第24話 友道――Lead

文字数 6,233文字



 周囲の森は清涼な空気に反して、自然の音が一切聞こえない不気味さがあった。その下に広がっている巨大な谷底からは緩やかなせせらぎが流れるものの、それでも辺りの静けさは小動物の鳴き声もしない異様な雰囲気だった。

 俺はその中心――数日振りに訪れた渓谷のど真ん中で、果てしない夜空を見上げていた。今日は雲一つ無い快晴だ。澄み渡る空には数多の星が瞬き、紺青のパレットに一際大きな丸い光が描かれていた。

 こんな綺麗な夜には、とある遠征の日に見た美しい天女の姿を思い出す。水面に照り返す月光を浴びて、森の祝福を一身に受け止めていた少女の姿は、芸術なんてさっぱりな俺が唯一見惚れた絵画のような光景だ。それを取り戻すことがルミー・エンゼに与えられた使命であり、誓い。俺はもう一度、あの横顔を見るためにここへ来た。

 崖にある大き過ぎる穴は、少女が奪われたのと同じ日に失われた騎士団が創り出したものだ。森まで突き抜けるトンネルはまさに激戦の残り香で、同時にあれほどの攻撃すら無に帰す敵の強大さを物語る。俺はポケットに忍ばせていた懐中時計を取り出した。針は、夜の長い開拓者たちでも眠りにつくくらい遅い時間を示している。「そろそろか」と呟いたら、その音が耳に届いた。

「アアァ――」

 遠く、いくつもの方角から奇妙な鳴き声が連鎖し出した。次いでバサバサと聞こえてくるのは鳥の羽ばたき。渓谷の壁に開けられた無数の穴から溢れ出す怨嗟の声は、魂の悲鳴だと知っている。

「出てきたな」

 【青の騎士団】が生み出したトンネルに比べれば数分の一にも満たない壁中の穴蔵。そこから現れるのは、夜の帳の中ではあまりにも眩しい蒼炎の輝きだ。

「さすがに予想外だったみたいだな。ただの支援者がたった一人で乗り込んでくるなんて」

 奴に設けられた期限日の前夜。俺は視界の認知を阻む“盲隠のまじない”を自らに施し、単身渓谷に侵入した。敵の本拠地とすら言っても良い場所で、まさか無防備に突っ立っている人間(ターゲット)が居るとは思いもしないだろう。

 まじないの効果はほんの数分前に切れ、()は俺に勘づいた。これが何かの策だとわかっても、あの芸術家にとっては確実に俺を捕まえるチャンス。自らの駒を進めてくるのは明白だった。

 次々に飛び出してくる青く燃える鳥たちが繋がっていく。ひたすらに大きく、広く。軍隊を超え、王宮に匹敵するほどの規模が渓谷を埋め尽くさんとする。月を隠し、夜空に浮かぶ圧倒的な怪鳥。死を纏う姿に、俺はもう屈しない。

「勝負だ……封し鳥(ふしちょう)!」

 宣戦布告して存在を認識させるや否や、座っていた岩からすぐに身を翻した。“封し鳥”はもう一度甲高い雄叫びを上げ、一心不乱に俺を追いかけ始めた。

 作戦の第一段階は『封し鳥を森へ誘導する』こと。そのためには、まず狙われている俺自身が渓谷と、この危機を脱さなければならない。既に死の一歩手前に居る。迫りくる青い炎――奪われた誰かの魂は、包まれるだけで体から魂を分離させられてしまう致命の性質があるのだから。

 宵に煌めく巨大な怪鳥が跳ね飛ばさんとする勢いで低空を翔ける。俺はポーチから呪符を取り出し、破り捨てた。

「“暴風札”っ」

 途端、さながら暴風雨の時のような突風が巻き起こる。冗談抜きに体が飛ばされる勢いを背中で受けて、崖に目掛けて数メートルを一気に駆け抜けた。これは友人であるトウマが行っていた風魔術による走行補助の模倣である。もしもこの技を使った経験が初めてだったなら、鼻からずっこけて顔を擦りむいたことだろう。それくらい融通は利かないが、幸いにして過去に幾度もの失敗を繰り返しているのだ。

