第12話 親愛――Trust

文字数 3,249文字

※――――――――――――――――――――――

 最近、何度も同じ夢を見る。

 幸せだった昔のこと。母と父と兄、そして私。家族四人が揃って寛ぐ、小さな屋敷の他愛ない一幕だ。高価ではない花瓶に生けられた庭の花。薪をくべた暖炉の近くには母が大事にしていた傘がある。大きくなってからルディナ王国ではあまり傘を使う文化はないと知ったのだけれど、セアル家では私の祖父よりもずっと前の時代から使っていたらしい。

「これはね。私が悲しくて泣いていた時、一番に雨を避けてくれた傘なのよ」

 夢を見るまで忘れていた、日常にありふれた母の言葉。鮮明に思い出すことができたのは、それを言う母の表情が少しだけ子どものような幼さを見せていたからだと思う。

「マイもいずれ、そういう人と巡り会えるわ」

「傘が人になるの!?

 子どもの私が天地がひっくり返ったみたいにびっくりすると、母は「違うわよ」と朗らかに笑った。

「マイが困ったり、大変になった時……本気で助けを求めたら、きっと誰かが助けてくれる。この世はとても不平等だけれど、優しい心を持った人もたくさん居るの」

 母はそうして私に希望を持たせようとした。セアル家が他の人々との関わりが薄いことは何となくわかっていたから実感なんて生まれない台詞だ。だからか、母は必ず「だけど」と置いてこう付け加える。

「もし本当に困ったら、王都に行きなさい。頼もしい騎士様が、必ずあなたたちを導いてくれるわ」

「母さん、そればっかじゃん」

 兄がしばらく振りに笑った。いや、思い出す表情はいつも笑顔だった。子どもの頃に持っていた無邪気さは間違いじゃない。私の心の中に居るキッグという存在は、母譲りの綺麗な赤髪をいつも泥だらけにして遊んでいた。

 そんな兄と一緒に風呂に入り、洗った髪をタオルでわしゃわしゃと拭くのは父親だ。父は元々貴族だったが家の方針に納得がいかずに飛び出してしまったらしい。そして行き倒れになりかけたところを母に助けられ、結婚しセアル家の名前を背負うことになった。だから父はいつも母に白髪混じりの頭が上がらない。

「良いじゃないか。母さんにとって、唯一無二の良い出会いだったんだよ」

「あら、あなたもよ」

 さらりと言われた父は黒い髪を掻きながら照れ笑う。兄はそれを茶化し、父親に捕まってわぁわぁと騒いだ。

 母はいつも言葉を惜しまなかった。いわく「伝えられる時に伝えないと後悔するから」らしい。きっと聡明だった母にも、悔やんでも悔やみきれないエピソードが存在したのだ。だけど私はずっと夢を見ていたい気分で、ついぞその後悔を尋ねたいとは思わなかった。


 伝え続けられてきた絵画のように、その一瞬を見続ける。優しく諭す母の口元。笑顔を絶やさない兄。和やかな父の大きな手。幸せな家族に囲まれる幼き日の私。見るだけの、今の私。


 名画には段々と亀裂が入っていく。最初に母の姿が消えて、父が顔を伏せる。兄の目は優しさから遠ざかっていき、瞬きをしたら、悪辣で猟奇的な顔で父を嬲り続ける化け物の姿に変容してしまった。

 兄は父の絶叫を無視しながらその皮を剥いだ。指を焼き切り、目を抉った。景色は一変し、広がるのは地獄絵図に他ならなかった。

「やめて!」

 絵に何を叫んだって意味はない。頭ではわかっているのに、みっともなく両腕を振り回す。

 壊したくない。壊れて欲しくない。いつまでも綺麗なあの過去の中に居たい。今の私でも何でも画材にして、ほんの僅かな背景だけでも塗り直せば。

 そうして、どうしてかそんな願いだけは叶ってしまう。絵に触れた両手がドロドロに溶け出して染めて行く。このまま身を任せれば、私も美しい世界に行ける。刹那の喜びと、望まない世界の変容に気づいたのは殆ど同時だった。

