。___奴らは『俺を守ろうとして俺をひどく傷つけてくれた』訳だが、本人らがそのことに気づいているのかどうかってのも、もうどうでもいいぐらい、時間は過ぎ去った」

「唯一自分を誇れる、なけなしの自尊心みてえなもんをコテンパンにのめされた結果、昼なのか夜なのかも分からねえぐらい当時の俺はウンザリした。だが音楽そのものを辞めようって気にはならなかったな。そいつは他の奴らには理解できることじゃねえよ。俺にとっては『忘れ物に気づいて再び戦地に向かう』みてえな、極めてフィールド・ライクなワケがその大半を占めてんだが、それについてお前らがコメントしてくれるな。うぜえだけだ、聞きたくもねえ」


 バーの出口まで来た時、おれは足を止めて言わないつもりだったことを話すことにした。

「チェインスネアはあんたのことを知りたがっていた。そしておれが何かを知った場合、それを聞きたそうな素振りだった」

 おれたちは不確かな足取りで、だが少しずつ進んでいく。
 ___人の歩みはいつもこんな感じだ。

「別に悪いことだったとは思わない、互いにそういう人間なら仕方ない。だけど、もっと話してみても良かったってのは確かにある。結果論や後日談にこういったものは付いて回る。煩う必要はないが、その後の生き方の修正に繋がる場合はあるかもな。___今かなり酔ってるんだろ? 明日にはこの話は忘れてろよ」


 外で待っていたレーベルのスカウトに砂依田をパスすると、おれはそこを離れた。しばらく歩いて地下鉄の入り口に差し掛かると、micotoからメールが入っていたことに気づく。


 * * *

発信 micoto
アキアス、ようやくわかったよ。
私はチェインのあの、”生きようとするエネルギー”に惹かれていたんだって。
おとなしい女子が不良少年を羨ましく思ってしまうみたいに。
彼のリリックはいつも、そういうもので満ち溢れていた。

さっき部屋の明かりを消して彼のアルバムを全部聴いていたの。
そうしたら、この前の停電の時を思い出して。

やっと気づいたんだ。
チェインの曲は、あの時の星空みたいだって。

 * * *


 おれはデバイスの画面をしばらく見つめていた。___micotoは上手く乗り越えられるかもしれないと感じ、おれもすぐに返信する。

 思いがけず長くなってしまった。


 * * *

発信 akiasu
チェインスネアという男は今は死んでしまったけれど、
それは彼個人の問題なのだと思う。
自害そのものは自分勝手で周りに影響を及ぼしてはいる。
彼は多くの人から好かれていたから。
けど彼本人にとっては、”この世界ですべてをやり終えた”
ということだったのかもしれない。

もしそうなら、それは個人の自由選択の範疇になる。
外野の他人が何か言っていいことは何もない。
死は害悪でもなければ敗北でもない。
それと同じように生もまた、強要されるものではないと思う。

君がチェインスネアから感じ取った”生きようとするエネルギー”は、
彼のアーティスト期間中、絶えず実際に在ったものだ。
それは紛れもない事実。
君はその部分に共鳴して惹かれていたのなら、
その部分だけ切り取って、有り難く受け取るといいよ。

人は必ず多面的であるし、職業アーティストなら尚更そうなっている。
彼は優秀なMCだ、ペルソナが多い。
飛び降りていった姿はまた別のものと捉えたほうがいい。
生に奮闘していた彼の姿を受け取るんだ。

ゴールドチェインから切り離したその輪っかは純金のリング。
頂いておけよ。そのリングは鳴り止まない。

 * * *


 おれは中心街を抜けて家路に着く。
 そして閑静なところを歩きながら気づいたことがあった。

『チェインスネアは制作を終えてから姿を消した』ということを___。

 彼は途中で勝負を投げるという考えは、全くなかったようだ。

 身震いがした。___おれはどこまで競い合えるか?
 姿を消した彼へのはなむけとして、真剣にやり合う必要がある。


 ふと、micotoが純正のゴールドリングを手にしている姿が、おれの頭にかすめた。___チェインスネアが人ひとりに、いや多くの人々の内面に引き起こしたことを想った。

『自分以外の誰かに何かを成してしまえれば、最高だろう?』と、去り際の彼は物語っているように感じられる。
 彼は自分に求められたアーティストの姿を、しかとやり遂げる方向性を貫いた男だったな。


 そしておれは、詞折の『金の紙ヒコーキ』を思い出す。

 あの紙ヒコーキの『意味』をおれは全然思い出せないままに、詞折の機影を見つけなければならないと感じていた。

 それは今となってはもう、遅すぎるフライトに違いないのだが。
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