 “封し鳥”は規格外の怪物。だから、今の俺にできる全てを使って挑む。そして、勝つ。

「アァ――ッ」

 後ろからは遠くなった死神の音叉が響く。振り向いている暇などない。 “魔女の痣”を狙って飛び込んで来ているはずの封し鳥の飛行速度は、並みの騎士すら凌駕するのだから。しかし谷底に居た俺の眼前は、行き止まりの岩肌だけになる。恐怖を押し殺し、今度は別の呪符を胸に押し当てた。

「“壁渡りのまじない”!」

 服の上で黄色と灰色が混ざったような鈍い光が生まれた。その発光が収束する前に、崖の壁へ足裏を伸ばす。すると本来ずり落ちるはずの体は、崖を垂直に登り始めた。

 “壁渡りのまじない”はその名の通り、壁に足を着けても落ちなくなるだけの術だ。効果はほんの三十秒と少し。しかも誰かが押し上げてくれる訳でも無いため、一歩一歩が重力に対して逆らいながら垂直ジャンプしているようなものである。身体能力に乏しい俺にとっては過重以外の何物でもない。限られた時間の中で、落ちたら即死の崖を醜く飛び上がる。嘴はほんのすぐ後ろにまで迫っていた。

「こんっ、じょおぉぉーっ!」

 両手がどうにか崖を捉えた。同時に“壁渡りのまじない”の効果が消え、這う這うの体で渓谷の上に上がり込む。腰に帯びた剣がガシャガシャと地面に当たり、俺に忌々しさを訴えた気がした。既に心肺機能の限界が近い。だけど、今日で肺が破裂したとしても構うものか。今から始めるのは生死を賭けた鬼ごっこ。地獄の淵に立ちながら行う児戯のごとき作戦である。

「ついてこい……これが欲しいならな!」

 俺は翼をはためかせる巨大な“封し鳥”に向かって、手の甲の痣を突き出した。崖を飛び越した魂の集合体が月を隠す。

「視覚を借りてるって言ってたよな。見えてるんだろエセ芸術家!」

 挑発を繰り返すと、“封し鳥”は乗ってやると言わんばかりに追いかけて来た。再び全力で走り出して、崖周辺を取り巻く森の中へと入り込む。細身の体で木々の間をするすると抜け走り、深緑色の髪を風景へと溶け込ませた。

 負けじと“封し鳥”も森へ入ってくる。その正体が人間の魂である青い炎は、森に燃え移ることはない。そして物理的な干渉を受けてしまう性質上、巨大な図体のせいで森を満足に進めずにいた。そうなると次の手は、この場所に対する最適解だ。“封し鳥”の体から人の顔大の青カラスが次々に飛び出してくる。あたかも羽が抜け落ちるがごとく怪鳥のサイズが小さくなっていき、視界の悪い森の中を縦横無尽に翔けられるようになった。

「俺が捕まらないのは前提なんだ……数があるからってそう簡単にいくと思うなよ!」

 この逃走劇は作戦の下準備でしかない。必要なのは“封し鳥”とそれを操るアルト・ワイ・ヘロスリップを釘付けにし、時間を稼ぐこと。ルミー・エンゼに戦う力がないことなど端から理解している。だから大声で気を惹き、限界の肺を鼓舞するのだ。これまた走りながら“暗視のまじない”をかけると、青カラスたちがよく見えた。森の木々を避けて追いかけてくる群れの数は百やそこらじゃない。

「やっぱり、あの時よりも数が増えてる」

 一度目の戦いで奪われた八十二人の魂。それらが“封し鳥”の中に加算されているのは予想通りだった。今回の作戦はそのことも念頭に置いていたけれど、戦闘は机上で済むものではない。俺はかつてないほどに足を回し続ける。

「うわっ!」

 突如、真横から一羽の鳥が突っ込んできた。触れるだけで致命となる突進を寸でのところで躱し、崩れかけた自重を決死の思いで引き止める。視界の悪さはカモフラージュにもなるが、相手にも死角を与えてしまう。もし何か事故でも起きれば、全てがおじゃんだ。一刻も早い作戦完了が求められる。俺は走りながら懐中時計を取り出した。分針は鬼ごっこ開始から三つ動いている。

「そろそろだ……“黒煙札”!」

 新しく取り出した呪符を破き、地面に叩き付けた。すると黒い霧が空気を孕んだように広がる。敵も驚いていることだろう。何せこれは、前回の渓谷での戦いでアルト・ワイ・ヘロスリップが使った呪術そのものだからだ。