「いやっ……いやぁっ!」

 黒だ。ドブの臭いがする不純物の黒。私から滲む穢らわしい血の香りが鼻腔ごと絵画を塗り潰す。やがて黒が暖炉の火を消し、辺りには私の残響と暗闇だけが残った。

 泥は新たに生まれ出る。地面から泡のようにボコボコと浮かび、歪な体の『それ』を象った。腹に穴が空いた人じみた『それ』は、ケタケタと醜悪に笑った。

「お前が全てを持って来てくれた。これが結果だ」

 嘲る兄の表情が思い出の全てを破壊する。

「生まれてきてくれてありがとうなぁ、マイ」

「……あ」

 その音が全てを奪い去った。抵抗する想いも、飲み込まれんと踏ん張る足も。体は黒い沼に落ちていく。底なしの恐怖が私の何もかもを引き摺り込み、帰る家も失くしてしまう。永遠に戻ることができない闇の先へ――

「大丈夫」

 声は突然聞こえた。励まそうとするのに掠れ切ってしまった痛々しい喉。だけどどんな騎士よりも頼もしくて、暖かい。

 沈みかけた顔を上げる。その先には暗闇に入った一筋の光の糸があった。溶けてしまった腕で手繰り寄せるように空を掻く。届かない私の腕を、光は導くみたいに掴んだ。

「呪いは晴れてる」

 光は私を包み込んだ。

 そうして私は目を覚ます。汗でずぶ濡れになった背中が冷たさを感じて、初めて現実への帰還を果たした。

 私の手が掴んでいたのは、小さな小瓶だった。中には発光し続ける紙片が入っていて、明かりの消した部屋をランタンのように照らす。

「呪いは、晴れてる」

 深い夜。与えられたおまじないの言葉を呟いて、もう一度目を閉じた。そうすれば、暗い夜は自ずと明けてくれたから。



 私にとって、あなたは希望の光そのものだった。だからこれからも背中を追い続けられることが嬉しく、同時に辛くもあった。

 私は守られているだけだ。出会った鉱山の中、王都の中。そしてドゥーマ封印の遺跡。ずっと、真っ暗な闇の中を照らされ続けている。あなたが私を危険から遠ざけようとするほど、私にはあなたに並び立つ資格が無いんじゃないかと思った。ハリエラさんのように強い人や、トウマさんのようにあなたを理解している人でないと、優し過ぎるあなたの隣になるには役者不足。

 だけど諦めることはしたくなかった。私にだってあなたを守る力があるのだと信じたかった。兄に植え付けられた無力感を黙殺して、あなたが【アメトランプ】で庇ってくれたのを無為にしてまでここまで付いて来た。

 しかし結果はどうだっただろう。王都に着いてから私の身の安全を交渉してくれたのはあなたで、スラム街で襲われた時も何の役にも立たない。誰かを守れる人になる――見出した夢は追いかけることさえ険しい道のりだった。

 散々迷惑をかけて、何度も命の危機を救われて。その度にあなたは怪我した顔で笑うのだ。「大丈夫」と。笑顔を見る度、内心その強さに甘えていた。あなたが大丈夫と言ってさえくれれば、きっと大丈夫なのだと。あなたが私なんかよりも弱いことを知っていたはずなのに。

 変わりたくて、でも変われなくて。生まれ持ったものや短い人生の中で得たことだけでは何もできない。あなたはゆっくりで良いと言ってくれるのだろうけれど、私は今すぐにあなたにとっての「何か」でありたかった。


 だからあの青い炎が見えた時、私の体は勝手に動いていた。もしもあなたを助けられることがあるとすれば、これが最後のチャンスになるから。

 胸に仕舞っていた小さなランプが落ち、かしゃんと光が溢れ出す。割れたガラスは私を傷つけまいと遠くの場所に散っていった。

 ――こんなこと、面と向かってなんて言えないんですけれど。

 あなたのくれた光を傍に置くと、あなたの隣に居られるような気がしていたんです。それは目標であって、あなたがくれた光を忘れたくない気持ちもあって。この気持ちの正体に気づいた時には、いつの間にかあなただけは名前で呼ぶことができなくなっていました。

 だから、せめて最期だけでも。

 この想いを覚えていてくださいね。

「好きです」

 聞こえたかどうかはわからない。あなたの後ろ背しか見えなくて。

 ――返事、聞きたかったな。

 想いと一緒に視界が蒼く染まる。昏迷に誘われる中で、あなたが名前を呼んでくれた気がした。
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