 俺とあの男の呪術には、どことなく共通点がある。セアル家に伝わっていた“封印術”のような固有性はなく、まさに『呪術』を学ぶ者が通る基礎地盤から派生した仕組みのもの。だからこの“黒煙札”も簡単に模倣することができた。

「今ッ」

 懐中時計を放り捨て、木の一本を使って身を翻す。数秒後に煙から飛び出し、来た道の逆走を始めた。俺の姿を確認した“封し鳥”は、ヒヨドリともカラスとも区別がつかない不気味な声を上げて、もう一度背中を追いかけ出す。命懸けの遊戯は継続。今度は向かう先にも青い炎が揺らめいており、回避する難度はさっきよりも上がっている。

 しかし、俺は“封し鳥”が積極的に追ってはこなくなると踏んでいた。なぜなら踵を返したことで、この先に広がっているのは断崖絶壁であり、こちらの逃げ場がなくなってしまうからだ。木々を介して囲まれた今、追い込み漁は待っているだけで成立する。案の定“封し鳥”は速度を落としながら、じりじりと木々の隙間を埋めていくことに注力し始めた。それでも木陰に火を潜める鳥に最低限の注意を払い、ひた走る。

「アアア――」

 余裕ぶった嘲笑がそこら中に溢れ、合唱を奏でる。やがて見えてくる崖。逃げ場はなく、空でも飛べないと落下してお終いだ。だけど俺の目的地はここで合っていた。全身の体重を片足に乗せて言う。

「着いてこいよ。俺の覚悟が本物だって――証明してやる」

 そして、空中に身を投じた。浮遊感が襲う中で体の向きを変えると、なおも真上から降り注ぐ封し鳥の群れ。このままでは地面にたどり着く前に魂を奪われてしまう。眼前の蒼い流星群に悲鳴を上げたくなりながら、あらん限りの声で友の名前を叫んだ。

「シュリーッ!」

 迫る地面の上に、優美な剣を掲げて立つシルエット。地面が近づいてくるにつれて見えてきたのは、柔和に笑う黒髪の青年だ。

 シュリは俺が封し鳥を惹き付けている間に、この森のさらに向こうから疾駆して現れた。他の追随を許さない常識外の運動能力が、あれしきの『時間稼ぎ』で芸術家に悟られないまま出現することを可能にしたのだ。

 漆黒の瞳が紅色に染まる。彼が魔術を使う際に時折見られる現象だ。ただ色が変わるだけなのに、敵意を抱かせない優しげな表情が、悪魔をも射殺す“英雄”のそれになった。淡い光が腕を伝い、掲げた剣へと熱が溢れ出す。

「“フレイミア”」

 逞しい剣先から細く燐光を纏う炎が伸びた。糸は空中で無限に分裂し、瞬く間に渓谷上部に広がっていく。彼の家名と同じ名を与えられた炎がいつかと同じように鳥籠を模し、切迫する小さな鳥の群れを包み込んだ。

 一方で落下を続けていた俺は、美しい魔術と上空で囚われている“封し鳥”の群れを見上げる間もなく、ポーチに詰めていた“爆風札”を引き千切って地面に投げつける。巻き起こった風によって一度体が浮かび上がり、新たな落下地点から地面に落ちた。

「ひぐっ」

「ルミー、大丈夫かい」

「シュリの方が大変なのに、心配されるわけにもいかないだろ。いてて……」

 シュリはまだ余裕のある表情ではあるが、常に上空へと魔術を放ち続けるのはいかに“ルディナの英雄”と呼ばれる者だとしても厳しいだろう。

「君の予想通りだ。“封し鳥”たちは炎を抜け出すつもりだよ」

 彼の言葉に「ああ」と短く返した。渓谷への侵入を阻まれた“封し鳥”たちは一斉に舞い上がろうとする。おそらく渓谷に入るための別のルートがあるのだろうが、当然それも織り込み済みだ。

「頼りにしてるぜ。戦闘狂」

 遠くから力強い蹄の音が鳴る。ここからは拝めないが、渓谷の上に居るはずの大きな白馬の足音と、その上に乗る主人――【青の騎士団】団長ガルシアンの気迫が夜空へと響き渡った。

「おおおお――ッ!」

 今度は水の檻が渓谷の上から降り注いだ。滝の勢いが“封し鳥”の逃げ道を塞ぐ。吹き上がる炎と組み合わさり、赤と青の二色が半々に分かつ牢獄となった。渓谷を覆い尽くさんばかりの魔術の塊は上昇する熱波と重なり、とてつもない圧力を生み出す。莫大な魔術を扱える騎士団長たちの力技だ。

「名付けて『“封し鳥”封印作戦』だ。抜けられるもんなら抜けてみろ!」

 これが作戦の第一フェーズ。触れたら終わりという厄介極まりない“封し鳥”を猛者二人の力で無力化する。本来はガルシアン一人で担当するはずだったが、目の前に立つ友人が協力してくれたおかげで大きく負担を軽減できた。

「アアアア――!?

 “封し鳥”の群れは、煽っても抵抗できないくらいに拘束されていた。捕縛は完璧で、これならば作戦を次の段階に進めることができる。

「ルミー。君は早く、奴の元へ」

「ああ、待っててくれ。今から“感知のまじない”で奴を探……」

「気配は探っておいたよ。向こう側の手前右から二番目の穴蔵。あの辺りで唯一、地面に隣接している穴だ」

 視線は上に向けたまま、剣を持つ方とは逆の指で対岸の穴蔵の一つを指差した。シュリの用意周到さと頼もしさに笑いすら込み上げる。

「本当に頼りになるよ。ありがとう、シュリ」

「“友”ならば、その道を手助けするのは当然なのだろう?」

 優しさに満ちたその言葉は、今の俺にとってはあまりにも都合の良い台詞に聞こえてしまった。シュリのおかげで絶望的な状況に抗い続けることができた。マイを奪われても立ち止まらなかったのは、間違いなく彼が居てくれたからだ。

「なし崩し的に協力してもらっちゃったけど……いつか、胸を張ってシュリの隣に立てる支援者になってみせるよ」

 小さな太陽を見上げる横顔が僅かに笑う。いつもの社交的な笑みではなく、本当に愉快そうだった。

「とても楽しみだ。だから、死なないでくれよ」

「ああ。行ってくる」

 誓い、約束。この数日で交わしたもの全てを抱いて走り出す。炎の隙間から見えた崖上には、青髪の男が居た。交えるアイコンタクトは、出会った頃のような睨み顔ではない。

 洞穴に入った瞬間に“暗視のまじない”を再度自分に使う。全速力で進んだ先には岩肌があるが、これはただのハリボテだ。俺は腰に差していた指ほどの長さの棒を一本引き抜く。この日のために作っておいた“爆裂札”付きのピック。それを壁に向かって投擲すると、鋭利な先端が岩肌に突き刺さった。

 そしてすぐに小さな爆発が起こる。ベルトから抜いた瞬間に破れるよう細工した新しい武器――“遠隔爆裂札”は五本だけ用意できた。“呪術”をどうにか攻撃手段に転用させた代物だが、直接当てない限り大した有効打を生み出すことはできないという欠点がある。

 果たして、幻の壁は蜃気楼のように消えていく。そのもっと奥に歩くと、自然の中にあるはずがないキャンドルの光があった。その明かりに照らされる忌々しい漆黒のマント姿。

「来たぞ。芸術家」

 話しかけると男はフードを脱ぎ、骸骨を想起させるような痩せこけた青白い顔を見せた。窪んだ目の底は感情が読み取れず実に気味が悪い。しかしそれ以上の激情が恐怖をかき消していた。男は喉仏を動かし、声をひっくり返しながら言う。

「おやァ……“英雄”も騎士も置いて来て、出来損ないの呪術士がたったお一人ですかぁ?」

「お前程度なら、俺一人で十分だってことだ」

 ニヒルに笑って見下すと芸術家はあからさまに表情を歪めた。相当お気に召さなかった様子だ。それを見て、表情にもっと笑いを加えてやる。

「勝負だ――マイを返してもらう」

「随分とぉ……身の程知らずですねぇ」

 互いの怒りがヒートアップしていく。ここがルミー・エンゼの大一番。この場所で、アルト・ワイ・ヘロスリップを打倒する。
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